伊良部秀輝の“遺言”「父親がアメリカ人とは知らなかった」
2011年07月30日11時17分
提供:日刊SPA!
野球界のみならず、伊良部秀輝さんが亡くなったという知らせは、日本中に衝撃が走った。本誌は、伊良部さんが亡くなる約1か月前、彼が静かに暮らすロサンゼルスにて、4時間にわたり現在の心境を聞いた。謂わば“遺言”ともいえる渾身のインタビューを全文掲載する。
この最後となってしまったインタビューは、ジャーナリストの田崎健太氏が行った。
――今でこそ、メジャーリーグで日本人がプレーするのは普通になりました。1997年に伊良部さんが移籍したときは、大騒動になりましたよね。
伊良部 「伊良部問題(※1)」って当時は言われましたけれど、あれは本当に伊良部の問題だったのかって言いたかったですよ。日米の法律の問題で、パドレスとロッテの問題でした。
――ロッテからパドレスへの権利譲渡(※2) はテレビのニュースで知ったとか。
伊良部 そうです。テレビを見ていたら、パドレスの社長とロッテのオーナーが握手をして、パドレスに行くと話していて、驚きました。
――伊良部さんはヤンキースにしか行きたくない。このトレードは無効だと突っぱねた。新聞の見出しに「ワガママ伊良部」なんていうのもありました。
伊良部 ぼくだって、ルール違反して行きたいとは思っていなかったですよ。その前に、球団はヤンキースに行かせる約束をしていた。それは守られなかったんです。ルール(※3) として、1年間浪人すれば、任意引退選手となって、どこの球団とでも交渉できる。そうしたいと思っただけ。新聞記者の方に、重要なことは曲げないで書いてほしいと、こうした資料はお渡ししました。それなのに……これは手に負えんと思いましたよ。そのとき思ったのが、野球ボールはコントロールできるけれど、メディアはコントロールできない(笑)。
◆父親がアメリカ人とは知らなかった
――伊良部さんがそこまでメジャーリーグにこだわるのは、お父さんを捜しにアメリカ(※4) に行くためだという報道もありました。
伊良部 (驚いた表情で)誰がそんなことを言い出したんですか? それは事実ではないです。だって、ぼくはアメリカに行くまで、自分の本当の父親がアメリカ人ということを知らなかったですもの。
――えっ?
伊良部 ヤンキースに入ってから……98年のキャンプのときに、球団から連絡があって、ぼくの父親だと名乗る人間が来たと。びっくりしましたよ、父親だって言うから。
――会ったんですか?
伊良部 はい。それから、母親に確認したんです。そうしたら、そうだって。それまでは父親がアメリカにいるなんて、考えたことがないですよ。でも面白いですね、ぼくがどうしてもアメリカに行きたかった理由が、父親に会いたかったからなんて。
――実のお父さんに会われてどんなふうに思われました?
伊良部 これといった感情はなかった。生みの親より育ての親みたいな。今も年に2回ほどは連絡を取り合ってますけど、それだけです。
※【中編】につづく
※1 伊良部問題
96年のシーズン終了後の11月、伊良部はメジャーリーグへの移籍を求めて、ロッテのオーナーに直訴。当時、一軍登録から10年でFAの権利を取得できたが、伊良部はこの年で9年目だった。12月にロッテは、メジャー移籍を認める代わりに、チーム選択、年俸交渉を一任する覚書にサインするように強要。これを伊良部と代理人の団野村は拒否した
※2 パドレスへの権利譲
97年1月10日、ロッテの重光オーナーは伊良部 を呼び出して、パドレスへのトレードを通告。伊良部は「約束していたヤンキースではない」と拒否した。1月13日、パドレスとロッテの業務提携を発表。その業務提携書の中に、伊良部の権利をすべてパドレスに「譲渡」することが含まれていた
※3 ルール
日米コミッショナーの取り決めで、1年間浪人すると、自由契約選手扱いとなり、どこのメジャーリーグ球団とも契約できることになっていた。メジャーリーグ選手会は、伊良部の主張を支持。旗色が悪くなったロッテとパドレスは、伊良部をヤンキースへと三角トレードして解決した
※4 お父さんを捜しにアメリカ
ロバート・ホワイティングは『日出づる国の「奴隷野球」』の中で、伊良部がスポーツライターに「いつか、アメリカへ渡って有名な選手になりたい、そうすれば実の父親に会えるかもしれない」と明かしたと書いている。また夕刊紙にも同様の報道があった
( 出典先:livedoorスポーツ )
あれ?親父がアメリカ人だって知らなかったんですか?
米国生まれのマイク仲田(幸司)や、親父が日本人であるカビラ兄弟が、少数派かもですが
沖縄返還(1972年)前生まれをどけても、顔立ち見てすぐ「米国系なんやね」とわかりましたぞ
昔々日本を始めアジア各地で生まれた『アメラジアン』の多くが、父親の消息すらつかめない
父親の現生活をブチ壊す気は毛頭持たず、ただ自分の起源を知りたいだけなのに
米軍関係の場合、軍事機密か何かに抵触するらしく、子供が問い合わせても門前払いされ
父親の居所が判明したケースでも、面会すら拒否という非情な結末が多々見られる
「これといった感情はなかった。生みの親より育ての親みたいな
今も年に2回ほどは連絡を取り合ってますけど、それだけです」
それだけといったって、十二分に恵まれてますよ
アメラジアンといえば、こんな話がございます
1970年頃、沖縄女性がアメリカ人男性と結婚して米国移住が決まった
彼が先に単身帰国して新居他を整え、オメデタ中の彼女が時機を見て渡米する段取り
彼の家族からは「早くいらっしゃいね。楽しみに待ってるわよ」と、祝福もされていた
にもかかわらず、彼女は約束の日に渡米せず、シングルマザーとして全うする決意に至った
母子家庭で、娘を手放したくない母親から泣きつかれ振り切れず
顔立ちの違う父親持っては子供が可哀想と、新たなる結婚の可能性を捨てた
30数年後、息子がTVの人探し番組に応募、父親の消息を調べてもらった
自分のためというより、渡米しなかった母親の真意を知って欲しいとの願いから
父親の消息をつかみ、異母弟たちを仲介役として、目的は果たせた
驚くべきは、そのVTRをスタジオで観ていた番組出演者の言葉通り
日本にいる『長男』が、後に米国で生まれた子供たちの誰よりも、父親似であったこと
上段の話の後日談はわかりませんが、連絡取り合いくらい出来ていたら良いですね
父親に会えなくても救済はもたらされた、アジャ・コングでしょうか?
『幼少期』
米軍立川基地に勤務していたアフリカ系アメリカ人の父ヘンリー・マニゴールドと事実婚関係にあった日本人の母との間にハーフとして出生。「江利花」という名前は父親がエリカ属の花から命名した。しかし幼少時に父の突然の本国召還のため離別を余儀なくされ、母子家庭に育ち(母は父との関係から親戚全てから絶縁されていた)、中学卒業まで深刻なイジメに悩み続けていたという。
( Wikipedia:『アジャ・コング』より引用 )
アジャもTV番組の力を借りて、父親の消息探しすることになりました
残念ながら、お父さんはすでに亡くなっていたのですが
お父さんの家で出迎えてくれた異母姉によれば
お父さんの米国での家族は皆、アジャの存在を知らされており
毎年アジャの誕生日には、異国にいる娘(妹)を想って、誕生日パーティーを開いていた
アジャにすれば、娘を放棄した?父親であり、門前払い覚悟で渡米しただけに
娘としての存在価値は認められていたを知ることが出来て、感無量だっと思います
森村誠一の小説とその映画化については各自で検索して下され(書くのメンドクサイ)
親父も、おっ母さんも、子供の存在を否定するような愚を犯せば、地獄落ちの宿命であり
野垂れ死にの末路を受け入れるか、自らの再起捨てるだけの覚悟を持って細々生き永らえるか
この二者択一だけが唯一残された、人間の証明と断言します