1
「コータってさ、峠は好きなの?」
唐突に純が聞く。
「ん?何で?」
「いや、何となくというか、コータ走りのセンスが抜群にいいじゃないか。峠で鍛えたのかと思ってさ。オレが昔そうだったから」
「峠は走ったことないな」
コータは答えた。
「そうだよな、東京に峠なんて無いもんな」
峠どころか車も持ってなかったとは言えなかった。走りのセンスがいいのだとすれば、それはゲームに興じたためだろう。
「この近くに峠があるのかい?」
コータは逆に聞き返す。
「ああ、近くに百瀬峠ってところがある。何処でもそうだが夜は走り屋が集まってると思うよ」
走り屋と聞いて、コータはちょっと興味が湧いてきた。
「行ってみたいな。今度案内してくれるかい」
「ああ、もちろん。今夜でもいいさ」
夕飯時、カヨに話すと「アタシも行ってみたい」となった。少し前になるが、コータはカヨに気持ちを打ち明け、交際を申し込んでいた。一条家に呼ばれていた経緯も知り、手放しては駄目だと決意したのだ。カヨは頬を赤らめて「アタシなんかで後悔しないかい?」と言いながら交際を了承した。
サーキットに向かうと純がマチルダのアバルト850スパイダーで待っていた。助手席にはマチルダが楽しそうに乗っている。
「ドライブなら一緒に行くって聞かなくてさ」
ポリポリと頭を掻く純にコータとカヨは笑って頷いた。コータはガレージから仕上がったアバルト850レーサーをゆっくりと出してきた。
「オレたちはこいつで行くよ」
百瀬峠はサーキットから一度下った隣山のワインディングロードだ。頂上からの眺めが良く、大きな駐車場があるため、昼間はちらほらと観光客が訪れる。日が沈むと街灯の無い山道は静寂の世界に変わり、夜が更けるに伴って次第にエキゾーストノートとタイヤのスキール音が木霊し出す。コータたちは頂上の駐車場に停め、登ってはUターンして下っていく何台かを見ていた。
インプレッサが小休止してドライバーが近付き、
「見ない車だが、走りに来たんじゃないのかい?」
とオープンカーの純に話し掛けた。
「勝手に走ってもいいのか?」
「可笑しなことを言う奴だな、ここは天下の公道だ、いつ誰が走ろうと勝手だろうが」
インプレッサの男は笑い出した。
「いや一応さ、オレが昔走ってた頃は仕切ってるチームのリーダーにことわりを入れとくのが流儀だったもんでね」
純の言葉に男はホウッという顔をした。
「ずぶの素人じゃないって訳か。今はこの峠を仕切るチームなんて無え。よそ者2人がたまに来ちゃアタマ競ってる状況さ。オレは地元だが、さすがに他所から出向くだけあって奴らにゃ歯が立ちやしねえ。今日は来てねえから遠慮なく走りなよ。オレは相沢っていう」
と男は手を差し出す。
「オレは柳田純、あっちは伊村光太郎、よろしく」
純は握手に応じた。
「それにしても2台ともカップルなんて、正直羨ましいぜ。車も外車だよな」
「ああ、2台ともアバルトって車さ。これはオレのじゃなくて彼女のだけどな」
と純は格好つけて言う。
「外車って言やあ、実質ここのアタマ取ってるのはポルシェだ。東京から明け方にフラリとやって来ちゃあパパーンと攻めて帰ってく青いターボだ。もう1台はチバラギって感じのソアラで、まあNo.2だな」
「ふうん、色々分かってきたよアリガトさん。挨拶代わりに一勝負どうだい?」
「いきなりアンタとか?」
相沢はややたじろぐ。
「いや、オレは昔十分に走ってるからもう1台の方さ。彼は初めてだから教えてやってくれよ。オーイ、コータぁ、走るだろ?」
コータはOKのサインを送る。
「まあ、そういうことならここの走りを教えてやるぜ」
相沢は軽く手を上げて、インプレッサに乗り込んだ。
コーナーを3つも抜けた辺りで、相沢は冷や汗を流し始めていた。まずは見せ付けてやろうと限界ギリギリでコーナーへ飛び込んだのに、後の赤いアバルトって奴はピッタリと張り付いて離れない。それどころかいつでも抜けるという雰囲気を漂わせている。
コータはカヨに「しばらく待っててくれ」と言って軽くアバルト850レーサーのテスト走行に繰り出したつもりだ。地元の走り屋の胸を借りるつもりが想定するよりペースが遅くてテストにならない。コーナー3つは譲ったがこれ以上は時間の無駄、コータは短い直線で横に並ぶとインプレッサを抜き去り、矢のように消えていった。初めての道だがノスタルジックの難しさに比べたらどうという事はない。軽く、パワフルで、目いっぱい重心を下げたリアエンジンカーは実のところこれ以上ない峠の理想車なのだ。
改造したコータのアバルト850レーサーは、3690mm×1500mm×1160mm、ホイールベース2027mmのコンパクトさで全高は15センチも低くした。マチルダはペタンコになって嫌だと言ったがコータから見たらこの上なく格好いい。エンジンはot1600スポルト・スパイダー用の水冷直4 DOHCで1592ccから172馬力/8000rpmを搾り出す。生粋のレーシングエンジンに加えてミッションも6速MTで、車両重量はマルチチューブラーフレームでフロントを組み直して僅か590kgに抑えている。パワーウエイトレシオ3.4だ。
麓でUターンするとコータはハイペースで峠を上り、カヨの待つ駐車場へと戻った。
「お帰り、早かったのね」
「まあ、キミが待ってると思うとついついさ」
コータも舌が浮くようなセリフを言えるようになったものだ。
かなり遅れてインプレッサが戻って来た。コータは挨拶して帰ろうと待っていた。
「せ、先生、お見それいたしました。オレを是非弟子にしてください」
相沢が真剣に頼むのを見て、純は笑っている。
「先生だなんて、オレたちはこの先でサーキットやってるから、今度遊びに来てよ」
「行きます、絶対に行きます」
相沢はいつまでもコータたちを見送って佇んでいた。
2
「やっぱりポルシェターボが居たら王座に君臨するよな」
休憩しながら純が昨夜の話を振り返る。
「ポルシェはそんなに速いのかな」
コータはヒストリックカークラブの日下部のポルシェを思い起こす。確かに速さはあったが正直てこずるほどの相手ではなかった。
「ターボはまず別格だよ。特に964の3.6ターボはね。993からはターボは4WD化されたから3.6ターボは一般市販車として最後のRRとなってしまい伝説化してるよ。993からは特別グレードのGT2としてRRのターボが作られたがサーキット用みたいな扱いさ」
そんなに違うのかとコータは驚く。
「まあ、ターボじゃなくてもポルシェは峠の申し子みたいなものだけどさ、それはそのままコータのアバルトにも言えるさ。一般的にスポーツカーは前後車軸への重量配分が50:50を理想として設計されるけど、ポルシェのRRは前後重量配分が30:70と極端にリアヘビーなのさ。それで加速時は10:90となって駆動輪にトラクションが余すことなく伝えられる。減速時は50:50という理想重量配分になるから、4輪をブレーキに使えて前輪への負担を押さえられるという訳さ。常にフロント荷重が不足しているからステアリングで曲がろうとすると扱いにくいと感じてしまう。ポルシェが難しいとされるのはそこなのさ。後はFFと違うメカニズムでアクセルオフでのタックインが来るから慣れないと怖い。アバルト使いのコータにそんなことは釈迦に説法だけどね」
純の言葉を補足すれば、50:50の理想配分で作られた車は加速時に30:70、減速時に70:30となり、どうしても前輪の負担が大きくなってしまう。
「ちわっす!」
後から声がして、振り返ると相沢が来ていた。
「何だ、早速来たんだ。本当に来るとは思ってなかったよ」
純がからかう。
「そりゃないっすよ、大先生。先生自らのお誘いを断ったらばちが当たりますから」
どうやらコータが先生で、純が大先生ということになってるらしい。
「えっと、出来たら先生にオレの助手席乗ってもらって、教えてもらいたいんっすけど」
「ああいいよ」
コータは軽く引き受け、インプレッサの練習走行に30分ほど付き合った。
「どうなんすっかねえ」
相沢はアドバイスを求める。
「キミの場合は・・・」
「毅でいいっす、タケシ」
「ゴホン、ではタケシの場合は公道で走っているせいかまだまだ限界まで攻められてないんだよ。そりゃ一般道でスピンさせたりしたら怖いし事故る危険が高いからね。まずは思い切ってスピンするまで攻め込んで、限界を知るといい。それだけで格段に速くなるよ」
コータは率直な意見を伝えた。
「そっか、確かにスピンなんてさせたら終わりって思ってましたからね、そっか、スピンさせてみろか」
タケシは嬉しくてたまらないようだ。
「ありがとうございます、先生!」
「コータでいいよ」
「ではコータ先生、また来てもいいっすか?」
「もちろんだよ。逆に今までどうして来なかったのさ、地元でもここの存在って知られてないのかな?」
コータは疑問を投げ掛けた。
「うーん、知ってはいたんすけど、何となく敷居が高いって言うか。何より金払うのが惜しいっすね、正直峠はタダっすから」
「お金に苦労してるのか」
「いや、そういう訳じゃないっす。金が無いんじゃなくて、金は愛車につぎ込みたいんっす」
タケシの答えはコータにとっては盲点と言えた。コータはこれまで車への愛着が薄かったし、常に申し分のない最高の車が提供されてきたからだ。今は分かる。アバルト850レーサーの改造にかなりの費用が掛かり、コータが支払うしかないのだ。例によってサンドロに立て替えてもらって出世払いになってはいるが。
「それでコータ先生、先生の愛車、低くてすげえカッコいいじゃないっすか。オレのインプも同じ様に出来ないっすかね?」
タケシは走ることよりも熱心に頼み込んできた。
「ああ、金は掛かるけど出来るよ。やってみるかい?」
「是非お願いしたいっす!」
早速南野を呼んで打ち合わせするか。コータは新しいマーケットの可能性を感じた。
タケシの話では百瀬峠にポルシェターボが現れるのは週に2回程度で、週末よりもウイークデーが多いという。時間帯はほぼ明け方の4時前後、コータと純は確率の高そうな時を狙って峠に出向いた。アバルトのレーサーとスパイダー、2台体制だ。3時半に着いて頂上で待っているとアバルトot850に乗ったタケシがやってきた。インプレッサの代車、奇しくもアバルト850シリーズの揃い踏みだ。4時に運良く青のポルシェターボが現れた。964の3.6ターボ、ポルシェ史上最も伝説を帯びた公道最強と言われるターボだ。車内からは演歌が漏れ聞こえてくる。蒸し暑いのに長袖のYシャツを着た細身の男が降りてきた。
「あんたら、俺とやりたいのかい?」
細く鋭い目に、ニヒルな笑いを浮かべて話しかけてくる。
「ああ、お手合わせ願いたい」
純が挑戦的に答えた。ポルシェの男は並んだアバルトを値踏みするように眺め、フンと呆れ顔でセリフを吐き捨てる。
「どれも相手になりそうにないなあ、大人しくお家に帰った方が無難だぞ。まあ、こっちも退屈しのぎに1台だけなら遊んでやってもいいがな」
「じゃあオレが」
コータが名乗り出た。
「下って上っての往復でいいかい?頂上を同時スタートの1本勝負だ」
青のポルシェ3.6ターボと赤のアバルト850レーサーが横に並ぶ。スターターは純が引き受けた。
「どっちも準備いい?じゃあ、3…2…1…GO!」
純が手を振り下ろすと同時に2台は猛然と発進した。低回転から絶大なトルクを発生する空冷シングルターボの加速は実に過激だ、太いブラックマークを残しながらアバルトを引き離す。すぐに最初のコーナーが迫り市販車最高レベルの制動力で安全速度域に減速するとゆっくりとコーナーを回り、再び爆発的な加速だ。コータはすぐに理解した。これはテクニック云々の問題ではない、単純に最高の加速と最高の減速を繰り返すだけで並みの車はあっという間に引き離されてしまう。あまりにも圧倒的に車が凄いのだ。あの細身の男は余裕で演歌を口ずさんでいることだろう。だがコータはもう並みのドライバーではないし、可愛いアバルト850レーサーは並みの車ではない。相手のリズムに引き込まれることなく自分の最速ラインをトレースするとすぐにコーナー4つで追いついた。どうやって攻略しようか?ポルシェは必要以上に安全速度まで減速している。突っ込み勝負だ!
コーナーに向けてインを閉めるポルシェ、コータはアウト側からブレーキを遅らせて前に出ると、オーバースピードをタックインからのドリフトで凌いで派手にコーナーをクリアした。ゼロ発進からの加速では分が悪いが、コーナーの脱出速度が断然違う。アバルト850レーサーはポルシェターボを加速で逆に引き離す。既に下りの勝負はついた。だが上りになればあの圧倒的トルクの加速は本来の威力を発揮してくるだろう。コータは手を緩めることなく全力で下りを征し、ポルシェターボの戦意を奪い取った。
「兄ちゃん速いな、初めて負けた、完敗だよ」
細身の男は気持ち良く敗北を認めた。
「俺はな、三木っていって東京で5軒ばかしスナックを持ってる。店はそれぞれ専属の雇われママに任せて、毎晩見回りした後、高速かっ飛ばしてスカッとしとる。峠ちゅうのはどちらかと言えばおまけでガキ共と遊んでたが、実のところは見ての通り峠のテクなんてもんはねえんだ。俺は高速で300出して加速で誰にも負けなきゃ満足だ。ここの王座とやらは兄ちゃんにくれてやる。今度良かったら店にでも遊びに来な、サービスするぞ」
そう言うと、三木は名刺を残して白みゆく百瀬峠を去っていった。
「スゲエ、凄いっすよコータ先生!」
タケシは大興奮だ。今夜にはコータの噂が尾ひれを付けて広まっていることだろう。
3
「何だかあっけなく百瀬峠を制圧してしまったけど、百瀬のNo.2はどうするつもりだい?」
純が話しかけてきた。車がいいとは言え、自分が走っていた頃にはこんなに簡単にはいかなかった気がする。あの頃のトップランナーたちはどうしてしまったのだろう。
「もう峠は気が済んだよ。積極的に出向くつもりはないけど、No.2は向こうから接触してくる気がするな」
コータは昨夜の三木とのバトルを思い起こしながら答えた。あそこは豊かな水辺に鴨たちが集まって小競り合いをしていたところに突然鷲が舞い降りてきて蹴散らしてしまったような、そんな感じがする。鷲がいなくなって再び鴨は戻ってくるかどうか…
数日後、受付のカヨがコータに連絡してきた。
「ダーリンに会いたいって派手な車が来てるョ」
案の定No.2のソアラだった。近寄りがたいド派手なオーバーフェンダーにリーゼントを思わせる尖ったボンネット、ただ中身もしっかりいじっている様で、それなりのオーラを発している。
「オレに用?」
コータが話しかける。開襟シャツの襟を立てた短髪の男が鋭い視線を向けてきた。
「三木さんに勝ったっていうのはアンタか?俺は竹本新(アラタ)、アランって呼ばれてる。アンタに勝負を挑みたい」
「オレは別に峠に執着はないんだけど、どうしてもやらなきゃだめかい?」
コータはやんわりと断りたかったが、逆に刺激してしまったようだ。
「俺たちの聖地をコケにするんじゃねぇ!今夜9時、頂上で待ってるからな」
こちらの都合も聞かず、一方的に吐き捨てるとアランは去っていった。
「夕飯、早めにした方がいいわね」
カヨが笑った。
その夜、峠に4人で出向いた。コータ、カヨ、純、マチルダである。9時に頂上に着くと、既にアランは待機していた。
「ケッ、女連れかよ。余裕かましてやがるぜ」
アランは毒づく。駐車場には十数台のギャラリーと思われる車が停まっていて、コースの待避所にもチラホラとギャラリーが陣取っていた。こういう雰囲気は初めてだ。やや遅れて噂を聞いたタケシが駆けつける。
「スゲエ、久しぶりに峠に熱気が戻った感じっすね」
タケシは興奮を隠せない。
「ルールはお決まりの下り上り合わせての1本勝負、用意ができたらスタートに並んでくれ」
アランはそう言うと、すぐさまスタート地点にソアラを移動した。
チバラギソアラとアバルトレーサーは合図と同時に並んでスタートを切った。ソアラはNAのメカチューンのようだ。最初のコーナーまでにコータがややリードするが、イン側のソアラがラインを制した。コータは後からアランの走りを観察する。荒削りだが熟練の雰囲気が漂う。ヘアピンの連続に対してドリフトを多用するギャラリーを沸かせる走りだ。観衆が集まるのも納得だ。コータの目からしたら三木のポルシェ3.6ターボよりもアランの方が速い。No.2に甘んじていたのはおそらく圧倒的な加速に抑えられてどうしても抜けなかったのだろう。
峠道のヘアピンでドリフト走りをされたら抜くのは極端に難しくなる。車体を横向きにして道路をふさいで、ブロックされるからだ。チャンスを見い出すとしたら相手に合わせてドリフトさせ、抜くための道幅を作り出すしかない。コータは一度で決めようと思った。大きく回りこんでいく道幅が広めのコーナーで、ソアラに合わせてアバルトを横向きにして侵入する。こうなると後追いの方が有利だ。必ずインを取れるからである。回り込みながら徐々に外側に膨らむソアラ、コータはイン側に出来た隙間に向け、スロットルを開けて飛び込む。アランにはもうなす術はない。ブロックしようとステアリングを切ればスピンするだけだ。かといってアランの位置では加速に入れるタイミングでもない。コータはギャラリーの歓声を浴びながら美しいライン取りでヘアピンをクリアし、見事にアランを抜き去った。一度前に出てしまえばコータの方がコーナーリングスピードが高くてじわじわと差が広がっていく。二度とアランを前に出すことなく、コータのアバルト850レーサーはカヨの待つ駐車場へと帰還した。
「やったね、ダーリン」
とカヨはコータの頬にキスする。こうなるとカヨは大胆だ。思いっきりコータに抱きついた。ギャラリーは羨望の歓声を送る。
「やっぱり勝てないか…」
やや肩を落としながらアランが近寄ってきた。
「これでアンタを名実ともに百瀬の王者と認めるよ。どうだろう、ここの走り屋たちをまとめてチームを仕切ってもらえないかな?」
「いや、折角だけどオレは辞退させてもらうよ。これだけ観客に人気があるんだからキミが仕切ればいいじゃないか、アラン」
コータはきっぱりと断った。
「俺は元々よそ者なんだよな。地元じゃ厳しいんで、そんなにレベルが高くない百瀬に目を付けてアタマを取った。だが地元じゃないから年中来れるって訳じゃない。この聖地を壊してしまったのは俺さ。まず、それまで結構結束してたチームがバラバラになってしまった。そして窮めつけがここに怪物を呼んでしまったことだ。ある日夜中まで寝ちまって、ここに向かおうと高速を飛ばしてたら青いポルシェターボの目を惹いてしまった。散々高速でからかわれた挙句に峠まで着いてきて、圧倒して帰っていった。それ以来、週に2回ほど遊びに現れてはみんなを蹴散らして満足していく。あの人、三木さんは多分堅気じゃない。決して脅すような人じゃなくて、どちらかと言えば寂しさを紛らしたいのだと思うんだが、冗談交じりでエンジンが前に載ってるのは耕運機だとか、国産は貧乏人の乗り物だとかからかうもんで、どんどん怖がったり嫌になったりして峠に集まる者がいなくなってしまったんだ。俺は何度も三木さんに挑んだが歯が立ちゃしない。三木さんを倒したアンタは俺にとっても峠にとっても救世主なんだよ」
アランは思いの丈を連ねる。コータは放っておく訳にもいかないかなと感じた。
「キミの気持ちは分かったよ。少し考えがあるから待ってくれないかな。それまではキミがここを仕切ってくれ。それともっと速くなりたい気があるなら、サーキットに来れば教えるから」
4
一条満と文佳の披露宴は、政財界の大物を招待して盛大に行われた。コータたちはさすがに顔を出せなかったが、マレンスキーは招待されて日本に強い影響力を持つ大物たちに顔を繋いでおいた。今の所は彼らと懇意にするつもりはない。分かりにくい根回しやドロドロした風習がとても面倒だからだ。逆に自分を魅力的に見せるために、マレンスキーはオーストリア王族を偲ぶ日本ハプスブルク協会に寄付を行ったりしていた。活動に参加するつもりはない。貴族に憧れ、乗馬や社交ダンスに没頭する会員達とはうまが合いそうにない。だが本物の貴族という肩書きには確実に磨きが掛かる筈だ。
マレンスキーと共に披露宴を見てきたマチルダは、もう熱気が冷める気配がない。純を捕まえてはどんなに素敵だったか、自分も花嫁になりたいとおねだりしている。それはカヨにも伝わっているのをコータは感じていた。今こそがタイミングかもしれない。
「カヨ、オレと結婚して欲しい」
コータのぶっきらぼうなプロポーズをカヨは可愛いと思った。
「ハイ、いつまでも一緒にいましょうね、ダーリン」
マレンスキーの館で、コータとカヨ、純とマチルダの合同結婚式が開かれ、村の仲間たちの祝福を浴びた。サンドロは感極まって大泣きしていた。
「カヨは俺の娘同様、コータは息子同様だ。晴れてこれで本当の家族だぜ、オイオイ」
「もう毎日マチルダに引っ張り回されて大変だよ。カカア天下って感じ?コータのとこなんかもっと大変だよな」
数週間過ぎて落ち着きだした頃、純がコータに話し掛ける。
「いや、オレのところはこんなんでいいのか?ってくらい、至れり尽くせりなんだ。カヨはダーリンって呼ぶから、オレはハニーって呼んでさ、普段の言葉使いもすっかりおしとやかになってるよ」
コータは照れもせず、しれっと答えた。
「何だってー!絶対コータ尻に敷かれてると思ったのに裏切りだよそれ」
純は羨ましながらも、デレッとした顔の緩みを隠せない。ノスタルジックサーキットはすっかりラブラブサーキットの雰囲気だ。
南野がタケシのインプレッサを仕上げてきた。
「ギリギリまで車高落として重心下げました。コータさんにエンジンのドライサンプ化しておいてもらったお陰でいい仕上がりです」
早速タケシに引き渡すと有頂天で張り切りだした。
「これっす、これ!よーし、やるぞー」
そしてサーキットで走らせてみて、その限界の高さに驚いた。
「全然別物じゃないっすか!これならオレでも結構通用する気がしますよ」
「うん、じゃあとりあえず百瀬でアタマ取って来いよ、今のタケシならいけるから」
コータはさらっととんでもない使命を与える。
「ええ?…まあコータ先生がそう言うなら。やれるだけやってみます」
タケシのインプレッサは丸目ライトのGDB、2リッター水平対抗4気筒ターボエンジンを積むWRX・STiのワゴンで、WRCラリー直系の最上位機種だ。280馬力の高出力を4WDで路面に伝える。ポルシェ直伝のボクサーエンジンの最大の魅力は重心が低く出来ること。ポルシェはもともとドライサンプだが、インプレッサもドライサンプにすることでポルシェの戦闘力の片鱗を得ることが出来る。丸目ライトは何故か日本では不評だが、コータから見たら歴代で最も格好いいと感じる。タケシは色をコータたちに合わせて赤に塗装してもらった。
「やるからにはまず名前っすね、赤い彗星とかじゃありきたりだしなぁ」
タケシがブツブツ言う。
「そんなもん、どうでもいいだろ」
純が笑うがタケシは真剣だ。
「そうはいかないっすよ、大先生。勝手に変な呼ばれ方したら嫌っす。百瀬だから桃背ってすればピンクバック…あ!ピンクバックシャンなんていいっすね。インプの後姿を拝んでろってね」
タケシは満足すると、張り切って引き上げていった。
実際2週間でタケシは百瀬峠を制してきた。最終的に今まで手の出ない別格の存在であったアランのソアラにも勝ち、最早百瀬峠でタケシを認めない者はいない。そしてピンクバックシャンの通り名は近隣の他の峠にも広まりつつあった。
「やったっすよ、コータ先生。いやあ、アタマ取るって気分いいっすね。オレ、もしかしたらもうコータ先生より速いかもしれないっすよ。ああ、大先生よりは速い自信あるっす。奥さんのオープンカーじゃオレの前へは出られないっすよ」
タケシは鼻息荒く自慢する。
「それじゃやってみるか?」
純はニヤニヤしながらタケシをサーキットコースに誘った。
タケシのインプレッサをポールスタートさせ、ランダーr6に乗り込んでアバルトレーサーのコータと共にタケシを追う。言うだけあってタケシの上達ぶりは確かだった。インプレッサもスペシャルマシンに仕上げられている。もう以前のもたつき感はなく、すっかり走りがシャープになった。それでも純は例によってコータとコンビネーションを発揮し、1周目の第4ヘアピンからの立ち上がりでタケシを抜き去る。コータのアバルトもフェイントを使ってからかうようにタケシを抜き去り、3周で絶望的な差をつけてタケシを呆然とさせた。
「な、何すか大先生のあの車!反則っすよ。コータ先生も本気出すと全然違うし、やっぱ凄いっす。もう二度と生意気言いません」
タケシはペコペコ頭を下げまくる。
「ねぇ、お二人見てると赤の最強ツインじゃないっすか、なんかカッコいい名前ないかな?イタリア語で赤いツインってどう言うんすかね」
コータも純も「さあ?」と笑いながら首を傾げていると、
「ジェミーロ・ロッソだ」
とサンドロが教えてくれた。タケシはカッコいいと大喜びだ。
「ところでこれからオレ、何すればいいっすかね?」
使命を果たしたタケシはコータに次の指示を求めた。
「そう慌てなくていいよ、すぐに分かる。まあ、百瀬の走り屋たちをチームとして統率しておくことだな」
5
チバラギ仕様のソアラがノスタルジックサーキットにやって来たのは数日後のことだ。アランは憔悴した様子に見えた。
「もう訳が分からねえ。アンタに峠で千切られたと思ったら、今度はポッと出のインプレッサだ。聞きゃあ、アンタの弟子だって話じゃないか。俺も本腰入れて教わりたいと思う。いいかな?いや、お願いできますか?」
アランはコータに頭を下げる。
「もちろん大歓迎さ」
コータはアランと握手を交わす。
「走りのテクはもちろんなんだが、俺のソアラはどうなんでしょうね?もっと速くいじれますかね?」
アランの要望に、コータは南野を呼んでソアラを見てもらった。
「まあ、それなりに極めた仕様なんでしょうけど、派手なオーバーフェンダーや溶接で伸ばしたボンネットは、はっきり言って威嚇だけで重たい鉄の塊にすぎません。しかしこれがアイデンティティーなのだろうから難しいですね。あとボディーは修復だらけ、フレームも多少いっちゃってるんで、相当荒っぽい乗り方してきましたよね。車を速くしたいのなら別の個体に乗り換えてチューニングした方がいいですよ」
南野にそこまで言われて、アランはがっくりと肩を落とした。
「アラン、キミは仕事は何をしているんだい?」
コータは聞いてみた。
「いや、仕事ってほどのもんじゃなくて、茨城に住んでて日雇いで暮らしてます。原発関係はやたら日給がいいもんで」
コータはそれはあまり良くないと感じた。
「出来たらさ、こっちに移住してこないか?仕事ならどうにでもなると思うよ」
コータの勧めに応じて、アランはノスタルジックサーキットの近くの空き家に居を移した。36仲間の津野田が雇ってもいいとなり、整備の見習いから始めることになった。面白くないのはタケシだ。後から来たアランがコータたちと普段の時間を共有すると知って、自分もと強引におねだりしてくる。仕方ないのでアランと同居して、同じく36仲間の見習いになった。2人の新入りを迎え、ノスタルジックサーキットは一層賑やかになった。
アランはソアラに見切りを付けようとしていた。長い間共にしてきたが、南野の指摘通りかなり傷んでいることは自覚している。茨城では違和感がない外観もここでは場違いで恥ずかしく思える。
「何か乗りたい車とかあるのか?」
作業を教えながら、津野田がアランに聞いた。
「いや、特にこれって車は思いつかないですけど、かと言って何でもいいって訳じゃないです」
アランは実際のところ、またソアラ辺りが無難かもなと考えていた。
「何かこう覇気がないねえ。まあ最近の若い世代はそんなものなのかね」
津野田は軽くため息を吐いた。
「じゃあ、津野田さんは好きな車とかってあるんですか?」
アランは聞き返す。
「俺はそうだなあ、60年代の国産車がいいよな。日産のフェアレディーSR311とか、マツダのコスモスポーツとかゾクゾクするねえ。最高はやっぱりトヨタ2000GTだな。今は360ccに興じているけどな」
トヨタ2000GTと聞いて、アランの表情が変わった。
「その車、トヨタ2000GTは俺の憧れっす。まあ、とても手が出る車じゃないんで、秘めたる夢って感じですけど」
と興奮気味に語る。
「ふうん。そんなに好きなのなら面白い物見せてやろうか?」
津野田は次の仕入れに一緒に付いて来いと誘った。
タケシはその間、というよりも普段ほとんど2階の事務所に居た。アランたちがそんな話をしているとは露知らず、休憩時間に恐るおそる釘を刺す。
「あのさ、一応俺がチームリーダーって訳で、その、アンタにはサブリーダー任せっけど、俺を差し置いてコータ先生たちと抜け駆けはしないでくれよな」
アランは「ああ、分かったよリーダー」と言いながら、ニヤリとする。純やコータ以外なら構わないってことだな。
津野田に連れられて解体屋で部品調達を済ませたアランは、その裏で驚く物を見せられた。洪水被害で完全に水没してしまった車…おまけに車内に取り残された元オーナーはそのまま帰らぬ人となって解体屋に引き取られてきた曰く付きの代物。泥まみれの赤いその車種はトヨタ2000GTだ!
「普通なら即スクラップだが、車が車だけに、ここの親父も取り扱いを決めかねてる。修復にはかなりの手間が掛かるから現状ジャンク扱いで、俺なら結構買い叩けるぞ。お前が要らなきゃ俺が自分で買い取るつもりだ」
津野田はアランの反応を見る。
「か、買います!借金しても欲しいです!」
アランは必死に懇願する。
「よし、決まりだな」
引き取られたアランの2000GTを見て、ノスタルジックサーキットは興奮に包まれていた。泥臭いのでみんな遠巻きに眺めている。
「な、何だよう、抜け駆けするなって言ったばかりじゃないか」
ブツブツ言うタケシに、してねえよとアランは相手にする気を見せない。エンジンを降ろし、3日掛けてアランは車体を徹底的に洗浄した。念のため寺の坊さんにお払いも頼んだ。
「それじゃリーダー、コータ先生と相談するからな」
とタケシに断り、アランは南野も呼んでもらって津野田と純とコータを含めた5人でトヨタ2000GTの修復プランを練った。
「ここまでやられてたら何処をどう弄っても惜しくないですね」
と南野。
「エンジンは全バラして電装関係は総取っ替えするしかないが、それは別にしておいて、もしソアラを廃車にしてもいいなら名機1JZを積むのが手っ取り早くて面白いだろうな」
津野田の勧めにアランは大きく頷く。それならば余計愛着が湧いてくる。純は津野田に手を貸すことにした。
みんな二度と体験できないだろう車弄りに夢中で没頭し、トヨタ2000GTは驚くほど短期間で修復を完了して生まれ変わった。内装はほとんど剥がし、ロールバーを組み込む。手に入りにくい高級ウッドパネルはアルミの打ち抜きで作り直した。シートはレトロチューンの定番コブラに換え、唯一シフトレバーを純正のまま残して2000GTの香りを漂わせる。シャシーやボディーは基本的にオリジナルのまま修復し、サスペンションで車高を落とした。ボディー前後にカーボンFRP製のスポイラーを装着し、アラン好みの外観にした。外した部品は捨てることなく洗浄する。一つひとつ売りさばけば一財産になるだろう。エンジンは1JZをもともとチューニング済みであったから、ドライサンプ化に留めた。地味だが前述の様に車高を下げるのが主体の南野とコータの改造では重心を低くするという絶大な効果がある。4175mm×1600mm×1090mm、ホイールベース2330mmで車両重量は1120kg、最高出力300馬力/7900rpm、パワーウエイトレシオ3.7だ。フェラーリ並みの高回転サウンドが心地良い。
「リーダー、お手合わせ願えるかい?」
アランはタケシにサーキットでの対決を挑む。
「よ、よーし」
タケシはアランの気迫に押されながらも自信満々に応じた。赤い2000GTはアランの手で自在にドリフトし、しかもコータのアドバイスによりアランのドリフトは格段に精度を上げていた。タケシはなす術なく引き離され、呆然と放心状態で車から降りてくる。
「どうする?リーダー、峠でもやってみるかい?」
「い、いやー速いっすね、アランさん。良かったらリーダーお願いしたいっす」
こうして風格溢れるアランがリーダーとなり、新生ピンクバックシャンズが誕生した。
「準備は整ったね。じゃあ2人して他の峠に遠征してみたら?」
コータの勧めで毎週末アランとタケシは近隣の峠に遠征を始めた。もともとのアランのファンがチームの雑用幹部を買って出て、ピンクバックシャンズとして地元チームに正式対戦を打診していく。百瀬峠は下り上りの往復でバトルしていたが、大抵の峠は上りはヒルクライム、下りはダウンヒルとしてそれぞれ守備範囲を分けている。アランもタケシもオールラウンダーとしてどちらでも対応できるが、より運転技術が求められるダウンヒルをアランのトヨタ2000GTが、パワーとトラクションの求められるヒルクライムをタケシのインプレッサが担当することにした。
どちらの車も人目を惹くことこの上ない。チャネリングで車高を落としたタケシのインプレッサもさることながら、何と言ってもまず他にはないだろうアランのスペシャル2000GTはあっと言う間にトレンドになった。そして走れば2人して全戦全勝、そんなにレベルの高くはないエリアではあるが、ピンクバックシャンズは最速の呼び声が高まった。それに対してタケシは自分たちでも歯が立たない走りの神がいるとして、ジェミーロ・ロッソの伝説がピンクバックシャンズの後ろ盾として全国の走り屋たちに広がっていった。
6
県内の峠を総なめにした時点で、コータはもう十分だろうと言った。
「俺は昔、峠で車をぶつけまくって腕を磨いてきましたが、今にして思えば最初からここに来れてたらって思いますよ。もう二度と車をぶつけやしないですけどね」
アランがしみじみと過去を振り返る。
「でもやっぱり、あの頃ここを知っていたとしても敷居が高かったろうな…」
敷居が高い。タケシと同じことを言っている。その正体は何なのだろう?コータはアランに聞いてみた。
「うーん、金が勿体無いっていうよりも、昼間しか走れないってところですかね。俺ら大抵は昼間働いて、夜走るってパターンですから。休日に来いって言われそうっすけど、夜の峠に慣れ親しんじゃうと、あの闇が別世界の興奮をくれるんすよね。そうするとだんだん光の世界には出られなくなるみたいな」
コータは面白いと思った。だったら夜にサーキットを開放してみたらどうなるのか?正式営業には照明設備など必要なのかもしれないが、クローズドの峠としたら暗闇でも平気だろう。限定の裏メニューにしてみようか。
2台のピンクカーの秘かな宣伝効果は成果があり、自分の車も格好良くしたいという問い合わせがいくつか入ってきた。希望と予算を確認して、南野に紹介していった。さらにはジェミーロ・ロッソに会わせろという走り屋も現れだした。アランとタケシが、自分たちに勝ってからにしろと言い、百瀬峠で門前払いしていく。2人にとって、もうノスタルジックサーキットは神聖な場所であり、横暴な走り屋たちに荒らさせるつもりはない。
ところで、津野田の36仲間は結構客を抱えている。中核となるのは360ccの昔の軽自動車だ。
「このノスタルジックサーキットは変な話、遅い車の方が楽しめるんだ。アクセル踏みっ放しでもコースは長く感じられて、最高速まで使い切る。だからそこからコツコツとチューニングしていくのがまた楽しいのさ。特に最初の頃の軽自動車は空冷360ccのリアエンジンが主流で、スバル360やマツダキャロル、スズキフロンテとか、個性的な車が溢れてた。ホンダN360はFFだったがF1譲りのパワフルなエンジン載せてきて、あっという間に当時の人気車種になったりな。それを機に各メーカーが360ccでパワー競争始めちまったもので、とにかくピーキーな車が多いのさ。今でも根強い人気があってここで時間帯区切って走行会やってる。他の車にとっては走る障害物みたいなものだから棲み分けが必要なのさ。あと、このサーキットは外車が主流で国産面倒見るところがないから、俺が一手に引き受けてる。おかげで結構な繁盛だ」
津野田の世界は独特の温かさに包まれている。日雇いの荒れた世界に身を置いていたアランにとって、ここは癒しの場だ。
ポルシェ3.6ターボの三木と言えば、高速ランナーたちの間で夜の帝王、クレイジーブルーとして一目置かれている。彼らは峠族とは違って、300km/hオーバーのスピードレンジで競う世界を作っているが、三木のポルシェは特に250km/hから上の加速が圧倒的で、大抵の高性能を自慢する者たちが赤子の様に捻られてしまう。そんな三木が負けたという噂が広まり、聞きに来る者がいた。
「ああ、百瀬って峠で親分気取ってたら、あっさりやられたな。小さくて赤い奴だが滅法速かった。ありゃ化け物だな」
これがジェミーロ・ロッソの片割れだろうとなり、峠族の世界を超えて関東エリアの公道レーサーたちに急激に広まっていった。
久しぶりに文佳を連れてサーキットに顔を出した一条満は、コータを捕まえて聞いた。
「ガヤルドのオーナーズクラブで、ジェミーロ・ロッソという走り屋が話題になっているけど、それ、ひょっとしたらキミたちのことだろう?」
「ええ、間違いない、オレたちのことですよ」
とコータは答える。タケシの軽い冗談から始まったネーミングが部外者ともいえる一条の耳に届くほど広まっている。
「やっぱりね。最近はITバブルの成金たちが好きでもないのに高級スポーツカーを乗り回してる。彼らはほとんど本気で走ったことなどないだろうがプライドが高くて口は達者だからね、ひょっとしたらここに集まってくるかもしれない」
本気で相手にはしないようにと一条は釘を刺していった。
やがて一条の予告通りに、ランボルギーニやらフェラーリやら、中にはマクラーレンもこぞってサーキットにやって来るようになった。口々にジェミーロ・ロッソとやりたいと言ってくる。コータは一条のアドバイスでそういう客をマレンスキーに繋いでいった。麻布辺りで自分たちは世界の覇者みたいに気取ってる彼らは、マレンスキーの館で本物の上流世界に触れ、圧倒されて物も言えなくなった挙句にマレンスキーの上客リストに加えられていった。新たなる顧客の創造、影の功労者はタケシである。その一方で夜の闇を牛耳る本物の峠の覇者たちがジェミーロ・ロッソに触覚を伸ばし始めていた。
7
「銀狼って知ってますか?」
ピンクバックシャンズの雑用幹部を務める佐々木がアランに聞いた。
「ああ、知ってる。北関東最速と言われる走り屋チームだ」
アランは昔を思い起こす。ソアラで粋がって対戦を挑んだが、ダウンヒルで軽く捻られた。
「その銀狼から対戦の申し込みが来てますが、どうします?」
アランはしばらく考えて、答えた。
「いいさ、受けて立つ」
銀狼の狙いはおそらく自分たちを飛び越して、ジェミーロ・ロッソだ。アランはコータに頼んで百瀬峠に同行してもらった。
「俺は銀狼のリーダー、80のタツ、こっちは相棒の栗橋だ。ここのルールは下り上りの往復勝負らしいが、今日はまず一般的なダウンヒルとヒルクライムでやらせてもらいたい。そしてそのどちらかでも俺たちが勝ったら、その勝者にジェミーロ・ロッソとやらせて欲しい。その時はここのルール、往復勝負で結構だ」
アランはコータに確認を取って、いいだろうと答えた。
まずはダウンヒルにKPGC10の通称ハコスカGT-Rに乗る栗橋が名乗り出た。
「随分と旧い車に乗ってるもんだな」
アランは実のところその実力を知っている。昔、軽く捻られた相手だからだ。
「俺のじいさんの愛車でね、代々受け継いできた。じいさんはノーマルで乗ってたが、親父が外観を弄り、俺が中身を弄った。S20をL28の3.1リッターNAチューンに換装し、ツインカムヘッドにして320馬力を出してるぜ。そっちだって同年代の旧車じゃねえか」
栗橋がトヨタ2000GTを指差して答えた。
「まあな、俺のも1JZのカリカリメカチューンだ」
奇しくもトヨタと日産のノスタルジックな名車同士の対戦、アランと栗橋は合図と共にダウンヒルのスタートを切った。アランは栗橋の走りを知っている。グリップでもドリフトでもこなすが、特にドリフトのセンスは抜群で、前に出したら抜くのは容易ではない。しかしながらアランは相手に最初のコーナーに向けてのイン側スタートを譲っていた。前に出た栗橋のGT-Rは早速車体を横に向けてアランの進路を塞ぐ。アランは無理にドリフトせずにまずは栗橋の走りを後からじっくり観察する。以前なら歯が立たない相手だったが、コータの指導でドリフトに磨きを掛けたアランは落ち着き払っていた。ドリフトへの対策は相手に合わせたツインドリフト、タイミングが合えば後から追う者に抜くチャンスがやってくる。栗橋はアランがグリップ走行一本槍だと思い、やや油断した。5つ目のヘアピンでアランは栗橋と同時にドリフトに入り、以前自分がコータに抜かれたのと同じ様にインに空いた隙間に向けていち早くアクセルを開けると綺麗に栗橋を抜き去った。後は引き離そうと思えば出来たが、アランは敢えてドリフトでのブロックに挑んだ。それはコーナーに沿って常にフロントノーズをインに向けてより長い時間ドリフトをキープする。相手がツインドリフトを挑んできても、最後までインを空けない走りだ。加速に移るといわゆるオツリが来て蛇行するが、それでまた相手は抜く隙間を見い出せない。挙動の予測がつかなくて危ないのだ。
「下手っぴいが!」
栗橋は怒るが、それもまたアランの思う壺。冷静さを欠いたGT-Rは最後まで2000GTを抜けずに勝負を終えた。
「すいません、タツさん、あんな下手っぴいにやられちまって…」
栗橋は頭を下げる。
「バカヤロウ、まんまとからかわれやがって。相手はお前より数段上だ」
タツはアランの実力を見抜いていた。
ヒルクライムはタケシのインプレッサと80のタツとの対戦だ。80はその名の通りトヨタの80系スープラ、史上最高の名機と言われる2JZ-GTEはツインターボで、丈夫なエンジンブロックのお陰でブローの心配なくブーストアップで軽く1000馬力を搾り出す。タツは800馬力に抑えていたが、それでも桁違いの怪物だ。
ヒルクライムの勝負はスタートダッシュで既に決した。これまでは無敵だったタケシのインプレッサが無情にも置いていかれる。タツの走りは三木と同じく強烈な加減速を活かしたストップアンドゴーだ。直線の度にグッグッと着実にタケシを引き離し、有無を言わせぬ圧倒的大差で勝利を納めた。ピンクバックシャンズ始まって以来の屈辱である。
「ま、これでチーム戦は引き分けだな。約束通り俺がジェミーロ・ロッソと勝負を付けさせてもらうぜ」
80のタツがアランに言った。
「いいよ」
とコータが前に出る。
「はあ?あんたがジェミーロ・ロッソってか?化け物だの何だの聞いてたからフェラーリあたりが隠れてると思ったぜ」
タツはアバルト850レーサーに拍子抜けしている。
「いったい何なんだよ、そのちっこいのは。単なるホラ話かよ」
「いや、間違いなくこのお方が百瀬最速にして伝説のジェミーロ・ロッソのお一人だ」
アランはまるで水戸の黄門様を紹介する格さんのように振舞う。ブツブツ言いながらもタツはスタート地点に並んだ。
「俺がこっちでいいのか?」
有利なイン側を譲られてタツは確認した。
「もちろんさ」
コータは笑顔で返した。
コータは出来ればダウンヒルで早めに前に出て、ヒルクライムの前に差を付けておきたいと思った。だがスタートしてコーナーを回ると、それはとても無理だと分かった。タツの80スープラはパワーウエイトレシオ1.9の怪物マシン。三木の3.6ターボを上回る加速力を持ち、それでいて三木のようには過剰な減速はせずに限界速度でコーナーをクリアしていく。全く隙がないのだ。コータでなければすぐに勝負は決していただろうが、コータはコーナリングスピードで上回り、タツよりも速い脱出速度により直線で離されることもない。テールツーノーズまで詰められるが、そうするとコーナリングスピードが殺されてしまうので、わざと一定の車間を取って追随する。それがコータに貯金を作った。ダウンヒルの終盤になると車重の重いスープラはフロントタイヤのグリップが甘くなり、コーナリングスピードが落ちると共にイン側に隙間を作るようになった。コータはそれを見逃さず、すぐさまドリフトでタツを抜き去る。ダウンヒルを終え、スピンターンの時には30メートルの差をつけていた。
だがその差はヒルクライムに入るとすぐに失われた。上りにおいてはターボの圧倒的なパワーが物を言う。コーナーの入り口でタツはコータのお尻を突くくらいに迫り、それでもコータはコーナーで突き放して何とか抜かせずに抑えていた。問題は中盤にある長めのストレートだ。おそらくそこでスープラはアバルトに並んで、リードしてコーナーに入れるだろう。予測通り長めのストレートでコータは並ばれた。かろうじて次のヘアピンに向けてのイン側は押さえる。タツを前に出したらダウンヒルの時のようには抜き返せないだろう。このコーナーが勝負だ。頭一つ先にコーナーに入るスープラ。急減速でアウトからクリッピングポイントを取ろうとする。だがそこにコータはドリフトで向きを変えてアバルトの車体を横付けにした。そのまま並走するように2台はヘアピンを抜け、コータが一瞬早くアクセルを開けて再び前を抑えた。もうこの先スープラにチャンスはない。稀に見る大接戦をコータのアバルトがかろうじて制した。
「なるほどな、噂に違わぬ速さだ。まいったぜ」
80のタツは敗北を認めた。
「俺たちは自他共に認める北関東最速のチームだ。それを破ったお前たちは東日本最速かもしれねえな」
タツと栗橋は、コータとアランに握手を求めた。タケシは自分の敗北を棚に上げてやったやったとはしゃいでいる。
「それにしても、ジェミーロ・ロッソってことはもう1台のロッソが居るってことだろ?」
タツは確認する。
「そうさ、コータ先生と並んで、純大先生がいらっしゃる」
タケシは鼻高々に答える。
「大先生ってからには、よっぽど速いんだろうな」
こうして純は一度も走ることなく、東日本最速の走り屋に祀り上げられることになった。
終わり







