1
ハリウッドの映画監督フィリップから、一条を通して相談がきた。
「このサーキットで撮影したドキュメントをテレビで流したところ結構反響があって、まあ色々あるらしいのですが、監督のフィリップはレンハムGTの登場した映画の続編を撮りたくなったらしいのです」
一条がみんなを集めて説明する。コータのレンハムGTでの走りは、やはり相当なインパクトを与えたようだ。
「それでどうしようって?」
「フィリップの希望としては、レンハムGTを返却してもらって、手持ちの別の車と交換できないかと」
「いやいや、それは虫が良すきるだろ」
サンドロが相手にならないと笑い飛ばす。
数日後、フィリップが弁護士を連れてやってきた。
「私が軽く考えていて申し訳なかった。弁護士と相談したところ、双方の要望を調整して改めて契約書を作成するのがいいだろうとなった。検討してもらえないだろうか?」
予期せぬ展開に、当事者のジョージが驚いた。フィリップの熱意は相当なものだ。事を荒立てたくもない。だが、自分だけの問題ではなくなっている。ジョージはコータを同席させた。
コータは考え込む。最高に近いお気に入りを手に入れて日々至福の気分だ。永遠に続くとは思っていないが、終わりが早過ぎる。しかし、自分は漁夫の利を得たようなもので、口出しするのは違う気もする。
「ジョージに任せますよ」
としか言えなかった。
「とりあえず手持ちの車ってのは何があるんだい?最初の約束通りクーパーt49を出すなら応じてもいい」
フィリップは弁護士と小声で相談する。
「クーパーt49は出せない。なぜならクーパーもまだ使う計画があるからだ」
ジョージはフィリップの差し出したファイルをぱらぱらめくる。フェラーリなどの高級スポーツカーもあるが、しっくり来ない。ふとある写真で手が止まった。
「これは…」
「ランダーr6、おたくにもあるだろう。10台しか作られなかったらしいから、かなり希少だな。それは入手したはいいが、見ての通りかなりレストアが必要でね。映画の制作プランも湧かないからそのままにしてある。エンジンは生きてる」
「これは交換OKなのか?」
フィリップはまた弁護士と小声で確認する。
「こちらとしては痛手だが、応じてもいい」
コータが驚く。ランダーを手に入れてどうしようと言うのだ、名手の純をもってしてもこのサーキットのレベルの進歩には太刀打ちできなくなっている。
「条件として、監督さんの知ってるランダーr6の情報を教えてもらいたい」
「現状での引き渡しでいいのだね?」
「ああ、構わない」
「それなら…」
話はまとまった。
2
フィリップはホワイトのランダーr6と共に、ランダーについて彼の知る限りの情報を、丁寧に書簡で綴ってきた。それによれば、
Lander R6は、19世紀後半にまで遡る本物のレーシングカーの歴史を持つ会社によって製造された、あまり知られていないが、非常にクールな60年代のキットカーである。同社は1895年にアーネスト・ランドールという名の起業家によって設立され、正式にはE. A ラドナルカンパニーとして知られていた。当時、イギリスではサイクリングが大変人気の娯楽となりつつあり、アーネストはペニー・ファージング・レーサーとして活躍していた。彼は愛好家を魅了するアクセサリーの製作を始めた。1906年、彼は独自の247ccエンジンを搭載したラドコを発売し、オートバイのラインナップに加わった。ラドコは「軽量級の王者」というニックネームで呼ばれていた。1910年までに、彼はペダル式や電動式のバイクの愛好家向けにオートバイ、自転車、アクセサリーを製造しており、ノートン、マチレス、AJS、ロイヤルエンフィールド、トライアンフなどイギリスの大手オートバイ製造会社も彼の部品を採用していた。ラドコのオートバイは1930年代半ばに排気量を610ccまで拡大したが、アーネストが部品を製造していた企業が結託し、自社バイクの製造に不満を訴えたため、成功は失敗に終わった。その後、彼は再び自転車の製造に専念するようになった。
アーネストの孫であるピーターとクライヴは学校卒業後に会社に加わり、会社を活性化させた。モータースポーツ愛好家だった彼らは、ランダー・コンポーネンツという名前で事業部門を設立した。当時、アーネストの息子テッドが会社を経営していた。
「Landar」という名前の意味を探している人は、Radnall を逆から書いて「L」を1つ省けばよい。ランダーは英国のモータースポーツ界で高い評価を受けるようになり、ピーターに与えられた500ccのBSAゴールドスターエンジンを搭載した「スペシャル」から始めて、独自のレーシングカーの製造を始めた。1959年5月のマロリーパークでのデビューレースで、23歳のピーターは2位に終わった。
同社が独自のLandarモデルを正式に発売したのは1962年で、ミニサブフレームとチューブラースペースフレームを備えたリアエンジンを搭載した最初のモデルであるR1が登場した。同社はAシリーズエンジンを独自にチューニングし、クライヴ・ラドナルはヒーナン&フロイデ社のダイナモで腕利きだった。
R6は、レース志向が強く残っていたものの、キット形式で販売された最初のモデルだった。1965年1月にレーシングカーショーで発表され、多数の注文が入った。R6のプロトタイプボディは、ウェイクフィールド・アンド・サンズ社で製造されたが、量産ボディはウィリアムズ・アンド・プリチャード社に委託された。当時、同社にはGRP部門があったからだ。
Landar R6キットカーは一般的に過小評価されている。例えばガード・スポーツ・レーシング・チャンピオンシップでは、ロータス11、ディーバGT、エルバの大群に確実に匹敵する実力を発揮した。希望者には、ブロードスピード・チューンのクーパーSパッケージというオプションが用意されていた。当時、ラドナルズには著名なドライバーが数名在籍していた。ミニレーサーのジョン・ハンドリー(1968年ETCCチャンピオン)や、WECのビッグネームであるジョン・フィッツパトリックといった実力派ペダラーが、ラドナルズで定期的に活躍していた。彼らはブロードスピードとうまくやっていき、ラルフ・ブロードのためにさまざまな部品を製造したが、後に彼の工場長マイク・ケニーを引き抜いた。
Lander R6sは、ロジャー・パートの指揮の下、カナダのスポーツカー選手権でも好成績を収め、ジョン・ヒルは米国のSCCA選手権で成功を収めた。
ランダーはまた、1965年に英国初のフォーミュラVカーを製造し、その選手権を独占していたヨーロッパのメーカー、オーストロとオートダイナミックと戦ったという栄誉も主張している。正式にはR5と命名されたこの車は、英国のVW輸入業者モーリス・クリーバーの発案によるもので、スミスフィールドとも呼ばれていた。これはフォーミュラVのVWワークスチームであるスミスフィールド・ガレージの名前に由来している。
1960 年代半ばまでに、クライヴとピーターは父テッドからラドナル事業全体を引き継ぎ、社名を EARadnall & Landar Components に変更した。
ジョージは感慨深く読みいった。
「なぜ今になってそんな情報を?」
コータは不思議に思って聞いた。
「ずいぶんと長い間あの車と一緒に居ながら、ほとんどあの車については知り得なかった。ああ、純にも聞かせたいから呼んでくれ」
「今回は馬鹿な選択をしたと思っているかもしれない。だが、あの車の写真を見た時に、ある男の顔が浮かび、彼がこれを選べと俺の頭の中に訴えてきたんだ。その男は俺たちがサーキットを立ち上げた時からの常連で、毎週走りに来ていた。愛車のランダーr6を俺のガレージに預けてな」
ジョージは懐かしそうに話し始めた。
「こんな山奥だから、ろくな整備士もいやしない。ある時、彼はエンジンの不調を感じて、俺に見ておいてくれと言った。俺は元々販売上がりで店を持ったから、そんな知識なんてなくて、桃田に相談したが奴もイギリス車は専門じゃないと言う。とりあえずの応急で、ミニクーパーSのエンジンに載せ替えて走れる状態にして、元のエンジンは倉庫に保管した。いつかメカニックを雇って見させようとな。ところが…」
ジョージは少し声を詰まらせる。
「毎週走りに来ていた彼が、その後全く姿を見せなくなっちまった。天涯孤独だとは聞いてたから何かあったなら大変だと気になって、携帯に電話してみたんだ。そしたら出たのは警察だ。原因はよく分からないが路上で倒れてそのまま死んじまったらしい。連絡先も分からなくて困っていたところに俺が電話した訳だ。遺族がいないなら遺骨を引き取ってもらえないかとなって、サーキットのメンバーで葬ってやった。それでランダーが残されちまった。構内車両だから登録も何もない。そのまま俺の物ってなった。それから純がやって来て、ランダーに惚れちまって、今に至るだ」
そうだったのかとコータは思った。何処かの誰かと似たような話だ。
「ちょっと待ってくださいよ、それじゃランダーの本来のエンジンは別にあるって事ですか?」
純がにじり寄る。
「今まで何で話してくれなかったんです?」
「うーん、お前はあれで十分ダントツに速かったし、話せばすぐにでも倉庫に入り浸りになっちまうだろう。ところが最近、お前が落ち込んでるのを見て、そろそろ潮時だとは思っていた。だが、長い間話さずにいたことをどうやって切り出していいやら思いあぐねていたところに今回の件が起こり、彼が現れた。彼は自分の宝物を大事にしてくれている純に、車のことを出来るだけ詳しく伝えて欲しいようだった」
フィリップによれば、ホワイトのランダーr6の性能は、
「このR6には他の多くの個体同様にブロードスピード・チューンの1275ccから1293ccにボアアップされたクーパーSエンジンが搭載され、後に当時としては異例の8ポートアーデンクロスフローヘッドが取り付けられた。ヘッドが10.5:1、ビッグ・カム1-1/2 SUツインキャブで、95馬力、最高回転数は従来の6500回転から8000回転まで上げられている。車体乾燥重量は450kg」
「ちょっと待てよ」
純が不思議がる。
「俺の受け取ったランダーr6は乾燥重量490kgだぞ?」
3
純はまず倉庫の片隅に仕舞われたランダーr6の純正エンジンを見た。
「何だこれ!SUキャブじゃなくてウェーバーの45DSOEじゃないか!それにマニホールドも違う。ダウントン製か」
純はマニホールドに刻まれた製造元を読んだ。
「こいつは95馬力なんてもんじゃない。105馬力は出てるぞ!」
純はランダーr6の純正エンジンをガレージに運び込んだ。
「ジョージ、こいつを全バラ整備していいですよね、空き時間でやりますから」
ジョージが頷く。
「それと、ホワイトのランダーはもちろん…」
「ああ、コータに乗ってもらうつもりだ。断られなければな」
コータは再び夢見心地になった。
「車体の修復は頼むぞ」
「もちろんです」
「じゃあ、その間にこいつと同じエンジン部品を手配しておくよ。同じ仕様で決戦だね。そう言えば」
純は赤いランダーr6の車体を丹念に調べる。そして助手席シートを外してみて驚いた。そこには厚み1.5cmで50cm×40cmの鉛板が敷かれているではないか。重さは40kgになる。
「こいつは!」
ジョージが言葉を失う。いつからか分からないが、おそらくは速過ぎるランダーr6へのハンディキャップとして積まれ、そのままにされたのだろう。
「なんてこと、俺はいつも助手席に見えない彼女を乗せてレースしていたのか」
純が笑った。
アンドリューは帰り際のフィリップに頼み事をしていた。フィリップは仕事柄クラシックカーの流通動向に詳しい。
「まあそれはいいが、そろそろ復帰する気はないのかい?私なら君を主役で契約してもいい」
主役という響きにアンドリューはそそられる。
「決着付けたら考えますよ」
フィリップのドキュメントはまた思わぬ波及をしていた。アメリカのエンスージアストたちの中からわざわざノスタルジックサーキットに自慢の愛車で乗り込む者が現れたのだ。その中のひとり、イェシェマルク・フォン・マレンスキーはいきなりオープンレースを制した。稲垣のトミーカイラZZ-Sとの一騎打ち、コースレコードも更新した。彼の愛車はジネッタG4、パワフルな上にコンパクトだ。
ジネッタG4は、1959年から1968年と1981年から1984年にかけて、イギリスの自動車メーカーであるジネッタによって設計、開発、製造されたスポーツカーである。全長3353mm×全幅1422mm×全高1067mmと、現代の軽スポーツカー、ダイハツ・コペンやホンダS660よりもコンパクトにまとめられていた。また、ホイールベースも2045mmに過ぎず、初期モデルは車両重量僅か385~580kgと極めて軽量に抑えられていた。フォード10SEエンジンが積まれ、フォード製の1.3L直4OHVエンジン(最高出力90hp)も用意された。これを選んだ場合の最高速度は193km/hに達した。ステアリング形式はロック・トゥ・ロック2.7回転のラック&ピニオン式で、ブレーキは当初は4輪ドラム式であった。
マレンスキーの愛車は1700ccケントOHVを積み、165馬力/8500rpmを絞り出す。乾燥重量650kgで、パワーウエイトレシオは3.9に過ぎない。
その月のショップ対抗戦に特別枠で参加したマレンスキーは、文佳、一条、アンドリューを抑えて勝利した。コータと純は車が完成せず、不参加だった。
「このまま勝ち逃げかい?」
アンドリューが初老の紳士マレンスキーに尋ねた。
「そうだなあ、コースレコードが破られたならまた来よう。まあ、頑張ってくれたまえ」
と不敵に笑う。アンドリューは感情を抑えられない自分を感じた。
4
アメリカ連邦捜査局FBIは、秘かにイェシェマルク・フォン・マレンスキーをマークしていた。というのもフィリップのドキュメントに収められた賭けレースの2人組はヨーロッパマフィア、ブラッドパクト(血の誓い)の幹部と見られ、アメリカで指名手配を受けた後、行方をくらませた。ブラッドパクトはFBIとインターポールの合同捜査によりほぼ壊滅状態にあり、残るは数人の幹部だけと見られている。マレンスキーは表向きオーストリア貴族の末裔だが、ブラッドパクトのドンという噂が漏れ聞こえる。だが、FBIが監視を続けてもマレンスキーはボロを出さない。
ブラッドパクトの資金源は主に麻薬であったが、それはインターポールによりほぼ封じられ、密売に関わる者は次々と逮捕された。それでもブラッドパクトの財力は落ちず、他の資金ルートの存在は確実でありながらも明らかにならなかった。FBIの捜査でようやく浮かび上がったのがヴィンテージカーであった。全米各地で互いの車を賭けた闇レースが後を絶たず、奪われた車はオークションに出されることなく個人売買で消えていく。書類は完備されていて合法的な取引だ。その購入顧客のリストアップにどうやらマレンスキーのカーコレクター人脈が使われ、謎の2人組が暗躍しているようだった。彼らは常に偽名を使い、取引名義には雇ったと思われる素人を立てるため、尻尾がつかめなかった。氏名不詳で指名手配が出され、彼らはアメリカから消えた。
捜査員はマレンスキーと謎の2人組の接触を押さえようと監視を続けているが、未だに成果はなかった。
「変な外人たちがサーキットの回りをうろついているよ」
カヨが気付いたのはスーツ姿の2人組で、どうみてもサーキットの客ではない。写真を撮り、サーキットの入場者に注意喚起を促した。マレンスキーもそれを見て、間抜けなFBIだと秘かに笑っていた。
フィリップがアンドリューから依頼されたのは、ロータス15という車種を探すことだった。
ロータス15は1958年にロータス11をベースに開発された。非常に競争力が高く、パワフルでありながら、希少な車である。ロータス11が270台製造されたのに対し、ロータス15は当時わずか27台しか製造されなかった。ロータス15は勝利のために作られた車であり、コベントリークライマックス社のFPFエンジンが積まれた。FPFは本格的な1.5リッターF2エンジンで、1475cc/7300回転/141馬力の性能を持ち、11.9kg/cm3という最大トルクに近いトルクを4000から7500回転まで発揮し、有効パワーバンドが広いというクライマックスエンジンの特徴はその後のシリーズに受け継がれる事となった。その後FPFエンジンの排気量は2リッター(180馬力/6750rpm)から2.5リッター(240馬力/6750rpm)に引き上げられたが、現代のヒストリックレースではエンジンの最大排気量は2リッターに制限されている。それは、アストンDBR2、リスター・ジャガー、モナコ・クーパー、フェラーリ250SWBなどといったライバルたちとの競争を抑制するためである。
全長3597mm×全幅1524mm×全高610mm、ホイールベース2235mmのコンパクトさで、乾燥重量450~562kg。
サスペンションはフロントにダブルウィッシュボーン、リアにはチャップマンがパテントを取ったチャップマンストラットが採用され、スポーツカーとしては初めて独立懸架を採用したモデルでもあった。
ロータス15のスタイルは大ヒットモデルの11に酷似する。11は空力の鬼才、フランク・コスティンがデザインしたものだったが、実際にボディを作ったのは主としてレーシングカーを専門に作っていたコーチビルダーのウィリアムズ&プリチャードによるもので、コリン・チャップマン自身のアイデアを具現したものだった。
フィリップが見つけてきた15は、2リッターのFPFを積み、車重は510kg。パワーウエイトレシオはなんと2.8のモンスターである。
「知ってると思うが、レアだから高いぞ」
「覚悟の上です」
これでアンドリューの蓄えは底を付くどころかマイナスだ。ロータス11に運よく買い手が付いた事で借金は作らずに済む。だがもうこれ以上日本で遊ぶ余裕はなくなる。アンドリューは残された時間を有意義に使おうと、サーキットの面々と交流を深めながら船便の到着を待った。
ブラッドパクトの謎の白人2人組はアメリカに帰国したマレンスキーに連絡を取った。
「どちら様ですかな?私に何か御用でも?」
マレンスキーは惚ける。電話はおそらくFBIが盗聴しているからだ。
「ええちょっと緊急でお頼みしたい件がございまして」
「では後ほど使いの者を差し向けますので。こちらの番号へ滞在先などお伝え願いますかな、xxxx-・・・・」
間抜けどもめ、マレンスキーは憤慨していた。車の調達に失敗した上に、日本のポリスに面が割れている。少しでも動けば奴らはインターポールに捕まるだろう。頼みの資金源が途絶え、組織はもう維持できそうにない。格なる上は自分を完全にロンダリングして、何処かに紛れ込むしかないだろう。
マレンスキーはコレクターたちに自分の抱えるヴィンテージカーを売り渡し、スイス銀行に資産を厳重に保管させた。そしてジネッタG4を携えて日本に向かう。
ホテルに滞在するマレンスキーに連絡係りが報告にきた。フロントで便箋をもらい、詳細を手書きで綴ってマレンスキーに届けるように頼む。それが一番証拠を残さないやり方だ。マレンスキーは手紙を読んだ。
「あの方々は窮地にあって、ボスの助けを望んでいます。指示通りにシンガポールへ渡る手筈を伝えました。決行は明後日にしてあります。ボスからの連絡がなければ予定通りに決行します」
マレンスキーは読み終えた手紙を灰皿で焼却した。
成田空港、謎の2人組がラウンジで連絡係りと落ち合う。税関を通ろうとすればおそらくインターポールに捕まるだろう。
「私がFBIのふりをして、お二人を連行します。ロサンゼルス経由でシンガポールに渡っていただきます」
2人組は頷く。
「ボスに報告をしてきますので、カクテルでも飲んでお待ちください」
連絡係りは指をかざしてカクテルを頼んだ。ボーイがテーブルに置くと立ち去る。2人はカクテルを口に運び、苦しみを覚えて命を絶った。これが組織のやり方だ。
マレンスキーがノスタルジックサーキットに訪れたのはフィリップのドキュメント番組を見たからではない。自分の最期の牙城を崩した面々を拝んでおこうと思ったためである。つぶしてやってもいい。だが自分の目で確かめた結果、利用価値がありそうだと感じた。
5
純はカールの手も借りて赤のランダーr6の純正エンジンを分解洗浄した。不調の原因はバルブスプリングの固着により高回転で作動不良を起こしていたようだ。スプリングを新品に交換し、再び組み上げた。
コータも白いランダーr6のシャシーとボディのレストアを完了させた。純の発注したキャブレターとマニホールドも届き、純がエンジンに取り付けた。
「これで全くのお揃いだな」
純が満足そうに笑い、コータもああと笑った。2人のランダーr6は共に450kgで105馬力、パワーウエイトレシオ4.3と、見違えるほどの速さを得た。
夕刻、客が引けたサーキットに純とコータは繰り出す。2周ほど車の出来を調べるように流すとペースを上げた。
純は別物のようなランダーに驚いた。パワーが増えて加速が良くなっただけではない。ブレーキングもコーナー切り込みへの応答性も全てが向上している。-40kgの効果は絶大だ。
コータもこれまで乗ったことのないハイレベルな世界に圧倒されていた。RRもFRも楽しい。だがミッドシップというレイアウトのこの自然で素直な応答性はなんだ。ほんの数ミリのステアリング操作に敏感に反応する。それだけに極限の走りでは極限の集中力が要求される。
2人はタイムアタックにトライした。付かず離れずのランデブー走行、各ショップの面々が身を乗り出して注目する。ゴール!電子計測はどちらもマレンスキーのレコードタイムを上回り、純が3/1000秒だけコータを上回った。
「こいつらは全くやってくれるぜ」
アンドリューが軽く唇を噛む。もうすぐ彼にも楽しみがやってくるはずだ。
マレンスキーはノスタルジックサーキットのホームページで自分のタイムが更新されたことを確認した。
「さて、約束通り出向くとするか」
マレンスキーはノスタルジックサーキットにほど近い村の広大な空き地を購入し、洋館を建て始めた。
「騒がしくしてすまないね、私はこのサーキットを含むこの土地がとても気に入った。移住を決めたのでよろしく頼むよ」
サーキットを訪れたマレンスキーが挨拶して回る。アンドリューを見つけると通訳を頼んで案内させた。
「おお、君が新しいレコードホルダーか。まさかこんなに早く私の記念碑が破られるとは思ってもみなかったよ。今度是非お手合わせ願いたい」
純を見つけて気さくに話し掛ける。とにかく馴染んで空気のように溶け込んでしまうことだ。
一方カヨは再びスーツ姿でサーキットの回りをうろつく2人組を見つけ、どうしたものかと思案する。丁度、一条が来てくれたので同行してもらい注意してみることにした。
「ちょっと、アンタたち、前も来てたでしょ。何企んでるか知らないが、用がないならとっととお帰り!」
2人組は不意を衝かれて顔を見合わせる。
「仕方がない。我々はFBI、アメリカ連邦捜査局の者だ。今ここに来ているアメリカ人を監視している」
「え?捜査官なの?」
カヨは予想が外れて決まり悪そうに一条の後ろに隠れる。
「そうだったのですか、どういう容疑で監視しているのですか?」
一条が訊ねた。
「それは・・・民間人に明かすわけにはいかない。とにかく我々の妨害をするようなら日本の警察に君たちの確保を要求することになる」
「いや妨害するつもりはありません。ただここでそのスタイルは結構異様に見えますよ。よかったらそれなりの身なりをお貸ししましょうか?」
「不要だ」
FBIの2人は道端に隠すように停めてあった黒塗りのトヨタクラウンに乗り込み、外から見えにくいように腰をずらしてかがみ込んだ。
サーキットの中ではマレンスキーの話にみんなが引き込まれていた。
「・・・とにかくロサンゼルスの社交付き合いには少々嫌気が差しましてな、ここに居を移そうかと思った訳ですわ」
文佳がカヨを見つけて擦り寄る。
「社長といい雰囲気ですね」
「バカ、そんなんじゃないわよ」
カヨはマレンスキーをじっと見詰める。この人当たりの良さそうな紳士は別の素顔を持っているというのか。
6
マレンスキーは連絡係りの男を執事だと紹介した。一条やアンドリューに続き、サーキットの暇人3号として徘徊する。ジネッタG4はヒストリックカークラブのガレージで保管してもらうことにした。
アンドリューが忙しなくゲートの回りをうろうろする。今日は待ちわびた物が届く日だ。車載トラックがやってきてアンドリューの興奮はマックスに高まった。みんなアンドリューのそばに集まる。トラックから降ろされた車を見て、誰もが首を傾げる。
「またロータス11?」
アンドリューはフッと笑った。
「そうじゃない。見分けがつかないほど酷似しているが、こいつはロータス15、ロータス史上最高のFRレーサーさ」
君たちが逆立ちしても勝てる相手ではない、という言葉をアンドリューは飲み込んだ。結果を見て驚かせる方が面白い。
成田空港で起きた謎の外人2人組の死亡事件、警察もFBIもインターポールも状況からして毒殺を疑ったが、司法解剖の結果では不審な薬物は検出されなかった。FBIはマレンスキーに繋がる最後の糸を切られ、完全に暗礁に乗り上げた。
「我々は本国に引き上げる。後は日本の警察にお任せしたい」
警察は事件が発生しなければ動けない。マレンスキーは善良なる市民と認められたようなものだ。
帰国前にFBI捜査官たちは遊トピアランドの本社で一条に面会を求めた。
「こんなご立派な身分の方とは知らずに、先日は失礼しました」
捜査官はスーツ姿の一条を前に態度を変える。
「で、今日は何の御用ですかな?」
一条が尋ねた。
「我々は捜査を打ち切り、本国に戻ることになりまして、それにより機密扱いも解除されますので、お伝えしておきたいことがあるのです」
捜査官はマレンスキーへの嫌疑を一条に説明する。
「捜査対象からは外されますが、個人的にはあの男は危険人物だと感じております。くれぐれもご用心を」
そう言い残して捜査官たちは去った。
何が危険人物だ、本当に危険だったのなら自分たちは見殺しにされていたようなものじゃないか。一条は珍しく腹を立てた。
「そうか、テキサスの方でヒストリックカーレースの整備サポートをね。何でも見れるのかね?」
マレンスキーはカールと話し込んで、その経歴に興味を持った。
「そうさね、ポルシェを除けば大体いけるが、まあイギリスのバックヤードが大半だったね」
カールは少し懐かしそうに振り返る。
「その頃に比べたら今は手持ち無沙汰なんじゃないのかね?」
「うーん、確かに整備の仕事はほとんどないが、一条さんに雇ってもらってるから生活は安泰だ」
マレンスキーはある考えが頭に浮かんだ。
「フェラーリなども見れるかね?」
「やれないことはないが、そんな高級車は経験がないさ。イタリア車だったらむしろ、かる路に相談した方が無難かもしれない」
「いや、私はキミと仲良くなりたい。その腕をうもらせておくのは勿体無い」
ヴィンテージカーコレクターたちの面倒を見させたら結構な賑わいになるだろう。
「とりあえず私のジネッタを見ておいてくれ。フォードケントならいけるだろう?」
一条はマレンスキーをガレージピットから少し離れた場所に招いた。
「実はあなたに確かめたいことがある」
「なんだね?」
「どうしてこんなへんぴな所に定住しようというのか?先日FBIが私のもとに来てね、あなたの裏の顔について話していった。私はそれを信じている訳ではないし、あなたが話したくなければそれでいい。ここのみんなには何も言っていない」
一条の言葉に一瞬マレンスキーの眉毛が動いた。
「ふむ・・・」
「私はあなたに限らず、誰に対しても過去の経歴は気にしない。大事なのは今がどうか、そしてこの先どのようにしたいかだ。ただここでは隠し事は難しい。みんなが素朴で純粋で、自分の事よりも他の誰かを常に気にかけているからだ。そのことは肝に銘じておくといい」
一条はそう言い残すとその場を離れた。
アメリカからノスタルジックサーキットに数人の訪問者があった。それぞれがヴィンテージカーを持ち込んでの来場だ。マレンスキーと再会を称えあい、カールに紹介される。
「出来るだけ完全な状態に仕上げてくれ。よろしく頼むよ」
カールはちょっと待ってくれとマレンスキーを制する。
「一条さんには話を通してあるのか?許可を得ないとまずいだろう」
「いやまだだがきちんと筋は通すよ。ここは私の顔をつぶさないでくれ、キミにとって決して悪い話ではないから」
マレンスキーはほぼ完成した自分の洋館に来客たちを滞在させ、執事のノボトクに世話を命じた。そしてアポイントを取って一条に会いに行った。
「わざわざ東京に来られなくても、私の方が出向くのに」
一条は労う。
「いや用の有る方が訪ねるのが礼儀というものだ。まずお願いがある。キミのところのカールを借りたくてね。彼の腕を眠らせておくのは大きな損失だ。もちろんキミのところの業務が優先だが」
一条も勢いで雇ったカールを使いきれていないことに懸念を持っていた。マレンスキーの話は願ってもないことだ。
「私としては報酬はカールに払いたい。ヴィンテージカーの整備はキミの会社の定款にはないだろうしな。そして出来ればカールと正式な契約を結びたいのだが、問題ないかな?」
「ええ、大丈夫ですよ」
一条はマレンスキーと握手を交わした。
「そして先日のキミの質問に関してだが・・・キミを信頼して答えておこう。推察の通り、私はある組織を束ねる地位にあった。その組織は決して合法的とは言えないこともしてきて、結果私と数人の取り巻きを除いていなくなった。私は組織を終わらせ、静かに余生を送りたくなったのだ。それを聞いてキミが処罰を望みたければ甘んじて受けよう。だが、できれば過去は不問に付してもらえればありがたい」
マレンスキーの告白に、一条は微笑を浮かべた。
「話していただけて嬉しいですよ。私は人が人を裁くということに疑問を持っているので、あなたに償いなど要求する気はありません。私自身企業を率いる身だから、全てが綺麗事で片付く訳ではないことも承知しています。そしておそらくサーキットの仲間たちもそんなことは望まないでしょう。先日も言った通り私は彼らに何も話す気はありませんが」
一条は一息ついて続けた。
「あそこは走る場所であり、ある意味速さが正義でもある。あなたももし自分自身のけじめを付けたいと思ったら、走ることで解決したらいかがでしょう?」
7
事件は練習走行中に起きた。マレンスキーは純とコータのランダーr6、アンドリューのロータス15といった新たなる強敵を前に、再びショップ対抗戦への参加を希望した。アンドリューはフリー走行で純の出したコースレコードを軽く更新し、底知れない速さの片鱗を見せ付けた。マレンスキーも刺激を受け、限界走行に挑んでいた。もう若くはないし、集中力も続かない。2周ほど攻めてピットに戻ろうとした最終コーナーの入り口でジネッタG4のブレーキは効かなくなったのだ。マレンスキーはかなりの速度でエスケープゾーンから防護柵を飛び越え、数メートル下に転落し、ジネッタは炎上した。
古びた街医者のベッドでマレンスキーは目を覚ました。手足に包帯が巻かれ、右足は吊られている。心配そうな顔付きでカヨが覗き込み、一条を呼んだ。
「目を覚まされましたね、良かった」
「ここは・・・?」
「村で唯一の医者ですよ。病院なんて設備はないもので。あなたは丸一日寝ていた」
「そうだ、私はブレーキが効かなくてそのまま・・・」
「走行中だったアンドリューたちが駆けつけ、急いで車からあなたを引っ張り出しました。耐火性のレーシングスーツを着ていて良かった。全身打撲と右足の骨折はあるが、命に別状はないそうです。1ヶ月もすれば元の生活に戻れるようですよ」
マレンスキーは目を瞑る。
「やはり私は許されないということか」
「いや、そうではない。天はあなたに生きろと言っているのですよ」
一条は優しく笑った。
事故の原因はブレーキパイプの損傷によるオイル漏れで、カッターで切り付けた跡が見つかった。マレンスキーの執事ノボトクが姿を消して、湖に浮かんでいるのが見つかった。
「警察の調べでは自殺のようですよ」
ノボトクはマレンスキーがブラッドパクトを解散した事で生きる意味を失ったようだ。長年汚れ役を演じてきた彼は最後にマレンスキーの車に細工し、自ら命を絶ったのだろう。
「亡くなった者には申し訳ないが、これであなたの過去を知る者はいない。あとはあなたの選択ですよ」
一条は年下ながらマレンスキーを諭した。マレンスキーは目に涙を浮かべて頷いた。
マレンスキーと懇意のコレクターがアメリカに帰国せずに洋館に滞在していた。見舞いに来たコレクターにマレンスキーは詫びながらある頼み事をした。コレクターは頷いて、マレンスキーに別れを告げて帰国した。
1ヵ月後、退院したマレンスキーはカールのもとを訪れた。
「頼み事がある」
カールは既にほとんどコレクターたちからの預かり物の作業を終えていた。休む間もなくの頼み事だが、またやる気が湧いてきて嬉しい。完成した車を引き取りに来て、コレクターたちは出来栄えを確かめることを兼ねてオープンレースに参戦した。
デヴィッドの車はアストンマーティンDBR1、オークションで1700万ドルの値が付く名車中の名車だ。
DBR1の設計はエンジンとトランスミッションを除いたほぼすべてをテッド・カッティングが行った。DBR1として生を受けた車は全部で5台である。開発当初2.5リッターの直6エンジンを搭載していた。このRB6.250と呼ばれるエンジンは、アストンマーティン直6エンジンの生みの親ともいえるタデック・マレックの設計によるもので、当初はレギュレーション上排気量が2493ccのものを搭載していたが、1958年にRB6.300となって排気量は2922ccに拡大した。
DBR1について語る時、やはり絶頂期と思われるのは1959年のル・マン24時間優勝であろう。しかし、この車のル・マン優勝は有り余るパワーによってもたらされたものではなく、軽量で空力性能に優れたボディと抜群の運動性能によってもたらされたものだったのだ。59年の優勝クルーはキャロル・シェルビー/ロイ・サルバドーリのペア。そして2位に入ったのも同じくDBR1で、モーリス・トランティニアン/ポール・フレール組であった。DBR1を実際にル・マンで走らせた二人のドライバー、ロイ・サルバドーリとポール・フレールは口を揃えてDBR1のハンドリングを絶賛している。
リチャードの愛車はジャガーCタイプだ。
1948年に発表されたジャガー・XK120はその流麗なスタイリングと高性能さ、また同程度の性能を持つアストンマーティンやベントレーと比べて圧倒的に安価だったことから大人気となり、ジャガーのイメージを決定づける重要なモデルとなった。
1950年10月、会長であるウィリアム・ライオンズはスポーティなイメージをより決定的なものにするため、XK120をベースに改造したレーシングカーでル・マン24時間レースへ参戦することを決定した。そのために開発されたのがCタイプであり、レース開始6週間前の1951年5月初旬に最初の1台が完成した。その後2台が製作され、サルト・サーキットまで自走した。XK120Cとも呼ばれるこのマシンはライオンズの思惑通り1951年のル・マン24時間レースでジャガーにル・マン初優勝をもたらし、さらに1953年のル・マン24時間レースにも優勝を果たし、ジャガーのイメージ向上に大きく貢献した。
エンジンは3441ccの直列6気筒DOHCXKエンジンで、クロード・ベイリーが圧縮比8.0、SU製キャブレターはそのままに160馬力から200馬力にチューニングした。また圧縮比を9.0に上げた仕様では210馬力を実現した。
トランスミッションは4速MT。
シャシーはラダー式からチューブラー・フレームに変更されている。ホイールベースは2440mm。フロントサスペンションはほぼ同一のダブル・ウィッシュボーンとトーションバー。リアサスペンションはリーフ式から変更され、ヘインズが考案し右寄りに配置された三角形ブラケットと2本のトレーリングリンクでアクスルを支持し横置きトーションバーをバネとする方式となった。
ボディーはウィリアム・ライオンズから「XK120と共通するスタイリングイメージを持つように」との指示があった。ちょうどこの時期にブリストル飛行機から移って来ていたマルコム・セイヤーが、その空力技術を駆使し、ボディとフェンダーの段差をなくし、ヘッドライトはフロントフェンダーに埋め込むなど極めて凹凸が少なく滑らかにデザインした。全長3990mm、全幅1640mm、全高980mmで大幅に低くなった。アルミニウム製ボディで、車両重量は939kgと軽量になった。
マレンスキーから頼み事を受けたルイスの愛車はクーパー倶楽部のジョージにとって曰くつきのクーパーt49、通称クーパー・モナコである。
クーパー・モナコt49は、1959年にイギリスの自動車メーカーであるクーパーが設計、開発、製造した軽量スポーツレーシングカーだ。クーパーt39(通称「ボブテイル」)の後継として製造された。「モナコ」は1958年のモナコグランプリで英国の名高いプライベーター、ロブ・ウォーカーのクーパー・クライマックスF1マシンが優勝したことにちなんで名付けられた。
クーパー初の量産型リアミッドエンジン・スポーツレーシングモデルで、2座席、2ドア、そしてフロントガラスというFIAの要件を満たすよう特別に設計され、2311mmホイールベースのプラットフォーム上に軽量アルミニウム製のアウターパネルで覆われたスペースフレームを採用していた。このモデルは様々なエンジンを搭載可能で、レーサーが独自のパワートレインを搭載するためのキットとして販売された。ダブルウィッシュボーンとコイルスプリング式のフロントサスペンション、ロアコントロールアームを備えた横置きリーフスプリング式のリアサスペンション、ラックアンドピニオン式ステアリング、そしてクーパーの鋳造マグネシウム合金ホイールの後ろにはガールリング社製の四輪ディスクブレーキが装備されている。ドライバーとバッテリーは右側に配置され、55リットルの燃料タンクは両側のホイールの間の左側に配置されていた。中央に18度の角度で搭載されたコベントリー・クライマックスFPFエンジンとシトロエン・ERSA製の4速トランスアクスルが組み合わされ、非常にパワフルなパフォーマンスを発揮した。1959年から1966年にかけてモーターレースに参戦し、非常に競争力があり、大成功を収めた。89レースで優勝(さらに16のクラス優勝)、表彰台に136回上回り、ポールポジションを11回獲得している。
ルイスのt49は1964ccのクライマックスFPFツインカムエンジンを198馬力にチューンアップして搭載されている。彼はこの車を27万ドルで購入した。
彼らはマレンスキーと違いオープンレースに勝つ気はなく、車を労わるように後方で楽しんでいた。日常ではまず見る事のできない高級ヴィンテージカーのパレードに、観客は溜息をもらしていた。
ルイスはマレンスキーに頼まれていた新しい(といってもクラシックだが)車を届けに来ていた。それはロータス23である。
ロータス史上最高の小排気量市販プロトタイプレーシングカーといえるロータス23は、コーリン・チャップマンによって1962年から1963年にかけてFIAグループ4レースに参戦するために特別に設計された。前身のロータス15および17とは異なり、エンジンはドライバーの背後、つまりロータス19で開発されたものと同様のミッドシップに搭載されていた。FIA規則に準拠するため、ドライバーの右後方に規定のトランクスペース、ワイパー、ホーン、ヘッドライトとテールライト、リアセンターナンバープレートライト、ケーブル式ハンドブレーキ、そしてフロントボディ下部にスペアタイヤ1本分のスペースが設けられていた。23は、ロータス22のスペースフレームのワイドバージョンを採用し、グラスファイバー製のボディを纏っていた。
当初はルノー製4速トランスアクスルを搭載した750ccから1300ccのエンジン用として計画されていたが、生産時には5速ヒューランド製Mk.IIIも搭載されていた。これはフォルクスワーゲンのマグネシウム合金製トランスアクスルケースを逆さまにした構成で、特注のストレートカットギアとドッグリング、フォルクスワーゲン製のデファレンシャルギアセットを収納していた。
フロントサスペンションは、アルフォード&アルダー製のトライアンフアップライト、トライアンフヘラルドラックアンドピニオンステアリング、およびガーリング社製のアウトボードノンベンチレーテッドディスクブレーキを使用した、アウトボードコイル/ダンパーユニット付きダブルウィッシュボーンアームの典型的な構成だった。
リアには、下側の逆ウィッシュボーン付きトップリンク、ハーフシャフトの高さにあるトップアームを備えた上下の半径アーム、アウトボードディスクブレーキ、コイル/ダンパーユニットが組み合わされていた。ロータス20サスペンションの構成と異なり、ハーフシャフトの内側にはメタラスティックラバーの「ドーナツ」があり、横方向の力は伝達しない。横方向のコーナーリングフォースはフレームの上部サイドチューブの末端と鋳造合金製アップライトの延長された上端を接続する上部の「I」アームリンクとともに、下側のウィッシュボーンによって伝達される。
タイロッドエンド、フロント上下ウィッシュボーン外側ジョイントはボールジョイント、リア下ウィッシュボーン内側ジョイントはローズジョイントだった。その他のサスペンションジョイントはラバージョイントで、ジョイント取り付けパイプはサスペンションアームの先端に溶接されていた。サスペンションアームの大部分はロータス22と共通だったが、リアラジアスアームの平面図における角度は、ナローフレームのロータス22とは異なっていたため、22との互換性はなかった。
フレーム構造は、ロアサイドパイプとコックピット後方の幅方向下部パイプが角パイプで、その他の大部分のフレームパイプは様々な径の丸鋼管である。左上の丸パイプはフロントラジエーターへの給水パイプ(当時は路面を滑りやすくする危険性から不凍液の使用はほとんどのレース主催者によって禁止されていた)、右下サイドパイプと幅方向下部後部コックピットパイプの半分は戻り経路として使用された。同様に、右上サイドパイプはオイルクーラーへの給油、左下パイプは戻りである。このフレームは主にアーチモーターズ製で、「AM」シリアルナンバーが付けられていた。この水/油ベアリングフレーム構成は、ロータス22やその後のロータス・フォーミュラカーにも共通していたが、幅広で大型化したラジエーター、冷却装置として機能する幅広で大型のスチールフレーム、そして小排気量エンジンの組み合わせにより、十分な冷却能力が得られた。当時のレーシングカーとしては異例なことに、ロータス23モデルはスプリントレースでは冷却回路にサーモスタットが設置されていないため、オーバークールの問題が発生することがあったが、耐久レースでは水/油温が非常に安定していた。
日本において、ロータス23は伝説的なレーシングカーである。それは1963年の第1回日本グランプリ最高峰クラス(国際スポーツカー)において初日、2日目ともにフェラーリ250SWBやアストンマーティンDB4ザガート、ジャガーDタイプなどの大排気量車を抑えて、ロータス23が1位から3位を独占したからだ。単純に自動車のヒエラルキーでいえば、排気量が大きくパワーのあるマシンが速い。ところV12エンジン搭載車や3700ccもある直6エンジンで300馬力以上のパワーがあるマシンが、高々1650ccの4気筒(150馬力)に負けてしまったのである。
ロータス23の原型となったのはシングルシーターのフォーミュラ、ロータス22。そのパイプフレームを流用してオープン2シーターのレーシングカーに仕立てたのが23であった。デビューしたのは1962年のニュルブルクリンク1000km。雨が降っていたという理由もあるだろうが、ジム・クラークがドライブした僅か1.5リッターのコスワース4気筒(100馬力)を搭載するマシンが、スタート後長い1周を終えてメインスタンド前に姿を現した時、2位以下を27秒も引き離していたという。出場したマシンはフェラーリ330LM、アストンマーティンDBR1など錚々たるマシンが名を連ねていたが、僅か1.5リッターのマシンに独走を許したのだから、如何にその時のロータス23が脅威に映ったか想像できる。
ロータス23の逸話として、ル・マンの因縁がある。それはロータスの特徴的なパーツであるウォブリー・ウェブホイール。メタル製ディスクホイールの一種だが、独特なデザインを持ち、エレクトロン・マグネシウム-アルミニウム合金により鋳造されていた。最初に使用したのはロータス12。以後ロータス30あたりまではこのスタイルのホイールが使われていたようである。デザインしたのはギルバート・マック・マッキントッシュ。彼は航空機のデザイナーであった。
ウォブリー・ウェブホイールは初期モデルでは前後共に4本スタッドであったが、ロータス23はニュルブルクリンクの後のル・マン出場に際し、リアに6本スタッドのホイールを装備した。ところがこれをル・マンの車検担当員が認めず、急遽4本スタッドを作り直してル・マンに送り込むものの、今度は構造上の問題があるとして出場を認めなかった。後にル・マンの主催者は間違いを認めて和解しようとしたが、コリン・チャップマンは激怒して2度とル・マンには出ないと宣言。彼が死ぬまでロータスがル・マンに出場することはなかったという。
ジャイアントキラーの異名を取ったロータス23は、その卓越したハンドリングによってヨーロッパのみならずアメリカやオーストラリア、ニュージーランドなどでも大活躍し(そして日本でも)、1961年から64年までの4年間に131台が生産されている。
ロータス23のサイズは、3531mm×1524mm×660mm、ホイールベース2286mm、乾燥重量454kgである。
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