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CLを制したチェルシーをどう評価? クライフとアンチフットボール論。
Number Web 6月4日(月)18時30分配信

 「私を悩ませるのは、フットボールをすることを忘れてしまったチームが、それにもかかわらずすべてを勝ち取ることだ」ヨハン・クライフ
   ◇
 サッカーを表現する専門用語のなかに、「アンチフットボール」という言葉がある。この言葉に厳密な定義はなく、国によってニュアンスが変わる可能性があるし、受け止める人によっても抱く印象は変わってくるだろう。ピッチに乱入したサポーターに対して使っても、八百長をしたクラブに使っても、基本的に間違いではない。

 ただヨーロッパの報道を見ていると、そういう使い方は稀で、「自陣に閉じこもって、ほぼすべてのエネルギーを守備に注ぐチーム」という意味で用いられることが多いように思う。

 たとえばドイツ。

 昨季のCL準決勝・第1レグにおいて、バルセロナがメッシの2ゴールでレアル・マドリーに快勝したとき、フランクフルター・アルゲマイネ紙はこんな見出しをつけた。

「メッシがレアルのアンチフットボールを罰した」

 ただし、アンチフットボールという言葉がヨーロッパのメディアに溢れているかというと、そういうわけではない。資金力に乏しい下位クラブが、いくら守備的な戦い方をしても、アンチフットボールという感覚をヨーロッパの人たちは持たないだろう。資金力と質の高さを持ち合わせたチームが、攻める勇気を捨てたかのように自陣に引きこもったときに使われるのが一般的だ。もちろん例外もあるが、本当のトップ・オブ・トップの戦いのみが対象になる。

■今季CL優勝のチェルシーの“スタイル”をどう捉えるか?

 そういうことを踏まえて、アンチフットボールという言葉について掘り下げるのにいい例がある。今季のCLで優勝を成し遂げたチェルシーの“スタイル”についてだ。あらかじめ断っておくと、元西ドイツ代表のギュンター・ネッツァーが「ディマッテオ監督はチームを立て直し、本当に素晴らしい仕事をした。だが、流儀が問題なんだ」と言うように、監督や選手の奮闘を貶めようというものではない。あくまで“スタイル”についての議論であるということを強調したい。

■あまりに苛烈な言葉で批判したヨハン・クライフの心。

 オランダの英雄、ヨハン・クライフは、おそらく今回のチェルシーのスタイルに対して、最も厳しい意見を持っている人間だろう。テレグラフ紙のコラムをこんな刺激的な文章で始めた。

「私はほぼ確信している。今回のチェルシーの勝利を喜んだのはチェルシーのファンだけで、それ以外の人は満足していないと」

 そしてこう続けた。

「私を悩ませるのは、フットボールをすることを忘れてしまったチームが、それにもかかわらずすべてを勝ち取ることだ。チェルシーの選手の名前を見れば、誰もがその質の高さに気がつくはずだ。だから私が理解できないのは、彼らがキックオフから0対1で負けているかのようにプレーしたことだ」

 クライフの怒りはコラムの中でどんどんエスカレートしていき、ついには「自分はこういうやり方なら優勝しなくていい」と結論づけている。

■敗れた側のドイツ国内でもチェルシーの奮闘を称える声が多い。

 もちろんサッカーの見方は人それぞれで、クライフへの反対意見もある。

 たとえばバルセロナのセスク・ファブレガスは「チェルシーには運があったが、勝利には運は必要。祝福すべき」とコメント。そして何より、決勝で敗れたバイエルン側のドイツメディアが、ほとんどチェルシーのやり方を問題視していないのだ。

 キッカー誌は「バイエルンは(先制後に)冷静さを保てなかった」とメンタル面の弱さを指摘。「歴史に刻まれるのは名前だけ」と結果がすべてであることを強調した。

 ネッツァーが「あのサッカーを学校で教えたら、私はもうサッカーを観に行かない」と嘆いたり、マティアス・ザマーが「あれがサッカーの未来だというのなら、カタストロフィー(終焉)だ」と批判したり、いくつかの例外はあるものの、それはドイツサッカー界で頂点までのぼりつめたカリスマの少数意見。もともとドイツが勝利至上主義で成功を収めてきたことが、メディアの論調に関係していると思われる。

 結局キッカー誌が書くように、いくらバイエルンが攻め込んだとはいえ、トロフィーに名が刻まれるのはチェルシーであり、「アンチフットボールだったか?」という議論もすぐに忘れ去られるであろう、どうでもいい話なのかもしれない。

■なぜ他チームのファンばかりか自国民まで敵に回す?

 ただし、ここであえて考えてみたいことがある。

 ある種の負け惜しみと受け取られる可能性があり、すぐに風化してしまうテーマにもかかわらず、なぜクライフはアンチフットボールのテーマについて声をあげ続けるのか、と。

 クライフにとって、チェルシーのスタイルを批判しても何の得もないはずだ。むしろチェルシーのサポーターから嫌われるだけである。

 2010年W杯決勝のスペイン対オランダの際には、オランダの戦い方を批判して母国のサポーターまでをも敵にまわした。それでも言わずにはいられない理由が、必ずあるはずだ。

 クライフに直接質問しなければわからないことだが、個人的にこれまでの取材を通して、「これが理由なのでは」と思うことがある。やや長くなるが、順を追って書いていきたいと思う。

 まず推論できるのは、次のことだ。

 クライフの“目”は、普通の選手とは違う――。

■「パスコースが見えすぎちゃうのが悩み」(小野伸二)

 筆者がサッカーの取材をライターとして始めたのは2002年W杯以降で、最初の数年間は、選手の目というのは動体視力の多少の優劣があるにせよ、同じものさしで測れると思い込んでいた。見えているものは、それほど違いがない、と。

 だが、それは完全な思い込みだった。

 選手の中には、特殊な目を持つ人間がいることを最初に気がつかせてくれたのは、風間八宏監督(現川崎フロンターレ監督)だった。

 あるとき、風間監督は現役時代に行なわれた8桁の数字を瞬間的に覚える映像記憶のテストにおいて、西日本でナンバーワンの成績だったと教えてもらった(詳しくは約3年前のJリーグ観察記・第1回参照。こういう目の能力があるから、頭の中に写真のようにピッチ上の風景が映像として残り、見なくてもパスを出せるのだ、と。

 この“目”の話を聞いてすぐに思いついたのは、小野伸二だった。きっと同じ能力があるはずだと思い質問したことがある。すると「パスコースが見えすぎちゃうのが悩み」と別次元の答えが返ってきた。木村和司元横浜F・マリノス監督にインタビューしたときは、「引退して初めて解説席に座ったとき、『これ、ピッチで見ていた絵といっしょだ』と感じた」というエピソードを教えてもらった。

■“天才”にしか見えない世界があることに、気づいた時。

 そういう経験を通して確信した。

“天才”にしか見えない世界があるのだ、と。

 ある選手が、人とは違うものが見えていて、技術がともなうと、間違いなく観衆の想像を超えるものをプレーで表現できる。それこそがサッカーのスペクタクルな瞬間だ。

 だが、そういう創造性を発揮できるのは、ボールを持ったときだけだ。ボールを持っていなければ、目の能力も、技術も生かすことはできない。

 だからこそ、クライフはボールを持つことにとことんこだわり、ボールを放棄したアンチフットボールを憎むのではないか。

 将棋やチェスのように選手を駒として見て、攻撃的だとか、守備的だという議論をするのだったら、アンチフットボールという概念などどうでもいいだろう。だが、選手の中には、間違いなく特別な能力を持った人間が存在するのだ。クライフがアンチフットボールを憎むのは、ピッチの上でそういう人間たちの輝きを見たいからに違いない。

 このふたつの推測が合っているかはわからない。ただ、クライフの声の根底にある思いを想像することは、無駄ではないと信じている。

(「フットボール“新語録”」木崎伸也 = 文)

( 出典先:Yahoo!ニュース )




「キッカー誌は「バイエルンは(先制後に)冷静さを保てなかった」とメンタル面の弱さを指摘。」
そんなもん、アタクシでさえ試合中から見抜いていましたよ
いくら80分過ぎて残り10分そこらで先制とはいえ、逃げ切れると思えるのが不思議でしたわ
優勝に賭ける相手のモチベーション考えたら尚更
延長戦前半にロッベンがPK成功していたら、少しは気を取り直せたのやら?




『歴史に刻まれるのは名前だけ』、記憶に刻まれるのは良くも悪くも内容だけという見方も出来ます
手堅く勝利したチェルシーより、バイエルンの負けっぷりが記憶に残る人いたりして~
そういう歴史の一頁が書かれた時、クライフ御大のご意見を伺いたいですな




ところで




■“天才”にしか見えない世界があることに、気づいた時。
目から鱗が落ちましたかね?




「選手の目というのは動体視力の多少の優劣があるにせよ、同じものさしで測れると思い込んでいた。
見えているものは、それほど違いがない、と。
だが、それは完全な思い込みだった。」
別にサッカー選手でなくたって、日常においてさえ、人とは違うものが見える目は存在する
皆が皆同じ物を同じように見える方が怖い
清楚な美女が黒い過去を持つアダ花、周囲が絶賛する中で一人だけ冷静な目で見抜く。いるでしょ?
目に見える現実が大事と豪語、直接見えないが真実は隠されているかものネットを馬鹿にする者こそバカだ
と鼻で笑ってやる理由の一つ




ただ特殊な目の持ち主とて弱点は見られます




「あるとき、風間監督は現役時代に行なわれた8桁の数字を瞬間的に覚える映像記憶のテストにおいて、西日本でナンバーワンの成績だったと教えてもらった(詳しくは約3年前のJリーグ観察記・第1回参照。こういう目の能力があるから、頭の中に写真のようにピッチ上の風景が映像として残り、見なくてもパスを出せるのだ、と。

 この“目”の話を聞いてすぐに思いついたのは、小野伸二だった。きっと同じ能力があるはずだと思い質問したことがある。すると「パスコースが見えすぎちゃうのが悩み」と別次元の答えが返ってきた。木村和司元横浜F・マリノス監督にインタビューしたときは、「引退して初めて解説席に座ったとき、『これ、ピッチで見ていた絵といっしょだ』と感じた」というエピソードを教えてもらった。」




「頭の中に写真のようにピッチ上の風景が映像として残り、見なくてもパスを出せるのだ、と。」
「パスコースが見えすぎちゃうのが悩み」
この2点は一つ間違えれば、悲惨な結果を招く




 



~暗譜をはじめ、見事なまでの記憶力はしばしば伝説的であり、元ウィーン・フィルの楽団長をつとめたオットー・シュトラッサーによると、「リハーサルの前夜、楽員名簿をホテルに届けさせて暗記し、翌朝の練習では奏者への呼びかけを名前で行なって、たちまち指揮者とオーケストラとの間に信頼関係を築くことができた」という。また、演奏会当日の朝に持ち込まれた新作の総譜を、「サイズが大きすぎて譜面台に載らない」といって、ページをバラしてホール内の通路上に並べ、歩きながら全部記憶してリハーサルも本番もこなしてしまったという、とても現実の出来事とは思われない逸話の持ち主である。~

( Wikipedia:『ディミトリ・ミトロプーロス』より引用 )




ギリシャ出身の指揮者・ピアニスト・作曲家であるミトロプーロス
ハンガリー出身の指揮者ジョージ・セルからハゲ頭をコツコツ叩かれながら
「この人の頭はね、脳ミソの威力が髪の毛を頭皮からフッ飛ばしちゃったからなの」
と称賛されたくらい、抜群な記憶力に恵まれていました
フランス生まれのドイツ人ピアニストであるヴァルター・ギーゼキング
初等教育は「面倒くさい、私はもう読み書きが出来るのだから学校には行かない」
と言って受けず、幼少時は家で百科事典と楽譜を読み漁る毎日で、楽譜初見力抜群でした




二人とも、頭の中に写真のように楽譜が映像として残り、見なくても指揮を出せ演奏出来たのですよ
しかしながら、それは、楽譜が完全無欠の場合に威力を放つ
一旦覚えてしまったものは後に楽譜そのもののミスが発見されても、 修正が出来ない
頭では「間違いだ」とわかっているとは思うんですけどね




…クライフ御大にしか見えない世界、興味深いと思いませんこと?
PCも携帯もクレジットカードも持っていない、それどころかヴィデオの予約録画も出来ないほどの機械オンチ
見事なアナログ人間の持つ『特殊な目』、どんなんか気になる~
「すべての短所に長所がある」
じゃ、フットボールをすることを忘れてしまったチームの取り柄も見えるのか?
「月並みなやり方をするくらいなら、自分のアイデアと共に心中した方がマシだ」
月並みなやり方も追いつかないチームの場合、将来を憂い、一家ならぬチーム心中?
「美しく敗れることを恥と思うな、無様に勝つことを恥と思え」
これは同感の至りです(つまり、「バイエルン、この間の試合は恥と思え」)