何かが、誰かが待っている ~ ヴィクトール・フランクルの心理学 ~ | 数学を通して優しさや愛を伝える松岡学のブログ

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ラテン語の 「フィニス (finis)」 には、

「終わり」
「目的」

の2つの意味がある。

終わりがない人生は、目的を見失い
だらだらと時間を浪費するかもしれない。

逆に、終わりがあるからこそ、
目的が見出せるということだと思います。

 

 

確かに、

日常生活でも、お仕事の締め切りがないと
のんびりしていて、なかなか行動がおきないけど、

締め切りが決まっていると、
それに合わせて行動するように思います。

 

 

 


オーストリアの精神科医ヴィクトール・フランクルは、
「人生の意味」 を大切にしています。

「目的」 がしっかりしていることで、
意味深い人生を送れると考えるのです。

 


そこで、

自らの人生の意味を見出すためには、
どうすればいいのでしょうか?


自分のやるべきこと、満たすべき意味を見つけるために、
次のように自分自身に問いかけてみてください。


「この人生は、私に何を求めているのか?」
「私のことを本当に必要としているのは誰か。その人は、どこにいるのか?」
「その誰かや何かのために、私にできることには何があるのか?」


このように問いかけることで、
自分自身のやるべきことや満たすべき意味が見えてきます。


よく自己実現を考えるとき、

あなたの本当にしたいことは何か?
あなたの夢は何か?
あなたの希望や願望は?

という問いかけをしますが、

 


フランクル心理学は、この問いかけとは決定的に違います。

 


なぜなら、

「あなたのしたいこと」 ではなく、
「人生が私に求めているもの」 が
意味を満たす目的となるからです。


この人生はあなたに何を求めているのでしょうか?


何があなたのことを必要としているでしょうか?


誰があなたを必要としているでしょうか?


自分自身をしっかり見つめて、
答えを探してみてください。

そうすることで、あなたの人生は
意味で満たされてくるのです。

 

 

 

 

彼は、ニーチェの言葉をよく引用します。

「なぜ生きるかを知っている者は、
 どのように生きることにも耐える」


生きるための 「なぜ」 は目的であり、
「どのように」 は方法です。

 


フランクルはナチスドイツの強制収容所に収容され、
悲惨な経験をしたことがあります。


そのとき、彼は生きる希望を失くした2人の被収容者に出会いました。

ですがこの2人は、フランクルの言葉で、
生きる希望を取り戻すことになります。

なぜかというと、

1人は、父の帰りを待っている愛する息子が外国にいました。

もう1人は、あるテーマの本を書いていましたが、まだ完成していませんでした。
彼はこの仕事にとって余人に代えがたい存在でした。

つまり、「子ども」 や 「本を書く仕事」 が彼らにとって、
人生の意味であり、彼らを待っているのです。

そして、自分を待っている仕事や愛する人に対する責任を
自覚した人は、人生から降りられないのです。

つまり、「なぜ」 生きるのかを知っているので、
ほとんどあらゆる 「どのように」 にも耐えられるのです。

 


 


フランクルは次のように言います。

この人生のどこかに、
あなたを必要とする「何か」があり、
あなたを必要とする「誰か」がいる。

そして、
この「何か」や「誰か」は、
あなたに発見されるのを待っているのです。

私たちは常に、この 「何か」 や 「誰か」 に
必要とされ、待たれている存在なんです。

だから、例え今がどんなに苦しくても、
あなたはすべてを投げ出す必要はない。

あなたがすべてを投げ出しさえしなければ、
いつの日か人生に 「イエス」 と言う
ことのできる日が必ずやって来るから。

いや、例えあなたが人生に 「イエス」 と言えなくても、
人生のほうからあなたに 「イエス」 と言って
光を差し入れてくるときが、いつか必ずやって来るから。

例え、あなたが人生に絶望し、
もう何も期待しなくなってしまったとしても、
人生のほうは、あなたに絶望することはない。

人生は、死のその瞬間まで、
あなたに期待しなくなることなど決してありはしないのだ。

(出典:「生きがい発見の心理学」、諸富祥彦、2002、NHK出版、77-78)