1

 マレンスキーはアンドリューがいなくなって不便さを感じた。そう、通訳である。取り急ぎ一条の紹介でマチルダを雇った。彼女はオクラホマ育ちで高校時代から日本に住む25才だ。

 「最高顧問が加わったことだから、カールのと兼ねて歓迎会だ」

 サンドロとジョージが浮かれる。久しぶりに居酒屋へ繰り出した。

 「何だかねぇ、村も国際的になったもんだよ」

 女将さんのスミヨがお絞りを配りながら笑う。マレンスキーとカールは慣れない風習に戸惑い、周りのみんなを見て手と顔を拭き出した。

 「アッハッハ、顔は拭かなくていいよ、オッサンの癖だから。あ、2人とも十分にオッサンか」

 カヨがウケている。ビールで乾杯をすると、サンドロがマレンスキーにスピーチを促した。

 「ふむ、私は最高顧問などと言われるとまたいい気になってしまうから、相談役くらいにしてくれたまえ。この素敵なサーキットの一員として認めてもらえたことは私にとって大変な栄誉である。陰ながら更なる発展に一役買えればと思っている。何でも申し付けてくれたまえ」

 マレンスキーは日本流に軽く頭を下げると、カールにバトンタッチする。

 「えー、こういうのは慣れていないもので、まあ一条さんのお陰でここに来れて、マレンスキーさんのお陰でやりがいある作業ができる。幸せだ」

 拍手が2人を包んだ。マレンスキーは不器用に箸で料理をつまみ、美味いと舌鼓を打った。これから洋館に来客を招く時には、ここの料理でもてなすことにしよう。

 

 サーキットのピットガレージはヒストリックカークラブがほとんど活用の機会がないことから、マレンスキーに権利を譲った。マレンスキーは「ザ・ヴィンテージ」として、カールに任せることにした。今までは36仲間の半分を間借りしていたので、広々したスペースで整備を行える。

 かる路で浮かない顔をしているコータを見つけて、マレンスキーは「相談」に乗る。

 「うーむ、良く分からんが、それっぽっちの事で悩んでおるのか。よし、私がフィアット850レーサーを買い取ろうではないか」

 「え?」

 コータは軽く言い放つマレンスキーに驚く。自分が何年かかけて返済しようという金額をいとも簡単に払うというのか。

 「でもあなたにはロータス23があるし、乗り手がいないじゃないですか」

 「マチルダに丁度いいと思ってな」

 なるほど、それはフィアットにとっても幸せかもしれない。

 

 アンドリューが抜けたことで、サーキットは以前の穏やかな空気を取り戻した。コータも純も元々は勝ちにこだわるタイプではない。マレンスキーもあれだけのバトルを続ければ身が持たないと感じていた。

 来客層は興味本位の一見客が勢いを失せ、メンバーになる熱心な常連やリピーターも一定数で落ち着いてきた。収益は結局のところ赤字は出さないが華やかでもない。一条が先行投資したコースの改修もこのままでは取り返しが難しく、役員会の不良案件に浮上しかねない。その割りに年中無休なので徐々にみんなに疲労が溜まってきていた。

 

 「まずは週に1、2日の休業日を設けたらどうでしょう?曜日でいえば火曜、水曜は来客が少ない」

 一条の呼びかけたスタッフ会議でコータが発言した。

 「それでは利益が消える可能性もあるぞ」

 サンドロが反論する。彼の年代は働く事が美徳だ。

 「私から見たら、日本人の労働は狂人的だよ。もっとゆとりを持って楽しんで、それでいて収益を上げていくのが経営者の力量というものだ」

 マレンスキーが呆れた口調で言う。

 「例えばだが、今の運営方法はホリデーに限定してもいいと思うのだ。まずは思い切って余裕を作る。時間が出来たらキミらは何をするかね?ここには繰り出す繁華街もない。どうせ自分の愛車を走らせたくなるだろうさ。そこにプレミアムを求める富裕層を引き入れる」

 みんなマレンスキーの話に引き込まれていく。

 「私の知人たちはプレミアムに敏感だ。どうせ世界を飛び回っている連中で、日本に来る事など造作もない。安くてはダメだ、陳腐な車が走っていてはダメだ、幸いにしてここには彼らにとっても魅力的な車が控えている。それなりのイベントを用意して招待すれば喜んでやってくるだろう」

 「さらにそれが定着していけば韓国や中国からも顧客が見込める。お隣の国だからな。そしてヴィンテージカーの取引を手掛けることができれば磐石になるだろう」

 この短期間で問題点を見抜いて解決案を提示する。やはり最高顧問が相応しいとサンドロは口ひげを撫でた。 

 

 

2

 思い立ったら即有言実行のマレンスキーは、アメリカからフェラーリコレクターのベルクロスを招待した。彼ほどの大物になるとプライベートジェットで移動する。それなりの飛行場が必要だなとマレンスキーはプランに追加する。

 ベルクロスは貴重なフェラーリ330TRIをノスタルジックサーキットに持ち込んだ。

 フェラーリ330TRIは1962年にフェラーリがル・マン24時間レースでの勝利を狙って特別に製造した車で、フロントエンジンレーシングスポーツカー、テスタロッサの最後を飾る車である。4521mm×1590mm×1049mmの比較的コンパクトな車体に3967ccのV12エンジン(390馬力/7500rpm)を縦置きする。トランスミッションは5速マニュアル、ホイールベース2400mm、トレッドは前1422mm×後1415mm、鋼管スペースフレームのシャシーで車体重量は820kgと軽かった。サスペンションは前後ともにコイルスプリング・独立ウィッシュボーンである。

 マニアにとってフェラーリはフロントエンジンが美しい。その声を反映してかベルリネッタ・ボクサーからミッドシップに移行したフラグシップは再びFRへ回帰している。ベルクロスはフェラーリ330TRIの入手に940万ドルを支払った。

 

 ベルクロスはワイフを伴い、サーキットを数周確かめるように周回した。

 「どうだい?」

 マレンスキーが感想を求める。

 「ああ、素朴でかつテクニカルないいコースだ。気分良く走れるし、色々と楽しめそうだ」

 「良かったよ。みんなを紹介しておこう」

 マレンスキーはベルクロス夫妻をガレージピットへ案内する。

 「ワォ、ローラmk1にアバルトシムカ1300、それに滅多にお目にかかれないランダーr6が2台も揃っているじゃないか!あのスカイブルーのロータス23はキミのマシンだよな?イェシェマルク。キミは昔からあの色だ」

 ベルクロスは1960年代にタイムスリップした感覚にいたく酔いしれていた。

 「そうだ、カールを紹介しておこう。彼は魔法の腕を持つ名メカニックだ。キミのフェラーリも安心して任せられる」

 ベルクロスは笑顔でカールに握手した。

 「早速だが、365P2は頼めるかい?ここ数年眠らせていてね、デリケートな12気筒だ」

 カールは喜んでと答えた。

 フェラーリ330Pは1964年の耐久レース用に開発されたミッドシップのプロトタイプレーシングカーだ。フォードからの買収劇の決裂によって、1964年からフォードチームが耐久選手権(特にル・マン24時間)に参戦してくることが確実だったため、エンツォが自分のマシンに更にパワーを求めた結果、330Pは4.0Lエンジンを搭載した。330Pシリーズはいかにもフェラーリらしい流麗なフォルムを纏い、エンスージアストの羨望の眼差しを集めている。P2の3967ccのV12DOHCエンジンは8200rpmで410馬力を発生する。P2はセブリング12時間、モンツァ1000km、タルガフローリオで優勝した。

 365P2は、フェラーリがワークスチームのバックアップ用として、330P2をベースにプライベートチーム用に開発、供給したレース車両である。330P2からの変更点は、エンジンが330P2の4.0L・DOHCから、330Pで使われていた4.0L・SOHCをボアアップした4.4Lエンジンを採用していた。キャブレターはウェーバーの42DCN/2を6基搭載し、最高出力は380馬力/7300rpmを発生した。1965年シーズン後、4台残ったP2も3台が365P2へと変更され、プライベーターへ供給された。

 

 マレンスキーの思惑は成功し、ベルクロスは暇ができると毎回違った友人を引き連れてノスタルジックサーキットにやってきた。取り急ぎ洋館の隣接地を買い取り、突貫工事で滑走路を作ったこともベルクロスに響いたようだ。彼らはお気に入りの車でサーキットを楽しみ、マレンスキーの晩餐会を満喫した。彼らの落とす外貨でノスタルジックサーキットの収益は飛躍的に上がった。

 

 

3

 「何だか違う気もするなあ」

 サンドロが誰にともなくぼやく。マレンスキーの精力的な招致活動で一条を始めとする新参の出資者たちは満足している。だが古参のサンドロとジョージにとって、ノスタルジックへの独自の思い入れがあるのだ。それは気心知れた仲間たちの愛着たっぷりな車との隠れ家であったこと。金持ちのご機嫌取りはサンドロたちにとってストレス以外の何物でもない。

 「サンドロたちは休んでいていいですよ、居酒屋で骨休めでもしててください」

 「ああ、そう言ってもらえるのは嬉しいんだがなあ」

 サンドロは自分が時代遅れのお荷物のように感じていた。

 

 結局サンドロたちはコータの勧めるとおり昼間からスミヨのお世話になっていた。

 「何が出来るって訳じゃないんだけどな」

 サンドロは酒の助けもあって、ジョージに思いの丈をぶつける。

 「そいつは乗っ取られちまうって心配じゃないのか?」

 「あ?」

 言われてみればそうかもしれない。マレンスキーの存在が大きくなるにつれて、自分は部外者のように思えてくる。仲良くやれれば楽しいだろうに、だが壁を作っているのは自分だということも分かっているのだ。

 「とりあえず一条氏にでも相談してみるのがいいかもな」

 ジョージはサンドロの肩を叩いた。

 

 純はランダーr6の化粧直しを考えていた。性能的には同じとは言え、コータのランダーの方がよりクラシックな雰囲気を漂わせていて羨ましく感じ始めていた。ペイントラッピングという手法を使えば、もとの塗装はそのままに思い通りに雰囲気を変えられる。だが高額な上に耐用年数が2、3年と短い。純は思い切って塗装を施すことにした。キラキラの輝きから、やや経年感のある淡い朱色へ。そして出来るだけクラシカルなパーツへ。細かな拘りは愛着度を増し、より速さにつながる。

 文佳は36仲間の間借りスペースからクーパー倶楽部へ居場所を移していた。勝手知ったる古巣、純の存在も安心感がある。そこへマチルダが顔を出した。

 「ねえ、キミってさ、凄く速いんだって?私、速い男は好きよ」

 純にあっけらかんと言い放つ。

 「ん?あなたたち恋人同士?」

 文佳を見て聞いた。

 「べ、別にそんなんじゃありません!」

 文佳は慌てて否定する。

 「じゃあ私と付き合いましょうよ、純」

 いきなり腕を組まれて赤面しながらも純は悪い気はしなかった。

 

 「聞いてくださいよ、カヨさん!」

 文佳は信じられないと言った口調でマチルダの口説きを話した。

 「ふうん、アンタ別に純はどうでもいいんでしょ?だったら放っておきゃいいじゃない」

 「それはそうなんだけど…」

 「相変わらずはっきりしない子ね、ちょっと待ってな。おーい、コータぁ、手が空いてたらこっち来てよ」

 コータが何事かとやってきた。

 「この子さ、アンタに気があるのよ。どうする?」

 「そそそそ、そんな…」

 文佳は思わず両手で顔を隠す。コータはぽかんとしていた。

 「どうでもいいけどさ、泣かせるような真似したらアタシが承知しないからね」

 コータはカヨから視線を外すと軽く息を吐く。

 「俺なんかで良ければ」

 と文佳に笑いかけた。

 

 

4

 一条は再びスタッフミーティングを開いた。

 「マレンスキーさんの新しい試みにより、サーキットの収益は飛躍的に向上する見込みが見えてきました。しかし、その一方で不満を募らせている方もいるようだ。異なる意見をぶつけ合うことは進歩につながるが、本音を隠してしまうことは不信感につながる。この際、言いたい事があれば全て聞かせていただきたい」

 とサンドロに視線を送る。

 「いや、意見って言われてもなあ。ただ新しい試みってのが何か違うって感じるだけで…」

 「具体的に言ってもらわなければ分からんが、あなた方はただ付いて来れないだけではないのか。ビジネスというのは常に時流を取り入れて変化していくことが大切だ。懐古主義に囚われていては生き残れない」

 マレンスキーに見透かされたようで、サンドロはぐうの音もでない。

 「うーん、マレンスキーさんの言うことはもっともなんですが、多分に欧米的なんですよね。ここは日本だから、それなりに合ったやり方もあるかと思います。それぞれ文化も違う訳ですし」

 コータが代弁した。

 「おう、それよそれ。文化の違いだ」

 サンドロが大きく頷く。マレンスキーはフッと笑った。

 「いいですかな?文化というならその文化を見せていただきたい。ここは車の集う場所な訳だから車の文化をだ。どうなのかね?」

 「それは…」

 誰もうまく答えられない。

 「アメリカにおいては、いや、多くの国においては、車はステータスであると同時にアイデンティティーだ。自分の持ち物なのだから自由に着飾り、自由に育てる。言い換えれば改造、チューニングを楽しむということだな。キミたちの国ではどうだ?私の知る限りでは何かを少しでも変えれば世界一厳しい車検ではねられてしまう。また私の様に貴重な文化資産であるヴィンテージカーを大切に保護する者もいる。ヴィンテージはそれだけでアイデンティティーにつながるからな。キミたちの国にその動きはあるかね?いや、キミたち自身はヴィンテージを理解していることは承知している。ただ国民性というのか、車に限らず古いものをゴミのように捨て去ることを当たり前にしていないかね?合衆国は国としての歴史が浅いからまだまだだが、私の故郷のオーストリアを始め、ヨーロッパではどの街でも古い教会が中心として保護されている。インドや中国もそうだろう。京都はまだいいが、キミたちの誇る東京はどうだね?」

 マレンスキーは熱弁を振るう。

 「話を戻せば、極めつけは車の税金だ。古い車が高い税金をかけられるなんて有り得ないではないか。大袈裟に聞こえるかもしれんが、文化遺産の破壊を助長していく。それからカリフォルニア辺りでは外観に派手な改造を施した日本車が人気があって、憧れる者も多い。ところが彼らにとっての聖地日本に来てみれば、派手な改造車はポリスに止められ、世間から爪弾きにされる。暴走族というのか?そんな社会だけをターゲットにして車ビジネスが成り立つと思うかね」

 「チバラギ仕様ってやつだね、好みじゃないが、あれはあれで確かに文化だよ。アメリカには受けそうだ」

 純が同意した。

 

 「車文化って言われりゃ分かる。まあ、ド派手な角々(かくかく)は勘弁願いたいし、フルサイズのアメ車にここに来られてもちょっと困るがな。俺もジョージも小さくて丸っこいのが好みだからアバルトやミニに行き着いてる。好みって点じゃ全くマレンスキーに賛同するさ。ただ何と言うか、俺たちは好みを押し付けることなく、同じ好みの奴が自然と集まってくれりゃいいとサーキットを維持してきた。マレンスキーのやってることは凄いし多分間違ってねえよ。敢えて言えば昔っから急がば回れや、急いては事を仕損じるって教わって来たから急に変わっちまうことに面食らってるんだな」

 サンドロはだいぶすっきりした。

 「うん。あとはここを気に入ってくれてる昔からの常連たちを出来れば締め出すようなことはしたくない」

 ジョージが付け加えた。

 「あなた方の言い分は分かった。だが私の知人たちを招待するにはやはり最低でも3日の滞在は必要だ。その間は休みたい者は休んでくれていい」

 

 結局マレンスキーとサンドロ達で交代でサーキットを運営し、基本的に年中無休が維持されることになった。

 

 

5

 カヨは文佳やマチルダがウキウキしているのを見て、羨ましい思いが膨れてきていた。ある時、一条に探りを入れてみた。

 「ねえ、一条、アンタ彼女とかいるのかな」

 「女性とお付き合いしたことはあるが、今は気軽には出来ない」

 一条は生真面目に答えた。

 「え?それってどういうこと?」

 「私は会社の顔として年中監視されているようなものだ。女性関係というのは大抵スキャンダルとしてマスコミが尾ひれを付けて騒ぎ立てたがる。芸能人ほどではないが私も若き成功者として多少は噂の種にされるのさ」

 大変なんだなとカヨは思った。勝手に浮かれていた自分をたしなめる。

 「質問の意図は何だね?仮に私に対して異性としての関心があるのなら、私もキミに対して関心がある。それならそれとして対処したい」

 「ちょ、ちょっと待ってよ、いきなり何を言い出すのさ。アタシは見ての通りガサツだし口も悪い。とてもじゃないがアンタとお似合いとは言えないさ」

 カヨは面食らった。

 「キミがガサツでないことは見ていれば分かる。常に周囲に気を配って陰ながら支えている。口が悪いというのはキミの置かれてきた環境に対する精神的防御の現われであって、一時的なリハビリだったのだろう。もう不要なことはキミ自身が一番承知しているはずだ」

 この男は何でもお見通しだ。カヨは心に光が射すのを感じた。

 「その通りよ。私だって本当はシャイな乙女でありたいの」

 「では決まりだ」

 カヨはシンデレラストーリーの切符を手にした。

 

 自分でも良く分からないうちに、カヨは一条の実家にいた。目の前には満の両親が座っている。

 「母の冨美と父の徹、こちらは結婚を考えてる加世子さんだよ」

 ここに来る最中にカヨは満から生い立ちを聞いた。名門一条家は女系の家系で代々婿養子をもらっていた。徹も養子である。遊トピアランドの株は冨美が45%を持つ筆頭株主で、徹と満が20%ずつ所有する。グローバルな大企業でありながら非上場の同族経営である。満は実に久しぶりに生まれた男子で、大きな期待を背負って幼い時から英才教育を受けてきた。冨美は一条家の跡取りを早く欲しがり、毎月のように満に縁談を持ちかけていた。

 「そういうこと。どうりで私の縁談を煙たがる訳ね」

 冨美は軽くため息を吐く。

 「加世子さん、一条家の嫁になっていただくにはそれなりの方でないと。満のお嫁さんとして相応しいかどうかお話を聞かせてくださいね」

 カヨはハイと答える。ある程度予想していた展開だ。

 冨美は満に向き直ると

 「この前会社に立ち寄ったら可愛らしい秘書さんを雇ってたじゃない?あの方はお元気なのかしら」

 と聞いた。

 「彼女は配置転換したよ。秘書は重荷だったようだ」

 余計なことをと満は思った。

 「そう、いいお嬢さんだと思ったのにね。では加世子さん、本来一条家に迎える方は家柄も大事だったのだけど、今のご時勢それはお聞きしないわ。どう言ったお仕事をされてるのかしら」

 「今は…」

 「会社が投資しているサーキットで受付嬢をしている。その前は確か銀行に勤めていたかな」

 満が代わりに説明する。

 「あら、いい所にお勤めだったのに勿体無いわね。何か事情がお有りだったのかしら?」

 カヨはどう答えていいか迷った。パワハラに屈したとも言いにくい。

 「まあ仕事はそれほど重要ではないだろう?加世子さんは家庭的で料理も上手だ。僕の妻として申し分ないよ」

 満が話の方向を変える。

 「そうは言っても、取引先のお方をもてなしたりするじゃない。人当たりは大切よ。最近は人間関係に疲れて都会を離れるとかあるそうじゃないの」

 カヨはだんだんイラついてきた。ネチネチした銀行の上司が思い出される。

 「そうさ…アタシはそれだよ。銀行で疲れちまって田舎へ逃げたさ」

 冨美はその口調に驚いてカヨを見る。

 「無理、無理、アタシにはこの家の嫁さんなんて務まらないよ」

 カヨは目に涙を浮かべて部屋を飛び出した。

 

 翌日、サーキットに戻ったカヨの元に一条満が会いに来た。

 「悪かったね、一条。ご両親に謝っといて」

 カヨはもうきっぱりと諦めた。

 「いや、母さんはキミを気に入ってたよ」

 「は?何言ってんの?」

 「一条家の嫁として頼もしくていいじゃないかだってさ」

 カヨはどう答えていいか分からない。昨日までと違い、素直に喜べない自分がいる。

 「しばらく考えさせてもらっていいかな?」

 一条は静かに頷いた。

 

 

6

 マレンスキーはベルクロスの協力を得て、フェラーリの展示と希望者については応談会を開くことにした。あらゆるコネを使って世界中の関心を持ちそうなコレクターたちに案内を送る。その結果、数台の貴重なヴィンテージモデルと手放してもいい出品車がマレンスキーの屋敷に揃った。前出のベルクロスのモデルに加え、珍しいところでは初期の4気筒プロトタイプ・500TRCや3800万ドルの値が付く250TRなどが展示され、コレクターたちを唸らせた。TR(テスタロッサ)は赤い頭という意味で、フェラーリのトップモデルとして赤く塗られたエンジンのカムカバーを指す。ベルクロスにより、根強い人気を持つモデナのカスタマイズが2台、599のカスタマイズが1台即売に掛けられ、商談が行われた。

 

フェラーリ500TRC

 

フェラーリ250TR

 

フェラーリ360モデナ・カスタム

 

フェラーリ599・カスタム

 

 トラブルが起きたのは、モデナと599の商談がまとまりかけた時である。来場者の2人がそれぞれ、売られているのは盗まれた自分たちの車だというのだ。外見は大きく変わってもフレームに刻まれた車体番号は変えられない。ベルクロスは反論したが、警察が入っての調査で書類は偽造されたものだと判明した。FBIが来てベルクロスを拘束する。マレンスキーを見て、またお前かという顔をした。イベントは中止され、マレンスキーの信用は失墜した。

 「友人を信用し過ぎましたね。ご存知だと思うが正式なオークションでは出品車に対して厳格な審査が行われる。あなたは事を軽んじてそれを怠った」

 一条はマレンスキーに注意した。

 「その通りだ、面目ない。またゼロから、いやマイナスからやり直しだ。だがそれよりも前に友人を何とか助けたい。彼は犯罪に手を染めるほど金に困っていない」

 「彼グレッグ・ベルクロスは、上院議員のロバート・ベルクロスと何か関係があるのですか?」

 一条が訊ねる。

 「うむ、確か上院議員は従兄弟だと聞いていたが」

 「それが本当なら良かった」

 一条は何回か電話を繰り返し、何かの合意を取り付けた。

 「大丈夫ですよ、ロバート・ベルクロス上院議員とつながった。グレッグは直ぐにでも釈放されるでしょう」

 そして実際30分も経たないうちに証拠不十分で嫌疑を解かれた。

 「一条、キミはいったい何をした?」

 「ロバートは子供の頃、遊トピアランドへ来て、私と一緒に遊んだことがあるのです。互いにレーシングカートで競い合って、ロバートはそれを覚えていてくれた」

 一条は造作もないと笑うが大変なことだ。

 「ありがとう、大きな借りを作ったよ」

 マレンスキーは日本流に深々と頭を下げた。

 

 「GT選手権なんて開いたら面白いかも知れませんね」

 コータが言い出した。マレンスキーの別の知り合いが日本の誇る歴史的名車、トヨタ2000GTのシェルビーチューニングをノスタルジックサーキットに持ち込んだのだ。今でも充分に通用する流麗なフォルムにみんな胸を躍らせる。

 トヨタ2000GTはトヨタ自動車とヤマハ発動機が共同開発し、1967年から1970年まで337台がヤマハ発動機で生産されトヨタブランドで販売された。DOHCエンジン、5段フルシンクロメッシュ・トランスミッション、4輪ディスクブレーキ、ラック・アンド・ピニオン式ステアリング、リトラクタブル・ヘッドライトを全て装備した、当時としては最上級の高性能車であった。サイズは4175mm×1600mm×1160mm、ホイールベース2330mmで車両重量は1120kg。エンジンは

MF10型1988cc直列6気筒DOHCで150馬力/6600rpmを発揮した。シェルビー2000GTはそれをさらに

205馬力/7200rpmにチューンアップしている。

 

 「アンドリューがロータス11を持ち込んで以来、プロトタイプでの競い合いに夢中になってしまったけど、プロトタイプレーシングカーは多くのカーマニアにとっては別世界の存在、高嶺の花です。トヨタ2000GTも高嶺の花ではあるけど、ディーラーに展示されたりして結構親近感があったりします。車好きの中には愛車に情熱を注いでカスタマイズやチューニングを楽しんで、自慢したがる人たちもいる。彼らとはこれまで接点が薄かったが、GT選手権なんて名付けて名車を集められれば、関心を引き寄せられるかもしれませんよ」

 それは面白そうだとなった。コータや純は完全に裏方に徹するつもりだったが、マチルダがやってきた。

 「私、車のカスタマイズには凄い興味があるのよ。あなたから譲ってもらったこのフィアット、もっとお洒落に速くできないかしら?」

 サンドロが聞いたら悲しむかもしれないが、確かにフィアット850レーサーは半端な存在ではある。中には850スパイダーの部品取りに消えた固体もある。スタイルは十分にお洒落な気はするが、コータはボディーワークに自分なりのイメージがあった。エンジンもアバルトに拘らなければそんなにコストを掛けずにパワフルなものに出来るのではないか。

 36仲間の津野田に相談してみたら、昔のツーリングカーレース用の日産のA型エンジンを勧められた。OHVで構造がシンプルな割りに13000回転まで回せる。幸いにして津野田は入手可能だという。FFのチェリー用なら前後を逆にして駆動系に苦労することなくRRに流用可能だ。

 という訳で、マチルダのGT選手権参戦用にコータと純はフィアット850レーサーのカスタマイズに入った。サンドロの機嫌を損ねてもつまらないので、事前にことわりを入れた。

 「俺としてはアバルト以外のエンジン積むのは面白くないが、まあお前らの流儀でやってみろよ」

 

 

7

 サーキットに黒塗りのロールスロイスが現れた。後部座席から一条冨美がゆっくりと降りて、カヨと文佳に、ちょっといいかしらと声を掛ける。

 「あれから満は何も言ってこないのよ。どうなってるのか気になって来てしまったわ」

 冨美はクーパー倶楽部の粗末な椅子に汚れを気にしながら腰掛ける。時折走行中の排気音が響き、焼けたオイルの臭いが鼻に付く。

 「こんな環境で働いてるのね、大変ね。で、加世子さん、どうなのかしら?満との結婚は」

 文佳は何も知らなくて驚いてカヨを見る。

 「折角のお話なんですけど、私務まらないと思います。満さんの大事な接客に同席なんて出来ません」

 考え抜いた末の結論だ。満にはまだ話していないが、やはり都会生活は合わなくなっている。

 「そうなのね、私は結構あなたが気に入ったから残念ですけど仕方ありませんね」

 冨美は吐息を漏らした。

 「でね、そちらのお嬢さん、私を覚えているかしら」

 「も、もちろんです、社長のお母様」

 文佳は慌てて答える。

 「ほんの少ししかお会いしてませんけど、あなたは実に有能な秘書に見えました。加世子さんの前で何ですけど、私はあなたが満のお嫁さん候補かと思ってましたのよ」

 「え、そ、そんな滅相もない」

 「アタシもそう思ってたよ」

 カヨが同意する。

 「あなたはどうお思いなのかしら?」

 「私は…そんなことこれっぽっちも考えたことありませんし、秘書も務まりきれませんでした。それに…」

 コータの事は言うなとカヨは目配せする。

 「アンタが務まりきれなかったんじゃないよ、一条がアンタに気を使ってさ」

 カヨはしまったと冨美を見る。ついついいつもの口調に戻ってしまった。冨美は何も気にしていないと微笑む。

 「ちょっと、この子とふたりで話してもいいですか?」

 とカヨは文佳を隅に引っ張った。

 

 「アンタさ、正直なところコータとはどうなのよ」

 「幸せですよ、もちろん」

 「アタシに余計な気なんか遣うんじゃないよ」

 カヨはビシッと言う。

 「正直言うと…よく分からないんです。コータさん仕事が忙しくてあまり二人で会う時間とか取れないし、会っても何だか話題がないというか、私は東京のこととか聞きたかったりするのだけど、コータさんは車の話ばかりで。私のことすごく大事にしてくれるのは分かるんですけど、それは恋人というより妹みたいな感じがしてきちゃうんです」

 「やっぱりな、あのヤロウ」

 「あ、悪いのは私なんですから。私が勝手に夢膨らませちゃって…」

 ま、それは確かにあるなとカヨは思った。

 「じゃあさ、この際コータはいないものとして、一条はどう思うのさ?」

 「私、それは本当に考えたこともないんです。社長は私の恩人で、私とは別世界の人で、そばに居られたことが奇跡だと思ってます」

 「ああもう、アンタってホントに面倒臭い子だよね。一条の秘書は結局嫌だったの?」

 「そんな、大変ではあったけどすごく充実してました」

 「じゃあ一条の側にいるのは嫌じゃなかったのね?」

 「とんでもない!こんな私を側においていただけたことが光栄でもう夢見てる気分でした」

 「ふん、アンタ自分で気付いてないだろうけど、アンタが一番好きなのは一条なんだよ!」

 

 カヨは冨美の下へ戻った。

 「どうもお待たせしました。ふつつかな娘ですが、満さんのお嫁さんとしてどうぞ宜しくお願い致します」

 と文佳の頭を下げさせた。

 「あら、良かったわ。これでもう安心ね、出向いた甲斐がありました。では早速結婚に向けて準備を進めましょう」

 「え、そんな急に、社長のお気持ちも聞かないで」

 「満なら大丈夫よ。女性に対して少し奥手な分、態度を見ていれば気持ちが手に取るように分かるわ」

 と本人不在のまま話は決まっていった。今頃、一条満はクシャミでもしているかもしれない。

 

 

8

 コータは県外にある板金屋にフィアット850レーサーを預けていた。そこは板金屋というよりもカスタマイザーという方が正しく、インターネットの記事から知り合って店主の南野とやりとりするようになり、意気投合していた。南野は完全な芸術肌で、顧客の要望に対して手作業でほぼ100%応えていく。特に車を低く見せるチョップドルーフやチャネリングという作業に定評があった。チョップドルーフはピラーを切断後再溶接する手法で、チャネリングというのはボディー下部を切断再溶接する。剛性に影響がでやすいチャネリングは完成すれば人目を惹くが、失敗の危険も伴う。多くの場合車高調整可能なエアサスペンションキットを取り付けて、停車時にのみ極端に低い車高を実現するが、南野の場合はフェンダーを加工してエアサスなしでの走行を可能にしている。

 「名刺1枚入るぐらいの隙間までホイールアーチとタイヤ詰められますから」

 が南野の身上である。

 

チョップドルーフ

 

チャネリング

 

 「ご要望通りに仕上げました」

 南野の連絡を受け、コータはフィアット850レーサーを引き取りに行った。作業内容はボディーの切断再溶接、フェンダーのカットに加え、フロント部分のシャシーをマルチチューブラーフレームで組み直しより軽量化を図ると共にサスペンションをレース用のダブルウィッシュボーンとコニーのダンパー、スプリングに組み換えた。

 「完璧です。過去最高の出来と言ってもいい。凄い車になりますね」

 南野も興奮し、ノスタルジックサーキットとの交流に興味津々であった。

 

 「えー、何これ?全然お洒落じゃない!」

 マチルダは改造したフィアット850レーサーのボディーを見てプンプンしている。

 「嫌よこれじゃ。純、元に戻してよ」

 「そんな、馬鹿言うなよ」

 純はマチルダの我侭に振り回されている。

 「とにかく!この車は元に戻せないなら返品するわ。代わりに何か頂戴」

 困り果てたコータと純に、サンドロが助け舟を出す。

 「お嬢さん、これと交換で勘弁してやってくれないかな」

 サンドロが見せたのは赤のアバルト850スパイダーだ。

 「わぁ、これよこれ!お洒落と言えばオープンカーよ。速いの?」

 「まあオープンカーってのが元々速く走るための車じゃないが、お嬢さんが気持ちよく走る速さは持ってるよ」

 「気に入ったわ、これにする。じゃあ返品じゃなくて下取りで。差額はお支払いするわ」

 マチルダはご機嫌で帰っていった。

 

 「ありがとうございます。お陰で騒ぎにならずに済みました。でもよく彼女の好みが分かりましたね」

 コータが礼を言う。

 「バカヤロウ、カヨを見てりゃ女の好みそうな車なんてすぐ分かるじゃないか!お前が鈍すぎるんだよ」

 サンドロが笑いながら頭を小突く。そう言えば最近カヨが元気がない気がする。コータはカヨの顔を思い浮かべながら頭を強く振った。何考えてるんだ、自分には文佳ちゃんがいるじゃないか!

 

 週末、マレンスキーは休みを取り、従来のようにノスタルジックサーキットは開放される。走行客は夕方5時でタイムアップとなるが、なかなか帰路に向かおうとはしない。これからショータイムが待っているからだ。赤と白の2台のランダーr6がコースインして暖気周回を始めると一斉に歓声が上がる。いまや純とコータのエキシビジョン走行は話題をさらっている。2台は見事なコンビネーションで信じられないスピードで各コーナーを駆け抜けていく。特に最終逆バンクの複合コーナーをドリフトを使ってクリアする様は芸術的である。3周の全開走行を終えると興奮の余韻を残しながら客たちはサーキットを後にしていった。

 

 「何だかすっかり名物みたいになっちまったな」

 純が満足そうにヘルメットを取り、コータもああと笑う。カヨがそんなコータを手で招き寄せた。

 「何だよ、オレ文佳ちゃんを泣かせたりしてないぞ」

 「この鈍チンが!文佳は一条と結婚が決まったよ」

 「何だって?」

 コータは事態が飲み込めずに呆然とするばかりだ。

 「そういう訳だからさ、アンタ今後文佳には手出し厳禁だからね!一応聞いとくけど、文佳とはヤッたの?」

 「い、いやそんな関係までは…」

 「やっぱりね。アンタらしくて助かったよ。じゃね」

 去ろうと手を振るカヨをコータは呼び止める。

 「あのさ、カヨ最近何かあったか?何だか元気なさそうに見えたからさ」

 カヨはちょっと驚いた。まさか自分の様子に気付くとは。決して人には本心を見せないようにしていたのに。

 「ふん、何でもないよ。色々あってちょっと疲れたのさ、アリガトね」

 カヨは紅潮する顔を見られないように小走りに去った。一つ屋根の下で暮らす二人だ、気にならない方がおかしい。

 

 

9

 マレンスキーはいつも急に話を持ってくる。

 「ランダーr6に1000万ドル出すと言う客がいるのだが…」

 「1000万ドルって、およそ15億円かよ!」

 ジョージの隣に居たサンドロが驚いた。そんな金額これまで目にした事もない。

 「元々10台が作られて、現存する台数ははっきりしない。まあ本来バックヤードスペシャルに付くような金額ではないが、最近の純君とコータ君のパフォーマンスが結構評判でね。速さが証明されたからね」

 「そんなこと言われてもなあ、赤は既に純の所有だし、白もコータに使用権を与えているから勝手にどうこうはなあ」

 「おいおい、こんなチャンスを棒に振るなよ。コータのことは一切気にするな、むしろ奴にはランダーが無い方が都合がいい」

 サンドロはようやく蛇行していた流れが落ち着く気配を感じた。

 

 「え!」

 サンドロから伝えられた急な話にコータは驚きを隠せない。このところこんな事ばかりだ。文佳の件、マチルダとの食い違い、そして今回はランダーr6が売られると言う。正直なところこれほどの車は他にはまずないだろう。しかし…

 「やったじゃないですか、これでクーパー倶楽部の収益は安泰だ。サーキットの運営も大きく上向きになりそうですね」

 冷静に考えれば、一回りして元に戻ったということじゃないか。フィアット850レーサーのサスペンションを傷めて、本来なら車がない生活を強いられたはずが、逆にレンハムGTに乗ることができ、ランダーr6で純とチームを組むようなスタイルになった。そしてそれらが手元から消えて再びフィアット850レーサーが、前とは見違える姿で戻ってきた。これからエンジンを載せ換えるのがまた楽しみだ。

 「それでな、実はお前の了承なしに津野田に日産エンジンの手配を断っておいた」

 「なんですって!」

 さすがにコータも怒りが湧いてくる。何故こうも立て続けに、全て蚊帳の外に置かれていくのだ。

 「まあ落ち着け、急いでたもんでな。フィアットに似合うのはやはりアバルトしかない。そしてこのタイミングでイタリアから信じられないユニットが手に入ることになったんだ。アバルトot1600スポルト・スパイダー用の1.6リッター・レーシングエンジンだ」

 今度は掌を返すように興奮が湧いてきた。

 「それって!」

 「ああ、悪いが日産のA型レース用エンジンとは格が違う。アバルト珠玉のビアルベロ(DOHC)、生粋のレーシングだ」

 ジョージがやってきて正式に謝罪したが、コータにはもうほとんどランダーへの未練は感じられない。逆にジョージには感謝しかない。そして一連の出来事を通してノスタルジックサーキットの連帯感がグッと大きくなった。それは何物にも変えがたい見えない宝物ではないか。企画していたGT選手権も、結局シェルビー2000GTが滞在中に参加車両が集まらず、仕切り直しとなった。それもまた何かの必然だろう。コータは知らず知らずに自分が脇道を彷徨っていたのを実感する。進むべき道がまた見えてきた。人生においては何事も経験だ。遅れや無駄など何一つない。

 

 お時間を下さいと文佳がコータのもとにやってきたのは夕日が眩しく射し込む時だった。いきなり人生最大の変化の大波がやってきて翻弄され、一条冨美に実家の一部屋を与えられて日常の風習と習慣にまずは馴染まされた。文佳にとって社長が唯一一目置いている存在の冨美は、あたかも会社の会長のように感じられ、最初のうちはそれこそ会長秘書を務める気分だった。1週間ほどしてようやく仕事という錯覚が消え、満とも深く話し合い、自分のシンデレラストーリーを現実として受け取ることが出来てきた。そして突然現実世界の身辺整理を思い出したのである。

 「自分からお願いしておいて大変に申し訳ないのですけど、私、コータさんとお別れしたいのです。実は…」

 「いいよ、それ以上は言わなくていい。悪いのはオレの方だ。本当にそう思う。最高の幸せを手に出来ておめでとう。心からキミと一条さんを祝福する」

 

 純と肩を並べて沈み行く夕日を見送る。

 「何だかさ、祭りが終わったような感じだよな」

 純が呟く。

 「ああ、そうかもしれない。だが祭りに集まるのは一時の関係さ。本当の仲間は祭りが終わっても側にいる」

 コータの言葉に純は嬉しそうに頷いた。

 「文佳のことなんだけどさ」

 「いや、彼女のことなら気にしてくれる必要はない」

 コータはそう断ったが純は続ける。

 「まあ聞いてくれよ。オレと文佳は子供の頃から一緒で、幼馴染っていうか、この村自体子供が少なかったからアイツの親に仲良くしてやってくれって頼まれてさ、兄貴としてアイツを守ろうって思ったのさ。アイツの家は村では裕福な方で、逆にオレんちは貧乏で、年中飯食わせてもらってさ、本当に兄弟みたいに育ったな。で、子供の頃はアイツに父親がいない理由なんて分からないし興味もなくて、ただ文佳は欲しい物は何でも貰えたんだけど、唯一オレに父親がいることは羨ましがってた。だからアイツは年上の男についつい惹かれちゃうんだろうな。コータとの切っ掛けも都会から来たとかいうことより、年上の安心感と憧れだったと思うんだ。一条満は文佳にとって全てを満たしている最高の相手なんだよな。オレもようやくナイトから解放されるさ」

 年上への憧れか、コータは納得しつつも少し寂しさを感じた。自分はまだまだ若いつもりでいる。

 「オレと文佳のこと、妙に勘ぐる奴らも居てさ、特にアイツの親衛隊だ。本気で別れろなんて詰め寄って来るんだぜ。こっちは単なる子守なのにいい迷惑だったぜ。一条満ならさすがに親衛隊も黙るしかないよな。で、オレはマチルダとルンルンなんだよなあ」

 最後はそれかよとコータは笑った。

 

 

終わり