再会

 

木暮かすみの新曲「ミッドナイト・パラダイス」は発売1週間でヒットチャートNo.1に踊り出た。ほとんど宣伝のない状態でだ。発売前にラジオで流れたメロディに問い合わせやリクエストが相次ぎ、口コミで広まっていった。マスコミを利用して宣伝しようものなら逆効果になりかねなかった。2ヶ月前のアキヒコとのスキャンダルはまだニュース価値を持っている。何かにつけ引合いに出され新曲の宣伝どころではなくなっていただろう。そう、曲の詩にはアキヒコに対する恋心が見え隠れする。

駅前の商店街から流れるラジオでその曲を聞いたアキヒコは鳥肌が立つ思いがした。これまでの木暮かすみのイメージではない。バイオリンとピアノのバラード調で始まるイントロはクラシカルな雰囲気を備え、聴く者に夕刻の穏やかさを与える。かすみの澄んだ歌声に徐々にエレクトリックな伴奏が加わり、夜の都会の喧騒をかもし出す。そこから飛び出る2つのメロディライン、かすみの絞り出すようなソプラノと電子ピアノの軽やかな高音は深夜の首都高を自在に駆け抜けるペガサスとロータスではないか。そしてクライマックスで弾け合うと一瞬の静寂、再び流れるバイオリンに夢の終わりを告げる朝がだぶる。手軽にできる曲ではない。かすみの生命の息吹が吹き込まれている、そんな気がした。そして歌詞は自分に対するラブレターとも取れる内容ではないか。

感動で目頭が熱くなったアキヒコはCDを買おうと店先に立った。ポケットに入れた携帯電話が鳴る。この番号を知る者はただ一人。

「やあ、すごい歌を作ったね。」

アキヒコは挨拶代わりに言った。電話をかけて来るからには帰国したのだろうか。

「あなたに捧げる曲よ、ちゃんと受け止めてね。」

久々に聞くかすみの肉声だ。以前の茶化すような雰囲気ではない。アキヒコも気持ちを引き締める。

「今目の前にいたら、きっと人目もはばからず抱きしめてるよ。」

アキヒコはありったけの思いを伝えようとした。

「何処からかけてる?帰国したなら迎えに行くよ。」

「あなたの後ろ。」

思わずアキヒコは振り向いた。そこには例のごとく野球帽を目深に被ったGパンにTシャツ姿のボーイッシュなかすみが立っていた。アキヒコは両手を広げてかすみに近づくと思いっきり抱きしめた。そして唇にキスする。じろじろ眺める通行人の視線も全く気にならない。ここだけ時間が止まった二人だけの世界に思えた。

 

「今日成田に着いたの。また騒がれるのも嫌だから向こうでキャンセル待ちで乗ったわ。成田から荷物は事務所に送ってタクシーを拾ったのよ。ここまで来たら偶然アキヒコを見かけたんで慌ててタクシーを降りたわ。」

駅前のマクドナルドの小さなテーブルで向かい合った二人はささやかながら再会を祝した。人の出入りの激しいこの場所ではかえって二人に気を止める者もいない。

「そうしてるととても大スターには見えないな。貧乏学生同士のつつましいデートだよ。またこんなとこ写真に撮られたらどうする?ロスに逃げるかい?」

アキヒコはハンバーガーを頬張りながら聞いた。

「先刻のあれは何?あんな大胆なことする人の台詞じゃないわよね。」

かすみがシェイクを手にやり返す。アキヒコとのこういうやり取りが好きだ。

「向こうじゃよくやるだろ、挨拶代わり。」

アキヒコが照れて横を向いた。

「私ね、もう引退してもいいと思うの。」

かすみが微笑みながら突然言い出した。アキヒコは驚いてかすみを見る。

「今度の曲は自分で言うのも何だけど最高の出来よ。当分これを越えることは出来ないくらい。私の中の全てをぶつけて燃やして腑抜けになっちゃったみたい。アルバムを出したら休養宣言するわ。」

「折角時の人になりそうなのにもったいないじゃないか。」

「あら、時の人にはとっくになってるわよ、アキヒコと一緒に。」

かすみは笑い出した。

「今度のことで逃げ出したのが悔しいのよ。別にアキヒコとは世間にとやかく言われるような関係じゃないし、堂々としていれば良かったと思う。マスコミに騒がれて、気持ちが動転して、結局自分に自信がなかったのね。今は宣言したいくらいよ、この人が好きですって。」

動転したのはアキヒコも同じだ。いきなり全国区の雑誌に写真が載って、テレビに連日自分の顔が登場して、恐くなって表に出ることさえ出来なくなった。

「俺も動転したけど今にして思えばたぶん二人の関係が騒がれたことよりも湾岸パーティーが表沙汰になったからだと思うよ。結局2回、自分の車では1回だけの参加だったけど、特別の雰囲気があったものな。あの場所、あの時間がなくなることがたまらなくいやだった。かすみと騒がれただけなら嬉しくて自分から名乗りでたかもよ。」

まあ名乗り出ることはなかっただろうが、湾岸パーティーの暴露はショックだった。

「そうね、直後の事件もあったものね。あれからどう?ペガサスは仕上がった?みんなとは会った?」

アキヒコはブルー・ドルフィンの件やユウサクの件をかすみに話した。自分の全てをかすみには話したかった。

「結局男爵の言う通りになってるのね。あの人どこまで裏で糸引いてるか分からない。ねえ、あの人の誘いには乗らない方がいい気がするわ。操り人形にされちゃうわ。私がバックアップしてあげる。私はもう走れないし、走らない。その代わりアキヒコは走り続けて。あなたはそのために生まれてきたような気がするもの。」

「ありがとう。俺もそのつもりだよ、でもかすみの力は借りなくても大丈夫。」

「違うの。アキヒコに関わっていきたいのよ。あなたの眩しいくらいの走りのエネルギーに触れていたいの。」

「わかった、わかった。何時でも助手席は空いてるよ。近いうちやりたいことがあるから付き合えよ。今日は疲れてるだろ?送るよ。」

「帰す気?またこのまま会えなくなっちゃってもいいの?」

かすみのすがるような目にアキヒコは自分の気持ちを固めた。今夜は二人で過ごそう。互いの温もりを確かめ合おう。

 

 

記者会見

 

木暮かすみが秘密裏に帰国したという情報は翌日にはマスコミで報道され、「愛の緊急帰国」などと騒がれたが、かすみは動じることなくその夜ホテルに報道陣を集めて記者会見を行った。

「あなたがロスに行かれた本当の理由を聞かせて下さい。」

「写真週刊誌のせいではないんですか?あの報道は本当ですか?」

「帰国の理由は恋人に会うためですか?」

「新曲は恋人をイメージした曲だと言われてますがどうですか?」

矢継ぎ早に質問が飛び交う。眩いフラッシュの光が四方八方から途切れることなくかすみに注がれる。かすみは目を閉じ、昨夜のアキヒコとの熱い抱擁を思い出すと心が和んだ。

「彼は・・」

かすみが静かに目を開けマイクに向かって話し出すと会場は静まり返った。

「彼はとても素敵な人です。大切に思っています。」

再びフラッシュの洪水がかすみを包む。

「交際を認めるんですね?」

「噂は本当だったんですね?」

質問を遮るようにかすみはマイクを持った。

「私たちの関係は今の私にとって生きる糧であり、最も大事にしたいことです。みなさんが私たちのことをどう報道されようと止めることはできません。でも、いいかげんな報道で彼が傷つき私たちの関係が壊れるくらいなら・・」

かすみは一呼吸置いて言った。

「私は引退も考えています。」

 

「本当に言っちゃったよ!」

アパートで一人テレビを見ていたアキヒコは驚きのあまり声を出した。昨夜のかすみの感触はまだ生々しく残っている。

 

「私に対しての質問はいくらでもお答えします。でも、彼に対してマイクやカメラを向ける人がいた場合、私は今後一切の芸能活動を即座に停止します。」

かすみの一言に会場からは思い上がりだと言った声も出たが、各テレビ局には電話が殺到していた。もちろん木暮かすみを引退させるな、木暮かすみをこれ以上傷つけるなと言った内容が圧倒的だった。

結局かすみの賭けとも言えるこの記者会見で、かすみとアキヒコは誰にも邪魔されることない公認の仲となった。翌日の新聞やニュースはかすみの恋人宣言についていっせいに報じたが、具体的な内容には触れていなかった。また、アキヒコのアパートにも大学にも報道陣の訪れることはなかった。

 

 

招待状

 

男爵北山からの招待状が届いたのは梅雨もすっかり明けて真夏の太陽が照りつけだした7月の終わりのことだった。

“お待たせしたね、諸君。

いよいよお楽しみの公道レースの準備が整ったよ。

来月の第一日曜日、午前5時から1時間、

伊豆スカイラインは私たちの貸切コースだ。

前日の夜は私の箱根の別荘で前夜祭と洒落込もうじゃないか。

ディナーを7時に用意して待つ。

ご婦人同伴も歓迎だ。

地図を同封する。

では当日に。

―伝説と言われた男より―”

いつものメールではなく、封書でオートサービス・アペックスの住所でアキヒコ宛に送られてきた。別荘への地図が同封されていた。

『いよいよ来たか。』

アキヒコは込み上げる衝動を感じた。無性に走りたい、最高の相手と。先日の首都高トライアルで兄ユウサクが同じステージに上がってきたことを、そしてやはり相手がいた方がより集中力が増すことをはっきりと確かめていた。もう首都高でメンバーが揃うことはないだろう。伝説の男北山、ミッドナイト・バードユウサク、ブルー・ドルフィン堤、そしてペガサスアキヒコ、一番速いのは誰なのか、一番速い車はどれなのか。誰にも負けたくない。勝者に送るという300万ドルにはそんなに興味があるわけじゃないが、一番でゴールして北山に離縁状を叩きつけてやる。

アキヒコはもう北山の誘いに乗る気はなかった。マルコやかすみに言われたせいもあるが、やはり自分と北山は車に対する思いが、ドライビングの根底に流れる何かが違う。根本的なところで相容れない部分がある。こんどの決戦を機にもう本気で走ることがなくてもいい。自分が走る宿命にあるのなら本当のチャンスは別にある気がするし、自分で勝ち取ってゆくものだろう。だがその前にやっておきたいことがある。

 

 

かすみの秘密

 

土曜日の夜、湾岸大黒パーキングにアキヒコはいた。オフを取ったかすみを連れて。木暮かすみは各局の歌番組やトーク番組に引っ張りだこだった。「ミッドナイト・パラダイス」は3週間ヒットチャートの頂点に立っていた。

「今夜は会えそうな気がするよ。」

アキヒコは2日ばかり湾岸を流してみた。黒のエスティマの足取りを追って。そう、伊豆のステージに立つ前に頭の隅に残っているのが黒のエスティマの存在であった。当初はブルー・ドルフィンの敵討ちをしてやりたいと思っていたが、今はそんなことはどうでも良くなった。男爵の息のかかる者を封じ込めておきたい、男爵に対してどんな些細な弱みも残しておきたくないという気持ちがアキヒコを強く駆り立てていた。2日間は空振りに終わったが、エスティマに乗るのがルシフェルであれば土曜の夜に現われる確立が高い気がした。最初に黄色のNSXでアキヒコとやりあったのが土曜、そして黒のエスティマでブルー・ドルフィンとやりあったのも土曜だった。再びルシフェルといや、それを影で操る男爵と相見える、その場面には木暮かすみにいてもらいたかった。彼女を追い詰め、走る楽しみを奪ったのも男爵である。だから今日かすみを誘ってここに繰り出したのだ。

「楽しみね、エスティマを見たいのもあるけど、アキヒコが走ることが。」

ペガサスの助手席にくつろぐかすみはひさびさの高速ドライブにわくわくしている。ペガサスの狭い空間に二人でいると俗世界から遮断された錯覚さえ覚える。

「そういえば、今頃になって言うことじゃないけど、俺かすみのことをほとんど知らないんだよね。ああ、テレビの向こうの木暮かすみは良く知ってるよ、だけど素顔の本当のかすみは謎だらけだ。」

時刻は午前0時、シンデレラの魔法が解ける時間。

「そうね、マスコミも知らないもの。でも、あなたには話しておくべきよね。私の素顔。」

かすみは少し考える素振りをして話し出した。

「信じてもらえないかもしれないけど、私は小さい時の記憶がほとんどないの。真っ白い部屋で一人で過ごしていたような気がする。小学校の入学式の頃から両親の記憶があるんだけど、高校受験の時かな、戸籍を見たら自分が養子であることが判ったわ。大学教授だった育ての親は私の我儘はなんでも聞いてくれた。欲しいものは買ってくれたし、行きたいところへ連れてってくれた。でも、私の本当の両親については何も言ってくれない。」

アキヒコはかすみの身の上話を真剣に聞いた。

「高校2年のとき、何の気なしに受けた歌番組のオーディションに合格して歌手デビューすることになった。それを機に高校中退して育ての両親のもとを離れたわ。離れたら急に今までの自分の我儘が申し訳なくなって、事務所に私の収入の半分は育ての両親に送るよう頼んだの。でも、断られた。」

「断られたって、事務所に?両親に?」

「それが変なの、両方によ。最初事務所がその必要はないっていうもんだから直接両親に言ったわ。そしたらやっぱり断固断られて。考えてみると不思議な気がするの。大学教授にしては豪邸と呼べる家に住んで、結構贅沢な暮らしもして、その頃はそれが普通だと思ってたんだけどね、私のオーディションにしたってまぐれにしてもスムーズ過ぎるわ、何度受けても受からないのが普通なのに。私の周りに何か霧のベールに包まれたものがある気がしてならないわ。」

かすみは真顔で続けた。

「ひょっとしたら、私の出生の秘密が私の最大のスキャンダルになるかもね。」

「ハッハッハッ、お姫様じゃあるまいし。」

アキヒコは笑いながらもかすみ同様そんな気がしてきた。

「霧のベールが気になりだすと私の周りは嘘の固まりに思えてきたわ。それを振り払おうとエスプリでスピードのスリルを求めるようになったの。車に興味を持ったのは映画『氷の微笑』を見てからで、シャローン・ストーンがロータス・エスプリを操る姿がカッコよくて同じ車を買っちゃった。」

かすみはいつもの明るい笑顔を一瞬見せた後、真顔に戻ってアキヒコを見つめた。

「初めてアキヒコを見た時、何か自分と共通のものを感じたの。そしてあなたの走りを見た時、生命のほとばしる光を感じたわ。嘘や偽りのない真剣な走り、まるでナイフの上を歩くような一瞬の気の緩みも許さない雰囲気、これまでの私の周りとは違う本物を見た気がしたわ。だからアキヒコと一緒にいることを選んだ。もちろん仕事にプラスになるって言ったのは嘘じゃないわ、今度の曲は初めて自分の心の奥を曝け出した真剣な作品よ。アキヒコの姿に打たれて・・」

自分とかすみの共通のものって何だろうと漠然と思ったとき、遠くから爆音が近づいてきてペガサスをヘッドライトで照らし出すように止まった。黒のエスティマ。

「お待ちかねのお客さんが来たようだ。」

アキヒコがペガサスのイグニッションを捻ると、まだ暖かさの残るエンジンは野太いアイドリングを始めた。

 

 

エスティマ

 

エスティマはペガサスを威嚇するようにチカチカと2度パッシングを送ると「グロロロロロ!!」と耳をつんざくような空吹かしをした。大黒PAに停まる他の人々が一斉にこちらを見る。まるで野獣の遠吠えのようだ。

『ルシフェル!』

アキヒコは以前の黄色いNSXを思い出した。首都高を我が物顔で走る野獣のような車。獲物を追い求め、蹴散らす。エスティマの運転席はこちらからは見えないが、男爵北山の行為ではない。男爵とは2度対戦したが、向こうから挑んでくることはなかった。常に相手を見下したような、胸を貸してやるとでもいうような態度。それに対し、目の前のエスティマは血に餓えたライオンのように今にも噛み付いてきそうだ。アキヒコは背筋にゾクゾクとくる冷たさを感じた。殺気のような。

 

「何てうるさいのよ、こいつ!」

かすみが耳を抑えて叫ぶ。男爵の話では3リッター+7リッターの1万ccクワトロターボだ。大型トラック並みの排気量の空吹かしは大地を揺るがす。

エスティマはゆっくりと向きを変えるとアキヒコたちにサイドビューを見せる。助手席の後から横に出された排気管は前のエンジンのものだろう。助手席から後の窓はガラスの代りにスリット入りの黒い板が嵌められている。アルミ板だろうか。それにしてもでかい車体だ。低いペガサスからみると小山のように見える。地面スレスレのエアダムで武装したスタイルは精悍で、何とも言えぬ威圧感を与える。屋根のリアエンドには巨大なウイングがそびえ立つ。リアはサイドに増して物々しい。4本の太いエグゾーストパイプ、スリット入りの黒い板に交換されたリアゲート、ワイドな車幅からはみ出しそうな極太タイヤ。もとのファミリーワゴンのイメージは欠片もない。

エスティマに先導されるようにアキヒコはペガサスを湾岸へ向けて進めた。2台の他を圧倒する雰囲気に、一般車がよけて道を譲る。湾岸に入るや否やエスティマは轟音を轟かせて加速しだした。速い!アキヒコもほぼ同時に加速態勢に入ったが、一瞬の間に10mの差がついた。その外観からは想像もつかない加速力、ブルー・ドルフィンを破った公道最速のロケットカー。週末の湾岸は昼間ほどではないにしろそこそこの交通量だ。翼橋の上りをパッシングとクラクションをフルに使った強引なスラロームで蹴散らしていくエスティマ。アキヒコが躊躇う隙間に強引に割り込んだ黄色のNSXが蘇る。あの時とは戦闘力が格段に違う車に乗っているルシフェルは走る凶器のようだ。湾岸で300km/hを超える速度で接触でもすればただではすまない。もっとも被害が大きいのはトラックでもない限りは相手の方だろうが。

『そうか!あの重くて頑丈そうな車体はまさに超高速の重戦車、強引なルシフェルの走りにピッタリか!』

アキヒコはふいに北山の真意を見た気がした。走りを楽しむ必要なんかない。安心して突っ込めればよいのだ。

「何て強引な割り込みなの!あの車重で、あのスピードで当てられたらひとたまりもないわね!何であんな奴がいるのよ!」

かすみが腹立たしげに言う。

「そういう性格なのさ、ルシフェルって奴は。」

アキヒコはかすみを諭すように応えたが、内心静かな怒りがフツフツと沸いて来た。

「勝てる?アキヒコ。」

「やってみるしかないさ。」

 

翼橋の下り坂に入ると目の前が開けた。2台は同時にフル加速に入った。先行するエスティマの背後に本能的にペガサスを滑り込ませたアキヒコは、その瞬間エスティマに吸い寄せられるように加速が増したのを感じた。スリップストリーム。F1やCARTのようなレーシングマシンのバトルで、速度の伸びたストレートで見られるあれだ。前走車の後につくことで空気抵抗がゼロに近くなり、空気の壁との戦いとなる高速域では馬力アップに匹敵する効果的を持つ。エスティマのリアが目の前に大きく立ちはだかるようになった時、突如ブレーキランプが点灯し、アキヒコはブレーキを踏みながら横に避けた。しかしエスティマは減速することなく加速を続けている。おそらくブレーキに左足を乗せてランプを点灯させたのだ。ペガサスを威嚇するために。アキヒコがそのことを理解した時にはルシフェルのエスティマは50m先にいた。

「相変わらずやってくれるぜ。」

アキヒコは心臓の鼓動を静めながら言った。

「アキヒコのリズムで走らなきゃ。あいつのリズムに乗っちゃダメ。」

かすみの言葉にアキヒコは自分を取り戻した。そうだ、初めてモデナに会った時も自分のリズムを崩した。そして今もいつの間にか怒りに支配され自分を見失いかけてた。

「ありがとう、かすみ。もう大丈夫。」

アキヒコはすっかり冷静になった頭に走りのイメージを浮かべた。隣にかすみがいる今、悲しみの心は湧いてこない。だがペガサスとの一体感は別のフィーリングで湧いて来る。以前のイメージが海の底に一人沈むような感じだとすれば、今は木漏れ日の森を歩くイメージだ。隣に大事な人を伴って。悲しみや絶望感が走りのエネルギーにつながる事は身を持って感じたし、北山の言葉とも一致した。だがこの感覚はなんだ?初めてのフィーリングにアキヒコは戸惑いを感じたが、身を委ねるしかない。

 

 

覚醒

 

川崎のトンネルに向けて道は左にゆるくカーブを切る。速度は330km/h、アキヒコは狭まった視野をカーブの先へ向け指先に神経を集中させてステアリングを僅かに切る。アクセルは全開のままだ。エスティマはややスロットルを緩めたようで50m以上あった2台の差は少し詰まる。トンネルに差しかかるとやや交通量が増え、2台はアクセルを緩めざるを得ない。それでも250km/hを維持してスラロームする。相変わらずルシフェルは強引だ。トンネルに木霊するエグゾーストの爆音にクラクションが混じる。ヘッドライトはハイビームのままだ。アキヒコは周りの車の挙動に全神経を集中して動きを見切る。ルシフェルに掻き回され急に車線を変える車もあるが、アキヒコの予想する通りに動いていく。真直ぐな3車線道路にペガサスの通るべきワインディングルートが明るい光に照らされたように脳裏にイメージされる。アキヒコはそこを自分のリズムで正確にトレースしていく。明るい道の幅が徐々に広がって見え、それにつれてペガサスの速度が増していく。スムーズなライン取りでエスティマは20m先まで近づいてきた。パッと輝く光の洪水、目の前がひらける前兆だ。アキヒコはアクセルを床まで踏みつけた。

ルシフェルは一瞬遅れて全開にした。その一瞬で2台は再びグッと接近し、ペガサスはエスティマのスリップストリームに入った。アキヒコは今度はエスティマのテールは見ない。自分の研ぎ澄まされた感覚でエスティマの向こう側に広がる路面を見つめるだけだ。ルシフェルはブレーキランプを点灯させるがアキヒコの目には映らない。不思議な感覚だ。雨のF1レースで前走車に近づくとタイヤの跳ね上げる水飛沫が作るウォータースクリーンで目の前が塞がれる。そんな状態でよく走れると思ったが、今の自分には出来そうな気がする。実際には見えるはずのない路面がイメージの中に浮かび上がってくるのだ。イメージの路面が左に車線を変えるよう光る。それに従って左に切ると同時にエスティマが右に避けた。セダンが一台真中の車線を走行している。ルシフェルはギリギリまで引き付けて避けたのだ。ペガサスを突っ込ませるために!

アキヒコの感覚は体験したことのないほど冴えていた。心は決して暗い状態ではない、むしろかすみの存在が大きく広がり幸せに満ちている。かすみはアキヒコがペガサスに乗ることを決して止めはしない。逆にペガサスに乗ることを止めたら自分から離れてしまうかもしれない。そのことがアキヒコの心を大きく後押ししていた。リエの残した悲しみのパワーはアキヒコの潜在能力を引き出したが、かすみのくれた喜びのパワーは潜在能力以上の物をもたらしてくれるようだ。走りたくても走れないかすみの思いが加わった二人分のエネルギーかもしれない。

ペガサスとエスティマは並走して加速する。330km/h、340km/h、350km/h、訪れる異次元の世界、闇と光が溶けて入り混じり流れ出す。だが今夜はアキヒコの感覚が麻痺することはなかった。スピードに慣れたのか、今夜の感覚が特別なのかは分からないが、取るべきラインは自然にイメージされ、必要以上の緊張感はない。横にいるエスティマの動きも手にとるように分かる。この速度域でもエスティマの加速力はペガサスを僅かに上回り、徐々に前へ出る。恐るべき馬力だ。アキヒコは本能的にエスティマの後にペガサスを滑り込ませ、スリップストリームに入る。空気抵抗のなくなったペガサスはエスティマに引き寄せられるように加速し、接触寸前で横に出る。速度計は目盛のない370km/hを指して動かない。ペガサスはエスティマに並ぶとそのまま車体半分前に出る。さすがにルシフェルもこの限界速度域では仕掛けられない。幅寄せでも試みようものなら自分がどうなるか分からない。

 

多摩川トンネル出口のゆるい左カーブが迫る。この速度では直角コーナーにも感じられる。アキヒコは僅かにアクセルを緩め前輪に荷重を移すと慎重にステアリングを1センチ足らず動かす。ペガサスのリアタイヤが悲鳴を上げ、今にもブレイクしそうだ。エスティマは5m遅れた。再び目の前に数台の車が立ちはだかる。ここが勝負所だろう。真中の車線を走るペガサスの前には1台の乗用車クラウンが、左車線やや前方に大型のトレーラー、右車線にもトラックが見える。アキヒコの脳裏には左から右への緩いS字コーナーがイメージされる。ブレーキングしながら左車線からクラウンをかわすとすぐさま中央車線に戻りそのままトラックの前をかすめて右車線に飛ぶ。中央車線にはもう1台ワゴン車がいた。ルシフェルはクラウンを右からかわしにかかり、逆に左車線にトレーラーをかすめて割り込んでワゴン車をかわす。ペガサスとエスティマの走行ラインはちょうど8の字を描いてクロスし、ペガサスを前に10mの差で中央車線に戻る。両サイドにはトラック、中央突破だ。150m前方にはダンプが3台3車線を塞ぐように並んでいる。アキヒコは怯まずアクセルを踏む。290km/hからメーターは310km/hに跳ね上がる。再びブレーキ。今度はペガサスは右へ、エスティマは左へ僅かに走行ラインをずらす。アキヒコは右のダンプと中央のダンプの間に隙間を認めていた。いや、正確にはそこに明るく光るラインが見えた。タイミングを計って隙間にペガサスを飛び込ませる。速度は270km/h、ダンプとの速度差170km/hだ。中央のダンプがユラリとアキヒコの方にふらつくがそのまま自分の感覚を信じてアクセルを踏み込む。ワンテンポ遅れてエスティマがやや開いた左ダンプとの隙間に飛び込もうとして急ブレーキを踏んだ。中央のダンプが今度は左に揺れたのだ。

背後から猛スピードで近づく2台の暴走車に抜かせまいと3台のダンプは並走し、さらに中央のダンプが蛇行で邪魔しようとしたが1台にはうまく抜けられた。最初は嚇かすつもりの幅寄せだったがあんなにも大胆に抜かれるとダンプの運転手も熱くなり、エスティマにはつい過剰の幅寄せをしてしまった。勢いあまって中央のダンプは左のダンプに接触し、バランスを崩す。反動で右のダンプにも接触し、時速100kmで3台のダンプは横転した。湾岸東行きは完全に車線を塞がれ、深夜にもかかわらず渋滞を引き起こす。

アキヒコはバックミラーで惨事を確認するとアクセルを緩めながらクーリング走行に移った。

エスティマはダンプに接触され左の路肩まで跳ね飛ばされながらも態勢を立て直し、ダンプが横転する直前に路肩を利用して前方にすり抜けた。しかし勝負あり、ルシフェルは2度目の敗北に唇の端が切れるほど噛みしめた。

 

 

共通点

 

「やったね!アキヒコ。さすがに乱暴者のエスティマもダンプには敵わなかったみたい。」

かすみは溜飲を下げた口調で言った。

「かすみのおかげだよ。危うくあいつの罠に嵌るところだった。」

アキヒコはペガサスをゆっくり走らせながら応えた。

「今まで俺は孤独や絶望感によって走る集中心を高めていた。男爵も同じようなことを言ってたよな。気を悪くしないで聞いてくれ。俺は前の恋人、リエと別れた時、半ばやけっぱちでペガサスを走らせたんだ。もうどうなってもいいような気がしてね。皮肉なことにその時気付いたんだ。そういう孤独感がとてつもない集中心を生み、それまでと次元の違う走りが出来た。だけど今日はとてもそんな孤独な気分にはなれないさ。何故ってキミが隣にいるんだから。ところがどうだい、俺の走りはふやけるどころか今までにない切れがあったと思う。かすみの走りたいというエネルギーが俺に注ぎ込まれたようだよ。」

「うん。体験したことない速さだったけど、ちっとも恐くなかったよ。アキヒコになら安心して全て任せられるもの。でも冷静になって考えるとすごいわね、ことごとく間一髪のタイミング。思い出すとドキドキしてきちゃう。アキヒコの落ち着いた横顔を見なかったら叫んでいたかもしれないわ。」

「ああ、信じないかも知れないが今夜はラインが見えたんだ。かすみのアドバイスを聞いた後はね。周りを走る車はほとんど気にならなかったよ、エスティマさえも。エスティマの真後ろを走りながらも実は前方に伸びる光の道をトレースしていたのさ。それが障害物を避けるラインだったんだ。こんなことは初めてだ。」

アキヒコは不思議な感覚をかすみに説明した。体験したアキヒコにも信じられない現象だが、よく思い出すと初めてではない気もする。そう、モデナと新環状で競った時、トラックの挙動が予知できた。今度の方が比べ物にならないほど鮮明だが。

「うん。3ヶ月前の私なら信じなかっただろうけど、今は分かる気がするわ。ロスのホテルで夜景を見つめていた時、突然私の頭の中に音符が飛び交い整然と並びだした。それがミッドナイト・パラダイスなの。私もあの時初めて体験して驚いた。まるで神のお告げみたいだったもの。対象は違ってもきっと同じフィーリングだと思うわ。」

かすみのその言葉でアキヒコは大黒PAでの会話を思い出した。

「そういえばさっき大黒PAで話してた時言ったよな。初めて俺と会った時、自分と共通のものを感じたって。あれはどういう意味?」

「上手く説明できないけど、私の心に声が聞こえたの。この人はあなたと同じよって。そして確かにアキヒコがすごく孤独な存在に見えたの。私と同じように。おかしいわよね、ミッドナイト・バードが、あなたのお兄さんが一緒にいたのにね。」

確かにリエという存在がありながらも走る時のアキヒコの心には常に孤独感が漂っていたが・・その時はかすみの言葉をさほど気にも止めなかった。

 

 

戸籍

 

月曜日、アキヒコは横浜の市役所にいた。心の片隅に引っかかるものがあり、面倒を押して自分の戸籍を確認しに来たのだ。アキヒコは振り返ってみると自分の戸籍を見た記憶がなかった。今まで何度か必要なことがあったが、その度に母良子が封印して渡してくれたので中を確認したことがないのだ。これまでは別に大して気にしていなかったが、かすみの話を聞いてから妙な胸騒ぎが消えない。自分にも小学校に入る以前のはっきりした記憶がないのだ。人の記憶はあやふやなもの。特に子供の頃のことなど覚えている人は多くないかもしれない。だが誰にでも一つや二つ印象に残るシーンはあるだろう。友達と遊んだとか、何処かへ連れて行ってもらったとか、欲しいおもちゃを買ってもらったとか。アキヒコは必死に自分の記憶を辿るが、思い出せることがない。最初の記憶は小学校の入学式なのだ。母、良子から浦安の幼稚園に通わせたと聞いていて、自分でもそのつもりだったが、幼稚園ではどんな先生で、どんな友達がいたのか思い出せない。

名前を呼ばれ、窓口で戸籍謄本を受け取ると、アキヒコはゆっくりとそれを確認した。アキヒコの顔が歪む。目には見たくなかった文字が映った。

『養子・・!どういうことだ。』

アキヒコは頭を振って嫌な気分を振り払おうとした。知らなければ良かったのかもしれない。だが知ってしまった今は、取りあえずは確かめることだ。自分の本当の素性を。

 

気が付くと母良子が経営するエステサロンの前に立っていた。ここに来るのは3年振りか。10階建てのビルの最上階に良子のオフィスはあった。新人の受付嬢はアポのないアキヒコを不審な顔で見たが、通りかかった顔馴染のエステティシャンがつないでくれた。

黒光りする調度品と赤い絨毯が敷き詰められた良子の個室はオフィスというよりも応接室といった雰囲気だ。この部屋に入るのも久しぶりのことである。皮のソファに腰掛けて5分ほど待つと良子が現われた。

「アキちゃん!よく来たわね。しばらく顔を見せてくれなかったじゃない。」

とても50には見えない若々しさ。さすがに女性の美を売り物にするだけある。

「学校の方はどう?ちゃんと行ってる?随分痩せたんじゃない?ご飯食べてるの?」

良子は矢継ぎ早にアキヒコに質問を投げかける。一時ワイドショーの主になりかけた、かすみとの一件はやはり知らないようだ。

「まじめにやってるさ。心配しなくていいよ。」

ブルー・ドルフィンの顔がちらつきアキヒコは良子の顔をまともに見ることを躊躇ったが、今はそれどころではない。

「聞きたいことがあって来たんだ。」

「なあに、珍しいじゃない。女の子の口説き方?いくらでも教えてあげるわよ。」

良子はアキヒコが自分から会いに来てくれたことですこぶる機嫌がいい。

「俺の本当の両親についてだよ。」

アキヒコの意外な質問に良子は一瞬たじろぎを見せた。

「何言ってるの、あなたは私の大事な息子じゃない。」

良子はテーブルのシガレットケースからタバコを取り出すと火を付けたが、吸いなれない煙に咳き込んですぐに消した。

「戸籍を見たんだよ、ほら。」

アキヒコはポケットから戸籍謄本を取り出して良子の前に広げた。

「・・そう、知っちゃったのね。知らない方が良かったのに。」

良子は観念したようにトーンを落として話し出した。

 

「私たちのところにその案内が来たのは15年前、あなたが5才の時だったかしら。どういうきっかけで私たちが選ばれたかは分からないけど、ユウサクが生まれて10年間子供が授からなくて諦めかけてたところだったわ。研究施設で無邪気に遊ぶあなたを見て私はすぐに引き取ることを決めたの。あの人はあまり乗り気じゃなかったけど、養育費の名目で手元に入るお金は魅力だったみたい。」

かすみの打ち明け話がアキヒコの脳裏にだぶる。

「あなたは私たちの子供として育てられることになった。それまでの記憶は消されたと聞いたわ。あの人は出来のいいユウサクに夢中だったけど、私はあなたが自分の本当の子供のように可愛くて溺愛したわ。それが結局面白くなかったのよね、あの人には。7年後に離婚。それからは、もういいでしょ。」

良子はこれ以上話したくないという素振りで横を向いた。

「俺がいた研究施設には他の子もいたの?」

アキヒコはふと気になって聞いた。

「隣の部屋にもう一人いたかしら、女の子が。」

『かすみだ!』

アキヒコはそう直感した。かすみがアキヒコに初めて会った時に抱いた感情が今実感として分かる気がする。共通点はこれだ。自分たちは5才まで一緒に育てられた可能性がある。何故?誰に?

「その研究施設は何処にあるの?」

アキヒコの問に良子は首を横に振った。

「目隠しされて送り迎えされたからよく分からないわ。ただ施設の中で見たマークは覚えてる。鳥みたいなの骨のシルエットよ。今でもたまに見ることがあるわ、そのマークは。えーと、外国の保険会社で・・」

「タンデオン?」

アキヒコの言葉に良子は頷いた。世界的大資本、アキヒコの大学でも就職人気が高い企業である。確かに新聞広告で左を向いた始祖鳥のシルエットが描かれていたのを見たことがある。始祖鳥のマーク・・アキヒコは最近何処かでそれを見た覚えもある。身近な何処かで。

これ以上良子から聞けることはなさそうだ。他人行儀にお辞儀して部屋を出ようとするアキヒコに良子は声をかけた。

「あなたは私の息子よ、アキヒコ。それを忘れないで。それにあなたはもっと我儘に贅沢にしていいのよ、この会社だってあなたの養育費が元なんだから。」

『養育費?親父からの慰謝料が元手だと思ってたのに・・』

自分の周りも嘘で固められている気がする。かすみの苦悩が今自分の目の前に広がっていた。

 

アキヒコは懸命に自分の幼少の記憶を辿ろうとしだが、ノイズのひどいテレビのような映像が広がるだけである。しだいに頭の芯がガンガン痛んで倒れそうになった。公園のベンチに腰をおろすと悩んだ末に携帯を手にした。メモリーされたダイヤルはただ一つ、かすみの番号だ。5回のコールで切ろうとした間際にかすみは出た。

「ごめん、ちょっと寝てたわ。どうしたの?またドライブのお誘い?」

かすみは寝起きの掠れ声、昨夜も仕事だったのだろう。

「かすみにしか相談できないことがあるんだ。・・」

アキヒコは今日の出来事を手短に、しかし正確に伝えた。

「驚いた。」

かすみはそう言うとしばらく言葉が出なかった。

「ねえ、私の育ての父に聞いてみようか。何か聞き出せるかもしれないわ、私たちについて。」

 

 

木暮教授

 

かすみの白いロータス・エスプリに乗った二人は世田谷の閑静な住宅街にいた。夜の9時ともなればこの辺りはほとんど人通りもなく静まり返っている。表通りから路地に入りもう一度右に折れたところでかすみは車を止めた。車を降りたかすみは道の左側にある門のインターフォンを押した。

「私、かすみです。開けてくださる?」

しばらくすると白髪混じりの婦人が現われて上に開く鉄製の門の昇降スイッチを押した。

「まあ、かすみさん、元気そうでよかったわ。入って、入って。」

かすみはロータスに乗り込み、開けられた門の中に車を進めた。アキヒコは門柱の表札をチラリと見た。

“木暮”

かすみを見ると何を言いたいか分かったかのように答えた。

「そうよ、本名。唯でさえ素性の判らない自分を芸名なんかでこれ以上ややこしくしたくないもの。」

玄関前には3台分の駐車スペースがあり、黒いブルーバードが止まっていた。その横にかすみはロータスをつけると車を降りてアキヒコにも玄関に入るよう勧める。

「こちらは高野明彦さん。私のお付き合いしてる人。アキヒコ、母よ。」

かすみは初対面の二人を紹介する。

「まあまあ、こちらが・・。ようこそいらっしゃいましたね、どうぞお上がりになって。」

アキヒコは勧められるまま靴を脱ぎ、広い廊下を応接室に案内された。

「すごい家だね、相当するんだろうな。」

壁にかけられた油絵やブロンズの彫刻を目にしながらアキヒコは呟いた。

「ねぇ、大学教授の収入じゃ無理よね。」

かすみは人事のように相槌を打つ。そこに白髪の銀縁眼鏡をかけたガウン姿の初老紳士が現われた。

「しばらくですわ、お父様。」

かすみはいつもと違った上品な口調で初老の木暮教授に挨拶した。その口振もこの家には似つかわしい気がする。

「元気にしてたかい、全然この家に寄り付かないからどうしてるか心配してたよ。まあ活躍はブラウン管で見てるがね。こちらの男性は?」

木暮教授がアキヒコを見て訊ねた。

「かすみさんの大事な方だそうよ。」

紅茶の入った4つのカップをトレイに乗せて運んできた婦人が後から木暮教授に言った。

「初めまして、高野です。」

アキヒコは座ったままで軽くお辞儀をする。

「おお、それはそれは。かすみがお世話になって。申し遅れましたがかすみの父、慶三です。こいつは家内の房江。」

教授が婦人を紹介した。

「お父様、突然こんな時間に押しかけてごめんなさい。今日は聞きたいことがあって来たの。」

かすみが早々に切り出した。

「私の本当の両親についてお父様たちは何も話してくれないけど、アキヒコ、いえ高野さんも偶然私と同じような境遇だったの。」

「俺から話すよ。」

アキヒコはかすみを制して母良子から聞いたことを説明した。

 

「・・おそらく僕の隣の部屋にいたという女の子はかすみさんではないかと思うんです。何の証拠もないけど、直感がそう教えてくれました。」

アキヒコはちょっと間を置いて、一番気掛かりなことを口にした。

「その・・、僕とかすみさんにはひょっとして血のつながりがあるのでは。」

かすみもハッとした表情でアキヒコを見る。

木暮教授はしばらくうつむいた後、意を決したように話した。

「高野さんの考えた通り、その女の子はかすみだと思います。これほど似た話がいくつもあるとは思えない。だが私の知る限りでは高野さんとかすみに血のつながりはありません。」

アキヒコとかすみはお互いの顔を見て安堵した。

「もっと詳しく聞かせて、私やアキヒコの幼少時代を、お父様!」

かすみが懇願する。テーブルに並べた紅茶はすっかり冷めてしまったが誰も口を付けていない。

「すまないが知らないんだよ。知っていても話すことは出来ない。」

「知ってるんでしょ!どうして話せないの?私たちは自分のことについて知る権利があるでしょ!」

かすみが立ち上がって大声で言う。おそらくこれまでも何度か同じようなシーンがあったことだろう。

 

「僕たちは極最近お互いに不思議な体験をしました。頭の中にイメージが湧いてくるんです。僕の場合は運転中に通るべきラインが、かすみさんの場合は・・」

アキヒコが気まずい雰囲気を取り成すように口を開いた。

「そう、曲よ!音符が勝手に頭の中で並びだすの。」

アキヒコの説明にかすみが同調した。

「僕たちの生い立ちに何か関係があるんじゃないですか?偶然にしてはあまりにも奇妙な共通点ですよね。」

木暮教授が驚いたように目の前の二人を交互に見る。

「それは本当ですか?」

興味有り気に聞き返す。

「僕は二度経験しました。もっとも二度目の方がはるかに鮮明でしたが。かすみさんが一緒にいたせいかもしれません。タンデオンの研究施設で僕たちは何をされたのですか?」

タンデオンという言葉に教授は怪訝な表情を示したが、顎に手をやり考えると眉間に皺を寄せながら小声で言った。

「いいでしょう。私の知っていることを話しましょう。ただし条件がある。後日実験室であなたたちの脳波を調べさせて欲しい。それと話は高野さんだけにしたい。かすみに話すかどうかは高野さんに任せますが、私の口からは勘弁していただきたい。」

アキヒコとかすみはお互いに顔を見合わせ、木暮教授に向かって頷いた。木暮教授はアキヒコを自分の書斎に招いた。

 

 

悪夢

 

その事実を知った時、アキヒコは全てが虚無に感じた。自分が今ここにいることさえ現実ではなく、何かの大きな手から伸びた見えない糸に操られている空想の出来事に思えてくる。知る必要などなかった。知らなければ良かったと思うが、知ってしまった今となってはもう手遅れである。頭の奥が猛烈に痛み、座っていることさえ苦痛になってきた。青白いアキヒコの顔色に驚いた木暮夫人は泊まるように勧め、アキヒコはその言葉に甘えることにした。

夜中に何度も悪夢にうなされた。思わず飛び起きるが、夢と現実の区別もつかない。自分は何故ここに存在するのか、決して答えの出そうにない問いが頭の中を駆け巡る。かすみにはとても真実など話せない。自分でさえこの先正気でいられる自信がない。アキヒコはタオルケットを頭まで被り、悪夢を振り払おうとしたが、体の震えが止まらなかった。

 

「どう、良く眠れた?」

トーストにバターを塗りながらかすみが訊ねた。

「うん。まあまあかな。」

赤く目を腫らしたアキヒコが答える。木暮夫妻は何事もなかったかのように一足先に朝食を済ませてソファーにくつろいでいる。それはそうだ。教授にとってはただ自分の知る事実をアキヒコに伝えただけのことだ。何一つ変化があるわけではない。願わくばアキヒコが事実をかすみに伝えないことを祈るだけだろう。

 

ロータス・エスプリを運転しながらかすみが切り出す。

「昨夜何を聞いたのか、私にも話してくれない?」

来たな、とアキヒコは思考を巡らす。胃に物を収めたせいで理性が戻ってきた。パニックはもう脱した。後はかすみにどう言っておくか、今や自分が守るべき唯一の存在に思えるこの可愛い女性に。

「かすみ、納得出来ないかもしれないが俺を信じてくれるなら何も聞かないで欲しいんだ。木暮夫妻はキミの本当の両親に相応しい人たちだよ。俺も今の母親を本当の親だと思って生きる。そして俺は何があろうとかすみの側を離れない。一生守ってやる。だから今は何も聞かないで欲しい。」

かすみに対して嘘はつきたくない。考えた挙句のアキヒコの言葉にかすみは暫く黙り込んだ。

「・・うん。分かったわ。そんな腫らした目で言うからにはよっぽどのことなのね。アキヒコに全て任せるわ。生まれがどうであろと私は私、くよくよ考えたってしょうがないわよね。」

かすみは自分に言い聞かせるように決意した。

「ありがとう。」

アキヒコは一つ心の重荷が取れた気がした。かすみにまた一つ教わった気がする。生まれがどうであろうと自分は自分だ。正々堂々と生きて行こうではないか。

 

翌日タンデオンについて調べたアキヒコは、その日本法人の代表者の名前に愕然とした。北山元、あの男爵北山ではないか。自分に関わる全てが今は北山につながっていく。伊豆スカイライン、そこに何かの答えが待っている。

 

 

 

 

[第一部⑥へ続く]