ここ2,3年の映画についてはサッパリな浮世離れした当所管理人
で、今日初めて知りましたのが、下の新作ざます
18世紀中頃のヨーロッパ。父レオポルト(マルク・バルベ)の薫陶を受け、3歳から音楽を学んでその才能を開花させた14歳のマリア・アンナ・モーツァルト、通称ナンネル(マリー・フェレ)には、11歳の弟ヴォルフガング(ダヴィッド・モロー)がいた。3年半をかけてヨーロッパを巡る長い演奏旅行のなか、各地の演奏会で“神童”と絶賛されるヴォルフガングをレオポルドは溺愛していた。一方ナンネルには、ヴァイオリンに触れることさえ禁じるのだった。女性は作曲家になれないというのが当時のヨーロッパの常識だったが、ナンネルはヴォルフガングのヴァイオリン演奏で伴奏を務め、聴衆を魅了していた。やがてモーツァルト一家は、ルイ15世が君臨するヴェルサイユ宮での演奏の機会を得る。その滞在中、ナンネルはフランス王太子であるルイ・フェルディナン(クロヴィス・フーワン)と出会い、恋に落ちる。王太子はナンネルの音楽の才能に気づくと、彼女に作曲を勧める。ナンネルは創作の歓びに目覚めていくが、女性が作曲をすることは許されないことだった。
( Movie Walker:『ナンネル・モーツァルト 哀しみの旅路』より引用 )
マリア・アンナ・モーツァルト(Maria Anna Walburga Ignatia Mozart, 1751年7月30日 - 1829年10月29日)は、愛称ナンネルまたはナンネルル(Nannerl、現代ドイツ語の発音は/ˈnanɐl/ナナール) で知られる、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの実姉。父親はレオポルト・モーツァルトで母親はアンナ・マリアである。
7歳のときに父親の手ほどきでクラヴィーア演奏を始める。当初は彼女も神童であるかに思われた。我が子の楽才を世に知らしめんとした父親に同伴されて、ウィーンやパリなどの都市を旅する。幼い頃には演奏旅行で、時に最高の俸給を稼ぎ出したように、傑出したチェンバロ奏者やピアニストとして認められていた。しかしながらついにナンネルの才能は、弟の陰に隠れるようになった。彼女自身も才能ある音楽家であったのだが、しばしば演奏旅行の合間に弟ヴォルフガングの伴奏役に回り、作曲家としても名を揚げることはできなかった。ヴォルフガングは数多くのピアノ曲、とりわけ連弾曲を作曲し、姉と二人で並んで演奏できるようにした。ヴォルフガングは姉ナンネルの才能を尊敬し、彼女ならウィーンで音楽教師として成功することができると確信していたにもかかわらず、彼女の有望な前途は実らなかった。
弟ヴォルフガングがある程度まで父親に反抗したのに対して、ナンネルはひとえに父親の監督を受け続けた。このため、また当時の女性観のために、レオポルトは弟を中心に考え、彼女は結婚するのが相応しいと見なしたのである。彼女は、自ら花婿候補を選んだが、父親に反対されて、父親の選んだ「立派な」相手こと富裕な判事、ヨハン・バプティスト・フランツ・フォン・ベルヒトルト・ツー・ゾネンブルクのもとに嫁いだ。それに加えて、弟の反抗や、コンスタンツェとの結婚は、姉弟の仲を引き裂いたかに思われた。
父親の死後にモーツァルト姉弟は再び接触するようになったが、両者のやり取りは形式的なものとなり、相続問題ばかりを話題にしている。ナンネルの後半生は、愛情を感じていなかった夫と、生き残ったただ一人の我が子(レオポルトの事。彼は55歳まで生きた)、そして彼女が嫌っていた街ザルツブルクでの教育活動を軸として動いていた。この間、1801年に夫と死別し、1820年に失明した。1829年に亡くなった時は78歳の長寿だった。
弟ヴォルフガングの成人した2人の子(つまり、ナンネルにとっては甥)は子を残さなかったが、ナンネルの系統も曾孫の代で途絶える事となった。
( Wikipedia:『マリア・アンナ・モーツァルト』より引用 )
音楽家、映画やドラマの子役、スポーツ選手など
兄弟姉妹の中に1人頭抜けたのがいると、他の連中は貧乏クジ人生を歩まされる
他の連中が才能を持たずとも、親が1人にキリキリするあまり、家族団欒何よそれ的不幸なんかも
何たる不条理、ちょいと神さん殺生やないのさ、不公平極まりな~い
ナンネルの存在は、どっかの島国では知られていなかったようですが(アタクシは既知ですよん)
どんなに才能に恵まれていても、自ら花婿(嫁)候補を選んでも、報われない人生はある
努力すれば何でも叶うと本気で信じているオメデタイ凡人どもに知ってもらいたいものですわ
まぁ天才であればあるほどロクな末路歩まん、これもこの世の真理の一つですがね
天才以上の天才を自称するアタクシも野垂れ死にがオチは置き
…神さんの寵愛に甘え、親父の影にビビり、イタリア人のおっさんから嫌われたオメエのことだよっ