幾松の父(四) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

 

 

元治二年(1865)三月三日、出石に到着した幾松でしたが、久しぶりの桂小五郎との再会に喜ぶどころか非常に不機嫌で、桂が話しかけてもプイとそっぽを向いて答えなかったといいます。

 

 

本当は会いたくて仕方がなかったのにワザとスネてみせたのかも知れませんが、もし佐々木六角源氏太夫が父の木崎市兵衛だったとしたら、「お父ちゃんが体を張って逃がそうとしてくれてたのに、なんで逃げへんかったんや。このお方は臆病者なんか」と、本気で腹を立てていたとも考えられます。

 

 

明治維新後、晴れて夫婦となる二人ですが、ひょっとしたら桂小五郎改め木戸孝允、妻の幾松こと松子には一生頭が上がらなかったかも知れません。一方、父の木崎市兵衛の没年はわかっていませんが、松子の実家の家族は維新後、木戸家の京都別邸の家守り(留守番役)として余生を過ごしたといいます。

 

 

もし木崎市兵衛が維新後も生き延びていたら、そして彼こそが佐々木六角源氏太夫の正体だったとしたら、つまり志士として生きるために小浜の家と資産を処分して上京し、宇多源氏佐々木六角氏の再興を真剣に願って活動していたのだったとしたら、娘夫婦の別荘の留守番役は決して望んだ結果ではなかったでしょう。おそらく佐々木氏にふさわしい地位と名誉を望んだはずです。

 

 

が、宇多源氏佐々木氏の名跡とそれに準ずる爵位は、市兵衛にとってはどこぞの田舎侍でしかなかったであろう土佐の佐々木高行のものとなってしまいました。木戸としては身内に甘いと思われたくなかったのでしょうが、市兵衛、晩年は飲んだくれていたかも知れません。そして松子が訪ねてくるたびに「俺は何のために体張ったんや」などと愚痴られ続けたら、松子が胃を患うのも無理からぬことだったでしょう。

 

 

 

・・・ということでこの話はおしまいですが、何度も繰り返して申し訳ありませんが、これはあくまで史実に基づいた僕の妄想ばなしですので、どうぞ本当のことだ思わないようよろしくお願いします。ただ、そのうち「ホンマにそうやったんかい!」とビックリする日が来ることを(わりと真剣に)願ってたりします。

 

 

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