陰謀

 

ペガサスとロータス・エスプリが走り去った後、タバコと燻らす北山の側にそっと近づく影があった。

「いやあ、お陰でいい絵を撮らせてもらいましたぜ、これはほんの気持ちで。」

ハンチング帽をかぶった男が北山に封筒を差し出す。

「こんなものが欲しくて君に電話した訳じゃない。ちゃんと載せてくれたまえ、木暮かすみのスキャンダル。」

北山が男に封筒を突っ返した。

「もちろん言われなくたってこんな特ダネのがしやしませんぜ。へへ、それじゃどうも。」

男はポケットに封筒をそそくさと仕舞い込みながら立ち去った。写真週刊誌のカメラマンであるハンチング帽は決して余裕があるわけではあるまい。

北山は携帯を手にするとボタンを押し、呼び出しを待った。

「ああ、私だ。下地はできた。例のもの池谷優作に送ってくれ。」

手短に話すと電話を切った北山は満足気に口の端で笑った。

 

「(ボーイ、ユーは彼を好きじゃないね。僕も好きになれないな、ああいうタイプは。)」

クルージングするペガサスの中でマルコが言った。彼とはもちろん男爵のことだ。

「(うん。好きじゃない、むしろ殴ってやりたいほど嫌いだよ。でもドライブは上手い。まともにやったら敵わないと思う。)」

アキヒコは心の内を打ち明けた。めったに自分の本心など人に話すことはないが、たった一晩の付き合いでマルコとは深い部分で分かり合えそうな気がした。

「(ああ、プロの、それも超一流の走りだね。後から見て良く分かったよ。)」

さすが幾多のドライバーを見てきたマルコだ。

「(好きじゃないんだけど、誘われたんだ。世界への階段を用意するって。)」

アキヒコは揺れる思いをマルコに相談する。

「(そう、それはチャンスかもしれないね。だがユーの純粋な走りは失われていくだろうな。)」

マルコはアキヒコをすっかり気に入っていた。出来れば自分が育ててみたいほどに。

 

オートサービス・アペックスには深夜というのに三隅と長谷川が居た。事務所で仮眠していたらしく、眠そうな顔をしている。

「(ペガサスの現状は良く分かった。時間が勿体無いから早速明日から作業にかかりたい。ミスター・ミスミ、これからリストを作るパーツの調達と2,3人の手を借りたい。トオル、ちょっと空力面で相談したい。)」

マルコは矢継ぎ早に話すと、アキヒコに振り向いて言った。

「(ボーイ、ファンタスティックだった。3週間くれ。ペガサスがより天空高く飛べるようにしてやるさ。ユーのテクニックに答えるようにね。)」

軽くウインクを送る。

北山の言葉が頭の片隅に渦巻くアキヒコだが、やはりペガサスを前にすると昂ぶる気持ちが支配する。マルコに片手を上げて応えた。

「私もしばらく来ない。アキヒコと一緒にいてすごい曲のイメージが溢れてきたから仕事に篭るわ。それから今時携帯も持ってない人いないわよ、使って。」

ここまで一緒に来たかすみが、ポケットから折りたたみの携帯を取り出してアキヒコに手渡した。

「昼間買ったの。私の番号入れてあるから暇なときかけてよ。他の人には教えちゃだめよ、うるさくなるから。」

アキヒコはちょっと戸惑ったが、受け取った。

「いいのかい?俺なんかにかまけて。」

「アキヒコを見てると仕事にプラスになるもの。男爵のことはあまり気にしない方がいいわよ、あなたの気の向くままにするのが一番。ヒーローさん。」

かすみはとびきりの笑顔でアキヒコに手を振り、ロータスに乗り込んだ。不思議なアイドルだ。

 

 

騒動

 

3日後、大学の学食でランチを食べていたアキヒコに友人たちが話しかけた。

「よお高野、これ見ろよ。お前に似てないか?」

背の高い長髪の若者が写真週刊誌をアキヒコの前に広げる。そこには芝浦PAの場面が写っていた。テーブルに座る木暮かすみ。その隣には目の部分を黒く覆ってあるもののアキヒコが親密そうに寄り添う。ちょうど顔を見合わせた状況だ。一緒にいたはずの北山やマルコは写されておらず、いかにも深夜恋人同士がこれからお楽しみといった情景だ。

“アイドルシンガーソングライターの秘め事”

見出しに続き写真の下に記事が書かれている。

“アイドル系シンガーソングライターとして売り出し中の木暮かすみのもう一つの素顔、それはスピードと男に酔いしれたセクシーウーマンである。日曜深夜、某パーキングエリアに集う彼女の取り巻きたちは首都高湾岸線で暴走劇を繰り広げた。木暮かすみは愛車の白いロータスを駆り、彼らと街道レースにいそしむ。なかでも彼女のお気に入りは有名私立大学に通うT氏である。二人の仲睦まじいショットからは大人の女と男の雰囲気がただよう。”

そしてもう一枚、大黒PAに集まったアキヒコたちの姿を写した写真が掲載されていた。

『男爵か!』

アキヒコは直感した。先日の大黒PAと芝浦PA、両方にアキヒコとかすみがいたことを知るのは当人たちを除いてはマルコと北山しかいない。かすみやマルコであるはずがない。偶然記者に尾行されたのでなければ間違いなく北山である。いや、あのスピードに尾行など有り得ない。

「へえ、木暮かすみもやるもんだな。相手が俺なら有頂天だな。」

アキヒコは心の動揺をかくして友人たちの会話に合わせた。震えそうな手で皿の残りをかっ込むと食器を持ってその場を離れた。

一人になったのを待ちわびたようにアキヒコの携帯が震動した。発信者表示は(わ・た・し!)自分でメモリーなどいじっていないから木暮かすみに間違いない。

「はい・・」

アキヒコは電話に応えた。

「大変なことになっちゃった・・」

電話の向こうからうろたえたかすみの声が聞こえた。

「ああ、見たよ・・」

何のことかは言われるまでもない。

「アキヒコにも迷惑がかかっちゃう。どうしよう・・」

「俺のことはどうでもいいけど、そっちは大騒ぎになるんじゃないか?」

「うん・・事務所の前に芸能レポーターや記者たちがうじゃうじゃいるわ。折角曲作りできそうになったのにこれじゃ缶詰。出るに出られない。」

「十中八九、男爵の仕業だよ。湾岸パーティをどうしても壊したいらしい。キミがもう顔を出せないようにしたんだろう。なにもこんなことしなくったっていいのにな。」

「ひどい・・こんな人だったなんて。」

「しばらく経てば世間は忘れるさ。こんな記事書かれるのも人気者の印。どっちにしろ会わないほうが良さそうだな、俺たちは。」

「ごめんね、私が引っ掻き回しちゃって。マネージャーがせっついてるから、また電話する。」

そう言って電話は切れた。

 

授業を受ける心境ではなくなったアキヒコは大学の正門に向かおうとして立ち止まった。門の外に数人のカメラを構えた者たちが待っている。何処でどう調べたのか知らないが、おそらくアキヒコが目当てだろう。目が隠された写真とはいえ顔立ちは明瞭に写っていたからこのままでは取り囲まれる可能性が高い。アキヒコは踵を返すと授業に顔を出すことにした。バイクで来ている友人に乗せてもらおう。ヘルメットを被ればさすがに気づかれまい。

 

 

ブルー・ドルフィンの生業

 

ユウサクから話があると呼び出されたのはその日の夜だった。いつもの喫茶ポエムに向かうと既にユウサクの紺色のルーフが止まっていた。

 

「お前に話すべきか迷ったんだがな。もう大人だし知る権利はある。」

そう言ってユウサクはテーブルに何枚かの写真を出した。最初の一枚には煌びやかなスーツに色物のシャツ、そして派手なネクタイを締めたブルー・ドルフィン堤が写っていた。横顔のブルー・ドルフィンの向こう側には女がいる。次の写真は女と連れ添ってネオンの輝く店に入る後姿。店の名前はパピヨン、ホストクラブのようだ。

『別にブルー・ドルフィンが普段何していようと関係ない。兄さんが何故こんなものわざわざもったいぶって見せるのかさっぱり分からない。』

首を傾げるアキヒコの表情は次の一枚で凍りついた。パピヨンから出る二人連れ。ブルー・ドルフィンの腕に寄り添うのはアキヒコたちの母親、高野良子だ。さらに最後の一枚を見た時思わず写真が手から滑り落ちそうになり、心臓の動機が不規則になるのを感じた。ラブホテルに消えようとする二人・・。

「俺は今更母さんが何しようと別に何とも思わん。新しい母親もいるしな。だがお前は少なからずショックだろうな。」

ユウサクは動揺を隠せないアキヒコに話しかけた。

「どこでこれを・・」

カラカラに乾いた口からアキヒコはようやく言葉を絞り出した。

「差出人不明で郵送されてきた。悪戯にしちゃ度が過ぎるぜ。」

「北山・・」

アキヒコは呟いた。北山は言っていた。アキヒコたちのことを色々調べたと。そして何れは争う関係になるだろうと。自分はそれを早めるだけだと。目の前のコーヒーを一気に飲み干すとアキヒコは先日の北山との一件をユウサクに説明した。自分とユウサクについての予言は省いたが。

「なるほど、そんなことがあったのか。エスティマも男爵の手によるものか。理には適ってるよなエンジンの積み場所はタップリだし、CD値は低いし、ホイールベースは長いし、最高速ランナーにはもってこいかもな。」

ユウサクにはアキヒコの今の心境は伝わらない。エスティマに感心する気にもならない。ふとカウンターの片隅の写真週刊誌に目をやったアキヒコは立ち上がってそれを手にし、ユウサクに見せた。

「なっ、何だこれは。シンデレラと隣はお前か。ヘマしたもんだな・・」

と言いながら記事を読み進んだユウサクは深いため息をついた。

「そうか、男爵の仕業か。用意周到だな。」

「明日にはワイドショーはシンデレラ一色になるだろうね。中には俺を突き止めるとこもあるかもしれない。」

アキヒコは自分の周りも何かしか騒がしくなる気がした。

「でも、ブルー・ドルフィンに関しちゃ男爵の予想通りになりそうな気がするよ。明日から母さんもブルー・ドルフィンも正面からはとても見れないよ。」

アキヒコはホストという職業に偏見を感じていた。女を騙して金を注ぎ込ませるイメージが付きまとう。騙される女が悪いとも思うが、自分のよく知る人物では他人事ではいられない。だが何を出来るわけでもない。稼いだ金をどう使おうが母親の自由だ。今のところ金に困る身分でもない。しかしアキヒコの心の波風は当分おさまりそうにない。冷たい北風が吹き荒れる。耐えようの無い孤独感・・これも北山の狙いか。

 

 

荒らされたステージ

 

アキヒコの身の回りの変化はこれだけでは済まなかった。木暮かすみのお相手探しに躍起の芸能レポーターたちはワセダの学生を掴まえてはアキヒコを探り出そうとした。アキヒコの友人たちもマイクを向けられ、噂の主人公がやはりアキヒコであることはばれてしまったが、幸いにも自分のことをあまり人に喋るタイプではないアキヒコの性格が功を奏し、アキヒコの私生活がテレビに登場することはなかった。それでも大学の校舎や、友人たちと一緒に写った写真がブラウン管に曝け出され、アキヒコはほとぼりが冷めるまで大学に顔を出すことさえ出来なくなってしまった。そして・・

 

“深夜の一斉取り締まり 逮捕者も出た首都高ルーレット族”

日曜の朝アパートで新聞を広げたアキヒコの目にそんな見出しが飛び込んだ。昨晩突如行われた出来事らしい。土曜深夜の首都高、普段だったら自分もその中にいたかもしれない。ユウサクは・・アキヒコはユウサクの携帯に電話してみた。

「ああ、アキヒコか。何だ朝から。」

ユウサクは何も知らないようだ。どうやら土曜の夜は無関係らしい。

「新聞はまだ見てないようだね、兄さん。とにかく巻き込まれてなくて良かったよ。」

アキヒコは新聞記事を斜め読みしながらユウサクに説明した。

「どうやら例の写真週刊誌の記事がきっかけらしい。あの晩はトラックと紙一重のシーンもあったし、警察への苦情が重なって取り締まりに踏みきったようだ。」

「あいつらはどうしたかな、ブルー・ドルフィン。それに男爵。」

「もういいさ、どうでも。兄さんが気にかかっただけだ。」

「しかしこれでお前も首都高は当分走れないな。本気で走るやつはほとぼりが冷めるまで控えるだろう。」

「ああ、どっちみち車がしばらくないしね。ちょっといじってもらってるんだ。」

ユウサクに対抗するためとは言えなかった。

「そうか。出来上がりが楽しみだな。」

ユウサクは眠そうな声で答えると電話を切った。

 

『どうしてこう次々と身の回りのものが失われて行くのだろう。まさかこれも北山が仕掛けたことでは・・』

電話を切った後アキヒコはふとそんな思いにかられた。しかし北山はアキヒコを走らせたがっている。いくらなんでも走りのステージを奪うはずはないだろう。

 

 

避難

 

「良かったねアキヒコ、車がなくて。」

かすみから電話があったのは昼近く。外にはどう調べたのかカメラマンがちらほら立っているので出るに出られない。

「車があっても同じだよ、今は。24時間監視されてるみたいだ。」

アキヒコは我慢できない空腹さえ世間に身を曝されるよりましな気がした。

「ごめんね・・」

かすみもいつもの明るさは何処へやら、沈んだ声だ。

「実はね、しばらく海外へ行くことにしたの。ロスで曲作りとレコーディング。3ヶ月ぐらいかな。今日はしばしのお別れの電話よ。」

「そうか、その方がいいよ。落ち着けるだろうし。でも見送りには行けそうにないな。」

アキヒコは冗談交じりに答えながらも知らず知らず自分の中でかすみの存在が大きくなっているのに気付いた。お別れと言う言葉に心が疼く。リエの残した傷跡もあるだろうが。

「餞別をもらえないのは残念だわ。帰ったら連絡する。もっともテレビが先に教えてくれるかもね。」

電話は不思議だ。顔が見えないだけに相手の声が直接心に響いてくる。

「元気で、かすみ。」

「ありがとうアキヒコ、初めて名前で呼んでくれたね。」

電話の向こうのかすみの声に明るさが戻った。

 

 

新生ペガサス

 

木暮かすみがロスへ旅立ったことでワイドショーも別の話題が主になり、アキヒコの周囲にも静けさが戻った。大学に顔を出す気にはなれないが、オートサービス・アペックスを約2週間振りに覗く事ができた。

事務所の三隅が声をかける。

「よお、有名人。すっかり渦中の人だったな。」

名前さえ出ないものの、アキヒコを知る人間にとっては木暮かすみのスキャンダル相手がアキヒコであることは一目瞭然だろう。しかし母親からは何の問い合わせもなかったが。エステ業界の成功者高野良子は多忙の身であり、昼間のテレビ騒動が耳に入るとも思えない。アキヒコにとってそれは好都合であった。電話でもあろうものなら逆に自分が何を言い出すか自信がない。

「からかわないで下さいよ、社長。大変だったんだから。」

久しぶりに人とまともに話すアキヒコはちょっと嬉しかった。

「痩せたんじゃないか、お前。」

三隅が頬のやつれたアキヒコの顔を見て言った。

「そうかもしれませんね、食事もまともにできなかったし。」

自分では気にしなかったが確かに痩せたかもしれない。

「ペガサスが気になって、久しぶりに外に出たら足が自然にここに向いちゃいましたよ。どうですか、進み具合は?」

アキヒコは早速一番の感心事を切り出した。

「裏でやってるよ。直接見るといい。」

 

アペックス整備工場の奥の方にペガサスはあった。タイヤは外されエンジンも下ろされている。ボディの後ろ側に座り込んで話すマルコと長谷川の姿が見える。もう一人見慣れない人物も加わっている。マルコがアキヒコに気付き、手を振った。

「(やあボーイ、久しぶり。)」

「(ボーイは恥ずかしいよ、マルコ。)」

アキヒコは初めて見る穏やかな顔立ちの40男に目をやり、長谷川に尋ねた。

「この人は?」

「ああ、初めてだね。三隅さんが呼んだんだ。もとマツダのシャシー設計にいた菅原さんだよ。」

「初めまして、アキヒコです。」

「お名前はうかがってますよ、菅原です。」

菅原は作業着のズボンで手を拭くとアキヒコに握手を求めた。

「いい人が見つかったよ。マルコがもっとボディの捩れを補強しようって言い出したんだが何処をどういじればいいかポイントが掴めなかったんだ。たまたま菅原さんが三隅さんを訪ねてきてね。RX-7のCADデータを入手できたもんだからマルコの持参した秘密兵器でバッチリさ。」

「人員整理に志願しちゃって今後どうしようかと思いまして、昔の馴染みで三隅さんに相談に来たら捉まっちゃったんですよ。」

菅原は頭を掻きながら言った。三隅の人柄のせいか、ここオートサービス・アペックスには自然と人が集まる。

「マルコの秘密兵器って?」

アキヒコは長谷川に聞いた。

「有限要素法と3次元CAD。ユーロモデリングシステム製のやつで俺が使い慣れた小道具さ。ここのパソコンじゃちょっと動きが重かったんでメモリを増設したけどね。」

マルコが内緒とでも言うように口に指をあてる。

「予定よりかなり早くできそうだよ。パーツは順調に入手できたし、ここの若者たちが夜遅くまで手伝ってくれてさ。」

長谷川は着慣れぬ作業着で満足そうにペガサスを見た。

「(今度はすごいぞボーイ、350km/hでも大丈夫。)」

マルコが親指を立てた。

「エンジンもいいぞ、アキヒコ。」

いつの間にか三隅が後にいて、声をかけた。

「すごいな、DLCってやつは。10500回転までストレスなく回せる。それに加えてオイル添加剤に何てったっけ、長谷川さん。」

「ボロンナイトライド、窒化硼素です。」

「そうそうボロンってやつを使ったんだ。値は少々張るが、魔法の秘薬だぜありゃ。」

「潤滑効果はNo.1ですからね。特に高負荷状態では二硫化モリブデンが足元にも及ばないほどですよ。」

長谷川の知識の幅広さにアキヒコは感心した。

「ベンチで570馬力。車体に積んでも540は出るだろう。」

三隅はどうだとばかりに突き出た腹をポンと叩いた。

「あと3日で仕上げるよ。そしたらシェイクダウンだ。」

長谷川が楽しそうに言った。アキヒコにはペガサスが珠玉の芸術品に見えてきた。ここはまるでベネチエのアトリエ、工房に集う工芸家たちは無名の一線級だ。

「そうだ、また意味深な書き込みがあったよ。例の伝説の男から。」

アキヒコは長谷川の言葉に現実に引き戻され、事務所のパソコンに向かった。

 

“身辺整理は順調かね、ペガサス君。

キミの自慢の愛車が仕上がったら再び競おうではないか。

今度は私もキミに負けない道具を用意して全力をお見せしよう。

邪魔者の減った首都高もいいが私の庭に近い伊豆はどうだね。

絶景のスカイラインを楽しもうじゃないか。

ブルー・ドルフィン君とミッドナイト・バード君も招待しよう。

キミが私に負けたら私のもとに来なさい。

そして世界に挑戦状を送ろう。

キミがペガサスで走る最後のバトルに相応しい舞台を用意して楽しみに待っているよ。

キミたちが本気になれるよう勝者には賞金も用意しよう。

300万ドル、日本円で約3億円だ。

ただしラフプレイは困るよ。

私の道具は高いからね。

そうそう、先日のプッシングは失礼した。

寸志を送ったよ。

何かの足しにしたまえ。

ペガサスの調整には安心して首都高を使うがいい。

もうお上は手出ししないだろう。

パーティの日時はまた連絡する。

―伝説と言われた男より―”

 

パソコンを見つめるアキヒコの後には三隅が立っていた。

「うちの口座に50万円入ってたよ、ペガサス見舞金って名目でな。文面は静かだが明らかにお前や俺たちに対する挑戦状だな。完全に見下されてる。行ってこいよ、ペガサスは完璧に仕上げてやる。3億円とったら宴会だな。」

三隅はアキヒコに発破をかける口調で言うと長谷川たちの方へ向かった。

 

 

シェイクダウン

 

3日後の夜9時、アキヒコはオートサービス・アペックスで生まれ変わったペガサスに対面した。外観上の変化といえばリアにウイングを付けた程度で、あとはモデナとのバトルで損傷したドアミラーが新しくなっていた。しかし中身には大幅に手が加えられている。ペガサスの周りには三隅、長谷川、マルコ、そして新メンバーと言ってもいい菅原が取り囲んでいた。事務所には久しぶりに見るミッチもいる。営業時間は終わっているが、まだ活気に満ちている。

「とりあえず組み上げたところだ。あとは慣らしを兼ねた実走セッティングといこう。順番はどうするね、長谷川さん。」

三隅が長谷川に聞く。長谷川の豊富な知識は今回の13Bツインターボのパワーアップに大きく貢献し、すっかり感心した三隅は何でも相談するようになっていた。

「エンジンは慣らしが済むまで本格的セッティングは無理でしょ?まずはシャシーと足回りを仕上げましょう。足回りもある程度全開走行が必要でしょうしマルコも休ませたいから、今日は菅原さんにチェック入れてもらうのがいいでしょう。エンジンはとりあえず何回転回します?」

長谷川が計画を整理し、三隅に聞く。

「ある程度ベンチで慣らしは済ませたが、500kmは7000回転に抑えたいな。そこでオイル交換して当たりをチェックし、1000kmまで9000回転。その後は全開OKだ。」

「一晩に何キロ走れる?アキヒコ。」

長谷川がアキヒコに問う。

「頑張れば500km行けますよ。」

アキヒコは2週間以上車から遠ざかっているから乗りたくてうずうずしている。多少の無理はへっちゃらだ。

「じゃあ、菅原さん今夜はお願いします。」

長谷川がペガサスの助手席に向け、どうぞと言うポーズを取った。

 

首都高は静かな雰囲気だった。あれだけ大掛かりな取り締りがあったのではみんなびくびくして走れたものではない。たいていの場合事前に取り締まりの情報が何処かしらから漏れるものだが、今回は本当の抜き打ちになったようだ。また何時あるかわからない状態ではおとなしくなるのも無理はない。効果的面だ。

アキヒコはまずC1内回りをゆっくりと周回した。ひさびさのペガサスのドライビングシート。体にフィットしたバケットは包まれた安心感を与えてくれる。適度に狭い空間が心地よい。パワーピークのはるか手前、5000回転でシフトアップしてもエンジンのフリクションがかなり小さくなった印象を受ける。カチッと決まるシフトフィーリングはまた一段と良くなったようだ。三隅はミッションもオーバーホールしたのだろう。

2周目に入るとシフトポイントを7000回転に変え、スピードが乗ってくる。ボデイの剛性感が強い。

「ストラットバーを増やしたんです。重量増を避けるためにアルミパイプの構造体を使いました。」

菅原が説明する。RX-7を知り尽くした菅原は弱点の補強を真先に行ったようだ。

「シャシー下面のベンチュリー効果も再度有限要素法の精度を上げてシュミレートしたらリアに乱流が高速になるほどひどくなることが分かったんです。ディフューザとウイングの追加で高速時のリフトはかなり収まるはずです。こちらは長谷川さんの分野ですけどね。」

「レーシングカーみたいですね。」

アキヒコは半分冗談のつもりで言ったが菅原がうなずく。

「余計なものはずして、スリック履いてサスのセッティングを詰めれば結構いけるでしょう。ほんとはサーキットに持ち込みたいところですよ。」

それもいいかもしれない。だけどペガサスは公道が似合いそうだ。

ほとんどタイヤを滑らさないおとなしい運転で明け方近くまでC1や新環状を周回し、500kmを走行したアキヒコはペガサスをアペックスに戻した。

 

2日目はマルコを乗せた。交換したペガサスのオイルにはほとんど金属紛は見られず、三隅は満足そうだった。今夜は9000回転まで回す。以前なら全開走行に相当する。昨夜周回してみて男爵の言葉に嘘はなかった。取り締まりの気配は全くない。今夜は新環状をメインにしようとアキヒコは決めていた。モデナとの一戦で体感したあのリズミカルなライン取りにももう一度トライしておきたい。

有明JCTから11号台場線に抜けた辺りでアキヒコは9000回転まで使い始めてみた。以前とほとんど変わらないパワー感だ。コーナーに向けて軽くブレーキングしてドリフトに持ち込む。昨夜も感じたことだが、ステアリングレスポンスが以前より向上している。回頭性が良くなった。何があるか分からない公道では好ましい特性だ。ただしアンダーステアは強い。このマルコ独特のセッティングは慣れればとことんアクセルを踏める。9000回転までのパワーではまだアンダーを消しきれず、乗り難さを感じる。アクセルだけではコントロールしきれず、ステアリングを切り増しして調整する。エンジンのパワーを生かしきる足回りになっているようだ。

「(今度はサスペンションの調整機構を増やしてセッティングをより細かくできるようにしたよ。ボーイのテクニックに応える足回りにしてあげるよ。ショックは伸びと縮みを別調整できるし、前後のトゥーとキャンパーも調整可能だ。もちろん車高も。リアのトゥー調整でステアレスポンスを良くしたので、フロントタイヤはワンサイズ太目に戻したよ。アンダーステアはパワーに応じて強めにしたが、回頭性はいいだろ?)」

マルコは満足気に説明した。以前は跳ねていた路面の継ぎ目で今度のペガサスは跳ねない。スピードを落としているわけではない。

「(超高速域でリアがリフト気味になっても路面を捉えるように伸び側は柔らかめになっている。スプリングもだ。ただし減衰は速いがね。そして縮みは硬めにしてある。ロールはスタビライザーを太くして抑えている。中空にして重量増は避けたよ。)」

マルコはアキヒコの心を見透かすように疑問点に答えてくれる。おそらくセッティングはほぼ出来上がっているだろう。マルコの天才的センスは一度味わったアキヒコのドライビングとペガサスのパワーを最大限引き出す術を既にこのサスに施しているようだ。それでもマルコは手帳に盛んに何かメモっている。まだ微調整する気のようだ。完全主義が優秀な技術者の資質なのだろう。アキヒコはマルコに対する信頼感を更に深めながら新環状を周回した。早くこの上の領域に踏み込みたい。一体ペガサスはどこまで進化したのだろう。パワーアップの代償に絶妙のバランスを失うことを覚悟していたアキヒコだが、マルコのプライドはそれを許さなかったようだ。

 

 

未体験ゾーン

 

2日で1000kmを走行したペガサスは再びオイル交換と各部のチェックを済ませ、いよいよ全開走行でのセッティングとなった。

夜9時のオートサービス・アペックスにはアキヒコを始め、三隅、長谷川、マルコ、菅原そしてギャラリーのミッチがそろっていた。

「いよいよだな。今日は長谷川さんに頼むよ、総仕上げ。」

三隅が言った。長谷川は小さなノートパソコンを手にしている。

「見よう見真似で燃調をやってみますよ。ほとんどベンチで出来上がってますよね。」

「ああ、出来てるよ、エンジン単体ではな。最初はそのままあんた達に引き渡したんだからそこそこはいけるだろう、今のままで。ただ6速全開域は分からん。空気の流入も相当変わってくるだろうから微調整しときたいんだ。ワシじゃパソコンは分からんでな。」

「超高速域での足回りチェックしたいんじゃないかな、マルコが。」

長谷川がマルコをちらりと見て言った。マルコは明後日帰国予定にしている。

「(俺は終わってるよ。)」

昼間足回りを微調整したマルコが長谷川の言わんとすることを汲み取って英語で言った。

「よし、エンジンの仕上げといこうや、今日で完成だ。」

 

長谷川を助手席に乗せたペガサスは湾岸を西に向かった。長谷川の膝に置かれたノートパソコンはペガサスの燃調CPUにつながれている。画面には現在のエンジン状況や積算したパワー、トルク、燃料混合比、燃焼室温度等がグラフで示されている。ここからダイレクトにROMの書き換えが可能だ。

辰巳JCTを過ぎたあたりでアキヒコは長谷川に目配りして2速に落としてアクセルを踏み込んだ。タコメーターの針はあっという間に跳ね上がり、10000回転を過ぎてなお上昇を続ける。背中がシートに押付けられる。10500で3速へ、速度は140km/h。一度8300回転に落ちた針が一目散に10000オーバーに向かう。再び10500回転で4速へ。速度計は175km/hを指している。以前と比べて加速感が全然違う。9000回転から10500回転までがやはり最もパワフルだ。4速10500回転220km/h、許容回転が上がった分各ギアでのカバーレンジが広がった。以前は190km/hから上は5速の守備範囲だ。5速に入れてなおアクセルを踏み込む。9500回転約260km/h、周りの車を抜きながらさらに加速するタイミングを計る。前方が開けたところでアクセル全開。10500回転285km/h。2週間ちょっと前まではこの速度からの伸びはめっきり弱まったが6速にシフトアップしたペガサスはここからグンと車速を上げる。300km/h、リアは浮き上がる様子を見せず安定している。駆動輪は路面を捉え、トラクションに全く問題はなさそうだ。多摩川トンネルを右にゆるく曲がりながら料金所に備えてアクセルを一度緩めた。いきなり停止してはエンジンをオーバーヒートさせる恐れがある。お楽しみはこれからだ。

「ここまで三隅さんのセッティングは完璧だ。きれいなパワーカーブを描いているよ。ブースト1. 2kgf/cm2で545馬力出てる。車重1000kgとしてパワーウエイトレシオ1.8kg/psだよ。若干の重量増があるにしても1kg台の値だ。すごいよこれは。」

長谷川が興奮気味に話した。

「この先はいよいよ公道最高の最高速舞台です。いきますよ、6速全開。」

アキヒコは自分を奮い立たせるように言った。

料金所から再びアクセル全開。1速、2速、3速。あわただしいシフトアップが続く。4速、5速、6速。3車線の直線道路にはほとんど車はなく、真中の車線を矢のように突き進む。300km/hを超えてなおも加速はとどまらない。310km、320km、330km/h。視野がグッと狭まり、周りの景色は溶けて流れ出す。ユウサクのルーフR Turbo、ブルー・ドルフィンのR34GT-R、そして男爵北山のエスティマ・ツインエンジン、限られたものだけが知る領域に今アキヒコは足を踏み入れている。340km、350km/h、恐怖心との戦い。アキヒコの目は一点を見つめ瞬きさえ躊躇う極度の緊張感に曝される。指先のほんの数ミリの乱雑な動きで車は姿勢を乱し制御不能になりかねない。兄ユウサクの助手席で体験した350km/hはアキヒコを陶酔の世界に招いた。今も頭は現実から逃避しかけている。アキヒコの心の叫びがかろうじて正気を保たせる。『目を開けろ!前を見ろ!』。交換した速度計でも数字がないところに針は向かう。さすがに加速は鈍るがじりじり速度は上がっていく。

「三隅さんの懸念した通り、ここまで踏み込むと燃調マップに乱れが出てきた。ちょっと調整するよ。」

長谷川がカチカチとノートパソコンを叩き、マップを整える。その声と音が半分スピードの麻薬に麻痺しかけたアキヒコの意識を現実世界に引き戻す。ペガサスは鞭を打たれた競走馬のようにもう一伸びしていく。目測で370km/h!アキヒコはアクセルを緩めるとニッコリ笑って長谷川に向け親指を立てた。長谷川も同様に親指を立てる。ここまで到達できる車が他に何台いよう。

 

 

裏切り

 

それは帰国するマルコを成田空港で見送った帰りであった。東関東自動車道、広々した直線路は流れも速い。

 

マルコはアキヒコを我が子のように気に入り、イタリアに来る機会があったら是非自分を訪ねるようアドレスを手渡していった。3週間の短い期間でも、交わす言葉が少なくても、二人は十分にお互いを認め合い親交を深める事が出来た。

アキヒコはマルコと離れることが残念でならなかった。オートサービス・アペックスに集ったプロたちが織りなす得も知れぬ高揚感。アキヒコはそれがずっと続けばどんなにいいかと思った。中でもマルコは格別だ。三隅や長谷川が努力の積み重ねで技術を会得したタイプであるのに対し、マルコには天性の勘があった。それはアキヒコのドライビングに相通じるものがある。北山の誘いには正直心が揺れたが、奥深い部分で北山とは相容れない所がある。マルコや長谷川と一緒に世界に挑戦できたらどんなにいいか。アキヒコが頼めばマルコは聞いてくれるのだろうか。

 

考え事をしながらマツダ・プレマシーのハンドルを握っていたアキヒコの視界に片隅、バックミラーにキラリと光るものが映った。150km/hで走るアキヒコたちをグングン追い上げる。ポルシェ、紺色の996だ。アキヒコは追い越し車線から走行車線に移り、ポルシェに道を譲った。そうありふれた車じゃない。右側を追い越すポルシェのドライバーをアキヒコはチラリと見やる。やはりユウサクだ。向こうもこちらを見たが一瞬アキヒコと視線が合うとあわてて目を反らした。その向こうに見えた女の横顔にアキヒコは我が目を疑った。リエだ!その顔は忘れようもない。動悸が激しくなり息が詰まる。どういうことだ?

リエほどの女がいつまでも一人でいるとは思わない。だが相手が相手だ。偶然なのか?それとも・・

 

その夜、アキヒコは浦安のいつもの喫茶ポエムにユウサクを呼び出した。どうしても確かめておきたい。このままじゃ夜も眠れない。

ユウサクは意に反して女連れで現われた。やはりリエだ。二人とも暗い面持ちでゆっくりとアキヒコの待つテーブルに近づく。覚悟を決めたという雰囲気だ。

「まあ、座れば。」

アキヒコは高鳴る心臓の鼓動を悟られまいと平静を装って言った。

「ああ、今更紹介するまでもないな、こちらの女性は。」

ユウサクがアキヒコを見つめて言う。いつもの自信たっぷりの眼つきではない。やはり偶然と言うわけではないのか。

「久しぶりだね、元気だった?」

アキヒコがリエに声をかける。本心は何処かへ逃げ出したい気分だ。今更どの面下げて会えるというのだ、人生の賭けを蹴った女に。

「やつれたわね、アキヒコさん。別人みたいに。」

さん付けかとアキヒコは思った。やつれた原因はリエではないが、そう思わせておくのもいいかもしれない。

「二人の関係を教えてくれよ。聞く権利はあるだろ?兄さん。」

アキヒコがユウサクに聞いた。

「見ての通りさ。近々親父に紹介しようと思ってる。」

ユウサクが答えた。

「何時から・・」

アキヒコはその先の言葉に詰まった。

「ごめんなさい、私が悪いの。」

リエが泣きそうな表情で言った。

「いや、キミじゃない、俺だ。俺が説明するよ。」

ユウサクがリエをかばうように遮った。

「今年の冬のことだ。お前のアパートに立ち寄ったらリエがドアの前で震えながら待っていた。連絡の付かないお前に直接会うためだ。可哀想に思った俺は自分の車の中で待つように勧めたよ。風邪でもひいちゃ大変だからな。1時間待ったがお前はその夜は来なかった。夜遅いし俺はリエを車で送ってやったよ。本人は随分遠慮したがな。」

多分アキヒコがペガサスに夢中になりだした頃だ。リエの住まいは中野。首都高を利用しても軽いドライブを楽しめる距離だ。

「それからしばらくして偶然浦安の駅でリエを見かけた。俺は悪いと思いつつお茶に誘った。リエに惹かれるものがあったし、お前からの相談で二人の間が上手くいっていないことも知ってたからな。リエは断らずに応じてくれたよ。多分お前の兄貴だということで気を使ったんだろう。」

「私もユウサクさんに惹かれてたわ。頼れる大人の雰囲気に。だから誘われて嬉しかった。アキヒコのことは後ろめたかったけど。」

リエが自分の気持ちを説明する。結局お互いに惹かれあったわけだ。アキヒコは自分がピエロに思えてきた。

「分かったよ、もういい。」

アキヒコはうつむいて言うと席を立った。これ以上ここにいたら気がどうかしてしまいそうだ。

「幸せにね、兄さん、そしてリエさん。」

胸が張り裂けそうな思いでそう言うとアキヒコは立ち去った。

 

別に今更リエに未練があるわけではない。全くないと言えば嘘になるが、木暮かすみと出会ったことでリエとの傷跡はだいぶ癒えている。それよりもアキヒコがショックだったのはユウサクの方だ。一番悪いのはリエに寂しい思いをさせた自分だろう。それを慰めたユウサクは決して悪いとは言えない。だが、結果的に一番信頼していた兄に最愛の恋人を奪われた形になるのだ。あの日、リエの誕生日にリエの心にあったのは自分ではなくユウサクだった。そう思うとアキヒコの心にやるせない怒りの感情が湧いてくる。なぜ正直に自分に言ってくれなかったのか、正面切って奪い取られた方が余程良かった。ふとアキヒコの脳裏に北山の言葉が蘇る。

“ブルー・ドルフィンとミッドナイト・バードはキミと争う間柄になるだろうね。何れは・・”

 

 

それぞれの挑戦

 

梅雨の6月を過ぎ、街には初夏の雰囲気が漂う。アキヒコは雨が嫌いだ。特に梅雨時は。暗くジメジメした気候は心にまでカビが生えそうな気がする。周りの仲間を一人、また一人と失い、心に蔓延る孤独感が一層アキヒコの表情を暗くしていた。中でもユウサクに対する信頼感を失ったのはこたえた。大きな心の拠り所が音を立てて崩れ去ってしまったのだ。日曜の湾岸パーティーも過去の物になっていた。誰も顔を出すものはいない。男爵の思惑通りに。

ペガサスにも乗れない日々が続いたが、久しぶりの太陽を浴び、アキヒコの暗黒の気持ちに薄日が差す思いがした。

『かすみはどうしているだろう。立ち直ってくれただろうか。』

一人ぼっちは辛い。今目の前にかすみがいたら人目もはばからず抱きしめてしまうだろう。期せずして無理やり引き離されたことがアキヒコのかすみに対する思いを強いものにしたようだ。

 

ロス・アンジェルス、アメリカ東海岸のこの街で木暮かすみは日本の喧騒を逃れていた。ホテル最上階のルームから眺める街の灯はアキヒコを追い駆けた真夜中のランデブーを思い出させる。

「ミッドナイト・パラダイス・・」

頭に廻る光の渦、アキヒコの駆るペガサスのテールランプ、追い求めれば離れていく。そんなイメージを言葉に出したかすみの脳裏に音符が溢れ出て整列していく。

「これだわ!」

部屋の電話で、同行したマネージャーを呼び起こすと、興奮気味に喋った。

「明日からスタジオ押さえてくれない?どこでもいいの。どうしても明日じゃなきゃダメ、最高の曲を逃すわよ。」

 

アキヒコはミッチを乗せてペガサスでC1に繰り出した。

「俺が出したっていうここのレコードタイムは調べてくれた?」

「うん、任せとけよ、バッチリさ。だけどおかしな話だよな、自分のしたことを苦労して調べるなんてさ。」

ストップウォッチを手にしたミッチが答えた。アキヒコは新しくなったペガサスのポテンシャルが相当のものであることを肌で感じていた。とてつもない最高速は実証した。だがそれと引き換えに失っても良いと思ったバランスは天才マルコの手でより高い次元に引き上げられたようだ。それを試すにはやはりここC1だ。

「ちょっと恐いかもしれないが、親友のお願いだ、聞いてくれるだろ?」

今夜アキヒコはミッチを半ば強引に助手席に乗せた。タイムを計測してもらうために。そう、新生ペガサスのC1タイムアタックを。内回りの京橋ストレート。全開走行に向けてアキヒコは心を整える。心に刻まれた数々の傷跡、ユウサクやブルー・ドルフィンに対する怒りの感情を押さえつけ、悲しみの感情に支配させる。それを包み込むペガサスのバケットは子宮のように温かい。4つのタイヤを手足のように感じる一体感。準備はできた、最高のコンディションだ。

 

ペガサスの後方100mに影のように様子を窺う車があった。紺のポルシェ996、いやルーフR Turbo、ユウサクだ。

「次の周回で行く気だな。」

ユウサクは呟いた。ユウサクの元に男爵の手紙が届いたのは1週間前のことだ。男爵の会社の顧問弁護士への誘い。その会社を見て心が揺らがなかったら嘘になる。外資系保険会社タンデオン、世界No.1の資金力を持つグループ企業の日本法人だ。父親の造園会社で得ている今の収入の5倍を保証すると言う申し出。予てから父親からの独立を考えていたユウサクにとっては正に天の恵みと言えた。ただし条件があった。指定の場所での公道レースでアキヒコに勝つこと。以前ならセミプロの自分にとって造作もないことだったが、今のアキヒコの力は計り知れない。今夜は力比べをするつもりだった。全速走行の後からそっと。そして伊豆スカイラインでやるという指定レースを最後に舞台を降りよう。リエと落ち着くために。

 

京橋JCTにR34GT-Rを止めたブルー・ドルフィン堤は目の前を通過したペガサスを見て車に乗り込んだ。走り出そうとした横を紺のポルシェが通り過ぎる。男爵からの誘いは堤にも来ていた。レーサーとして世界の桧舞台へ、裏社会のホスト生活の身には夢のような話だ。条件は伊豆スカイラインでアキヒコに勝つこと。アキヒコはいい奴だが自分の未来を遮るのなら容赦しない。今夜はじっくりと走りを見せてもらおう。バトルでは分からなかった部分を含めて。ミッドナイト・バードまでお目にかかれるとは思わなかったが。

 

「いくぜ!」

アキヒコがミッチに合図した。ミッチは身構えながら路面の継ぎ目を目印にストップウォッチを押した。ローにシフトダウンしたペガサスは路面にブラックマークを残しながら江戸橋JCTに向けドリフトに入った。9000回転に抑えて走った時はあれほど強めに感じたアンダーステアだが、10000回転まで回すとリアがほんの数ミリのスロットルペダルの動きに従順になり、カウンターステアを必要としないで車の向きを調整できるようになった。

『こいつは速い!なんて扱いやすいんだ。』

アキヒコは心の中で歓声を上げた。マルコの仕上げたサスペンションはアキヒコのあらゆる操作に的確に応える。他の誰かがドライブしても乗りこなせないし、他の誰かがセッティングしてもこうはならない。正に互いを知った黄金のコンビ。マルコはペガサスに命を与え、アキヒコがその翼となる。

 

100m後方のユウサクも同時に全開走行に入っていた。リアヘビーのポルシェは減速時に前後の重量バランスが理想的になる。軽いブレーキングとともにアクセルオフでステアリングを切るとPSM(自動安定化装置)を外されたルーフR Turboの重たいリアがいとも簡単に流れ出す。ユウサクはアクセルを開けてリアの流れを調整しながら江戸橋の急コーナーをクルリと旋回していった。短いホイールベースに700馬力のパワーの組合せは強烈だ。本来真直ぐ走らせることが難しいこの車を湾岸で350km/hの領域に持っていけるのは4駆システムとやはりユウサクの腕だろう。前後のトルク配分を前輪ゼロから50%まで自在にコントロールできるセンターデフをユウサクは後輪90%に設定していた。完全なる後輪駆動では挙動が激しすぎる。10:90のこの配分がユウサクの好みだった。右足と腰に全神経を集中させたユウサクはじゃじゃ馬ルーフに小刻みなカウンターを充てて御しながらペガサスに遅れをとることなくコーナーを抜けた。

 

ルーフR Turboに遅れること100mでブルー・ドルフィンR34GT-Rが江戸橋コーナーに向かった。先行する2台のような見た目の派手さはない。大きなグローブで後から捕まれるような強力なブレーキングでしっかりと減速し、クリッピングを過ぎた後は4つのタイヤとトラクションコントロールでカタパルトから打ち出されたような加速をして行く。空前絶後の800馬力マシン。僅か2.6リッターのストレート6のシリンダーブロックはほとんどそのままで2kg/cm2の過給圧を受け止め、F1に匹敵するパワーを絞り出している。レース参戦を前提として送り出されたGT-Rならではだが、そのパワーによるストレスは確実にエンジンと車体を削っていく。そんなに長く走れるとは思えない。寿命と引き換えた速さ、これもチューニングの宿命か。

 

アキヒコはペガサスの扱いやすさがサスペンションだけのせいではないことに気付いていた。捩れ剛性の高まったボディがパワーロスを防ぎ、微妙なアクセルワークを確実にタイヤを介して路面に伝えていく。もちろんそれをも考慮してのマルコのセッティングだろうが。ほとんどきっかけだけに使うステアリングとブレーキ。曲がりの主体はアクセルコントロール。ペガサスの魅力は実質の速さだけではない。乗り手を高揚させ限界を超えた領域に踏み出す勇気を与える車だ。右に左に複合的な速さを優先したリズミカルなライン取りは男爵から吸収した走りである。早くも自分の物にして行くアキヒコのセンスは限りない可能性をちらつかせる。

 

およそ公道を走ることにおいてルーフR Turboは最速だとユウサクは思っていた。僅かなミスを許さない刃のような性格を手懐ける腕があっての話だが。これまで首都高を、C1を本気で走ろうなんて思わなかった。所詮器が違い過ぎたからだ。だが今最高の走りを演じる自分の前に同じ速さを持つ奴がいる。ペガサスのポテンシャルとそれを引き出すアキヒコの成長振りにユウサクは嬉しさと恐れを感じていた。

 

ブルー・ドルフィンは半ば諦めの境地になっていた。前を走るルーフR Turboのテールはコーナーを一つ抜ける度に確実に遠のく。かつてペガサスと初めて出会った時にも同じ感覚を味わったが、あの時は圧倒的に勝る加速力があった。だが今ペガサスを含め3台の加速力に大きな差はない。同じ速度からの加速競争ならまだ優位に立てようが、脱出速度からして違うのだ。何か手を加えなければならない。よりグリップの高いタイヤ、それしかなさそうだ。

 

アキヒコは後を走る車の存在に気付いていた。これまで経験したことのない速さで走る自分に離れることなく追走するヘッドライト。不気味な威圧感に以前の自分なら押し潰されたかもしれない。だが幾多の試練は知らず知らずの内に鋼の精神力を築き上げたようだ。ついて来れるもんなら来てみろ。アキヒコの右足にますますアドレナリンが染み渡る。

 

今やユウサクには全く余裕はなかった。ちょっと気を許せば弟は離れて行くだろう。最高の走りをして付いて行くのがやっとなのか。奴のあの速さは何だ?自分と互角の、いやひょっとするとそれ以上の腕を身に付けたようだ。草レースとはいえプロを相手に負けを知らなかったユウサクのプライドは傷ついていた。だが何としても勝たねばならない。バラ色の未来を得るために。

 

「すげえ!10秒以上詰めたぞ、コースレコードを!」

失神寸前の状態でストップウォッチを握り締めていたミッチは気力を振り絞って恐怖心に耐え、路面の継ぎ目でストップウォッチを止めて叫んだ。

アキヒコは自分の走りとペガサスのポテンシャルに満足したが、それ以上に数秒遅れでピタリと追走してきたヘッドライトが気になった。アクセルを緩めるとヘッドライトは見る間に近づき、並んだ。

『やはりルーフR Turbo、兄さんか。』

相手が本気で走ったかは定かではないが少なくても舞台に立たせることは出来た。そして単独走行ではここまでのタイムを出せなかったかもしれない。アキヒコの心は早やここにあらず、強敵の集う伊豆スカイラインに飛んでいた。

 

 

 

 

[第一部⑤へ続く]