幾松の父(一) | またしちのブログ

またしちのブログ

幕末史などつれづれに…

今回の話は幾松について調べている間に偶然みつけたある事柄から思いついた僕の推論、いや妄想といった方が良いかも知れないような話です。ただ、ちょっと面白いんじゃないかと思うので、よろしければお付き合い下さい。

 

 

幾松の実父は木崎市兵衛といい、若狭国小浜(現在の福井県小浜市)の出身らしいという話は『幾松と新三本木(二)』で紹介しました。若狭の木崎家は名家であったものの平民の家柄だったということも書きましたが、さかのぼれば元々は武士であり、戦国時代に敗れて平民になった家柄なのです。

 

 

実は若狭の木崎家は宇多源氏(近江源氏)佐々木家の末流にあたり、木崎家の祖・常珍は戦国時代の近江観音寺城主・六角承禎こと佐々木義賢の弟であり、六角氏が織田信長に滅ぼされた後に若狭まで落ち延び土着したと伝えられています。『若越郷土研究 15(2)(81)』(福井県郷土誌懇談会/1970-03) 収録の「木崎家の考察」(赤見貞)

 

江州人常珍は系図が示すように、人皇第五十九代宇多天皇を祖とする宇多源氏の子孫であり、その兄義賢は江州観音寺山城主である。慶長六年(1601)小浜城主になった京極高次家や小浜城主酒井忠隆に召し抱えられた伴信友の曽祖父信利(旧姓立入)なども同族であることが判明した。

 

 

とあります。この宇多源氏佐々木氏については『京都見廻組史録』(菊地明)に以下の説明があります。

 

 

六角佐々木氏は宇多天皇の第九皇子・敦実親王を祖とする宇多源氏の嫡流で、敦実親王から五代目の経方が佐々木源次大夫と称えた。(中略)そして、敦実親王から十代目の佐々木泰綱が京都六角堂に屋敷を構えて「六角」を称していた。

 

 

さて、幕末史に詳しい人ならここらでピンときたかも知れません。実は幕末の京都にこの宇多源氏佐々木氏の末裔を名乗って一勢力を築いていたらしい謎の人物がいます。その名も佐々木六角源氏太夫。

 

 

 

 

 

 

【関連記事】