昨日の当所への検索キーワードの中に、『近藤 ミーユンさんの現在』
サンケイ特派員だった近藤紘一氏について、当所と他で結構書いてますからね
(いちいちリンク貼るの面倒、各自で検索どーぞ)
ミーユン(以降、呼称であり日本名でもあるユンで)を時系列で追ってみました…
1974年夏、近藤氏の東京帰任に伴い、13歳でサイゴンを離れた
教育水準の低さ、語学力の無さ、思春期の入り口年齢を考慮すれば、世界に冠たる詰め込み教育の日本の学校は論外
近藤夫妻は娘を外国系に入学させると決め、娘は母国の旧宗主国への憧れかリセ(フレンチスクール)を選択した
4年後の冬、近藤氏はバンコク支局転任となり、サイゴン女房と二人で移住した
娘も慣れた南国でありホイホイ喜んでと思ったら、東京離れたくないとの抵抗運動に遭ったため
ユンの抵抗理由というのが、ようやく確立しつつある自分の世界を失いたくないから
戦火のサイゴンから現代文明の大東京へ放り込まれ、全く異質な土地で、近所に遊び友だちもいない孤独
外国系スクールは親の仕事の都合で人の出入り激しいけれど、友だちいる、毎日学校行くのが楽しみ
バンコクには、正規のリセ無いに加え、また白紙から友だち作りしなければならない苦労が待っている
近藤夫妻は親離れ練習させるかも込めて、ユンの東京で寄宿舎暮らしを認めた
ユンの寄宿舎暮らしはあくまでテスト期間で、次の夏休みまでの半年間というのが、夫婦間での申し合わせで
半年後、留年他いろいろな事情から、ユンは東京を離れバンコクに移った
ユンの転校先は、生徒数不足で閉鎖されていたが秋の新学期から再開される非公式リセの上級クラス
一学年にせいぜい数人の寺子屋方式ながら、むしろジックリ面倒見てもらえ、勉学環境は悪くなかった
が、3年あまりのち、最終学年に進む段階で、厄介な問題が起きた
最終学年となるとフランス人家庭では子女を本国に送り返し、ユンの選択コースにはユン一人だけとなる
数人のユン専任教授に月額5千ドル以上、近藤氏が抱え込まなくてはならない
校長の勧めに従い、この際思い切ってフランスへ送り込もうとなった
まだ20歳そこらの世間知らず小娘が、未知の海外で一人暮らしは無謀
寄宿舎は、私立だと費用が雲の上クラスで庶民には手の届かぬ話、公立は安い代わり風紀が著しく乱れている
下宿先探しもはかばかしくなく困っていた所へ
「寄宿舎は不良の集まりだから絶対に入ってはいけない
ボクの家の近所にとても良いリセがあり、ボクと弟も通っている
家は広く、2階の部屋が空いているからそこに住めばいい
両親も大賛成だ。全然問題は無い。他には住んではいけない。必ずボクの家に来い」
毎夏のヴァカンスをタイの保養地で過ごし、近藤家と懇意のフランス人家族、ルロワ家長男ピエールからの手紙
ピエールはどうやら、3歳姉さんのユンに夢中。それ置いといても
夫婦ともに年齢高くなってから子供に恵まれた?ご亭主より姉さんらしいルロワ夫人、超過保護ママ。それ差し引いても
信頼置ける一家で申し分無く、ユンをルロワ家に止宿させた
ユンは最終学年を無事に終えたものの、大学入学資格取得試験には落ちた
ルロワ夫人によれば、「ミッテラン政府が学生数を減らそうとしたのよ。リセの先生たちもカンカンに怒ってます」
受験生の3分の2が不合格となる、滅茶苦茶厳しい採点がされ、他の年なら確実にユンは合格していた
当のユンは、「メトロ(地下鉄)に飛び込んじゃいたかった」の後、「パパ、来年、もう1回受けさせてくれるかい?」
近藤氏にすれば、娘が大学行かなくても何の問題も無かった
人より遅いフランス教育学習で(年齢より下の学年から始めた)、留年経験2回、最終学年到達だけで奇蹟であり
フランス人でさえ浪人繰り返した挙げ句に断念する多いバカロレア合格なんて、とんだ身の程知らずの高望みだ
実際、バカロレア取得絶無とわかった場合、リセ卒業と同時に職業訓練所入りを申し合わせてある
職業訓練受けさせる意向は、無学で大家族を抱える苦労をした夫人ナウさんの方がとりわけ強い
「結婚しても、離婚するかもしれないし、旦那さんが病気や死ぬかもしれないし」
とはいうものの、ここまでのユンの頑張りを考えたら、来年の成否はともかく、もう1回試させてやっても良かろう
再挑戦を許し、翌年の夏、ユンは23歳間近にして大学生になる資格が許された
この後が大変だった
ユンの合格はルロワ家でも大喜びで、ピエールは「一緒に大学通えるよぉ♪」
ルロワ夫人は保守的な女性だから、学生生活楽しみながら花嫁修業やれば万事OKの、早くも姑気分満喫
大学は登録だけにして、まずは職業訓練をと考える近藤夫妻はどうしたか?
ユン自身は、まァ大学に行きたい気持ちは湧いたものの、両親の意向は汲み
「ちょっと難しいけど、秘書学校、高級秘書を養成する学校に行きたい
ここの資格を取ると、会社でも上の方へ登れ、社長の助手にもなれるんだ
私立だけど、おカネはそう高くない、授業料は年間3千ドルぐらい」
娘の意志がわかったら、後は、まずピエール坊やを説得。彼が納得すれば、その両親を納得させられる
「ユンを働かせたくない」他、ピエールは何だかんだと反論するも
近藤氏と男同士の会話が功を奏したのやら。「わかりました。パパやママンにもよく説明します」
結局、ユンはいままで通りルロワ家に住む形で、秘書学校へ通うことで落ち着き
「女の子が職業なんて…」とのルロワ夫人の嘆きも少なくなっていった
近藤氏は、友人に「オレの一人娘だ」と自慢したユンが一人前になる姿は見られなかった
1986年初頭、45歳で早世
「パパの喪が明けるまでは絶対に結婚ダメ」と頑強に主張した母親に従ったユン
2年間の喪が明けた1988年の夏、正式にルロワ家の一員となった
2000年頃、産経新聞に【日本人の足跡】シリーズが連載され、近藤氏も取り上げられた
全7回の最終回が、『パリで母になった娘』
ユンはコンピューター関係の会社で営業をし、当時7歳の息子の育児にも勤しんでいた
コンピューター関係というのは、ピエールがそっちの技師職だからか?
ともかく、多忙な日々を送りながらもパリ郊外で穏やかな家庭を築いていた
母親ナウさん、父親の遺影と並ぶ写真は、ナウさんの暮らすパリ13区アパートにて
娘の留学中、パリへ出かけた際に衝動買いしたアパートね
超高額なカネを早急に送れと電報打ち、亭主は出張先のハノイで腰抜かしたというアレ
ナウさんにすれば、遠い欧州でも拠点を持て、「ルロワ家で可愛がられて、自分は淋しい…」ゆえの娘監視も出来る
と、別に移住は考えていなかったのが、ニッポン亭主との早い死別による終の棲家へと、何がどこでどう変わるやら?
母娘は口を揃えて、両親による教育の重要さを語っています
「お父さんは優しかったけど、厳しい所もあった。門限を守らなかったりすると、怒りは何日も続いたんですよ」
( * 母親の稚拙なフランス語を指摘した娘を、妻、次に妻の亡母の遺影に土下座させたこともある)
「両親が共に厳しくするのは当然。20歳になって初めて自分で判断出来る
それまでは両親が判断して、正しい道を示さねば…」
両親といっても、ユンはナウさんの連れ子であり、近藤氏から見たら継娘なのですが
ユンの異母兄たち、ユンの実父が前妻のフランス人女性との間にもうけた兄弟から「叔父さん」と慕われた
( * 兄弟は、父親や自分たちを置いて去った母親よりも、ナウさんを「叔母さん」と慕っていた)
数多くの友人から、「他人の傷みを十倍ほどにも感じてしまう、並外れた愛の持ち主」と称賛された
( * 近藤氏自身は、男の身勝手のせいで前妻を失った罪悪感からか、傷みを十分感じてもなお足りないと断言)
広い視野で物事を受け入れられる、厳しさの裏打ち持たない優しさなど欺瞞である、その証明ですかね
自分の意志でもうけたはずの実子なのに、安易に離婚再婚したり、虐待死させたり
現代日本モンスター親とは天国と地獄以上の差ですな
近藤氏がナウさんの前に、彼女の暮らす下町の長屋に居候として現れなければ
ナウさんは恐らく、統一後のベトナムで新たに、一人で大家族抱える苦労から逃れられず
ユンは留学どころか、果たして義務教育を終えられたかどうか
妻子だけでなく、言葉ろくに通じないその親族まで面倒見て慕われた、こんな男前ぶりも生まれ変わっても出来んよね