新選組 下鴨に出動する(前) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

慶応三年(1867)八月十四日、将軍徳川慶喜の側近・原市之進が京都の下宿先である役人宅で暗殺されました。暗殺の実行者は幕臣の鈴木豊次郎と依田雄太郎で、二人は原市之進を討ち取ったあと、老中板倉勝静の邸宅に駆け込もうとしましたが、生首を持ったままであったため驚いた門番に門を閉められ、やむなく門前で切腹しようとしていたところを追いかけて来た原の家来・小原多三郎と宮本新吾に討ち取られました。

 

 

この騒ぎを聞き、板倉邸内でいきなり腹を切った者がありました。それは幕臣で開成所調役の鈴木恒太郎で、暗殺の実行者・鈴木豊次郎の実兄でした。三人は、慶喜公が亡き孝明天皇や水戸烈公(徳川斉昭)の遺志に反し兵庫開港を決断したのは、原市之進が時勢に流され開国派に転じたためだと憤慨し、原を殺害するために江戸から長駆、京都に駆けつけてきたのでした。

 

 

しかし、いざ京都に来てみれば、同志と頼む勤王の志士たちは既に攘夷から倒幕へと運動の方向を転じており、幕臣である鈴木たちには受け入れがたい状況になっていました。進退窮まった三人はやむなく彼らだけで原市之進の暗殺を決行したのです。鈴木豊次郎と依田雄太郎が刺客となり、同時に年長者の鈴木恒太郎が老中板倉勝静にその真意を訴えたあと切腹して罪を詫びるつもりだったようです。

 

 

板倉邸内で切腹した鈴木恒太郎でしたが、死にきれなかったようで、すぐに医者を呼び治療に当たらせると同時に事情聴取がはじまりました。鈴木恒太郎も「言舌相わからず、筆先にて」(『熊本藩士池辺宗右衛門探索書』)聴取に応じ、その中で公家・鷲尾隆聚(わしのお たかつむ)の邸宅内で倒幕挙兵計画が練られていることを告げると共に、その首謀者たちの名前を挙げました。

 

 

恒太郎、面会致し候得共、論違い候て申し談も出来かね候由。右、潜伏の者は容易ならぬ心底の者にて、御油断相成りがたしとの恒太郎申す口より発露いたし候趣き(『京巷説』)

 

 

こうして挙兵計画の首謀者として森啓助(京の町医者)・上田与一左衛門(伯耆国大山在住)・山岡将曹・山岡九郎(鷲尾家家来)・藤井少進(有栖川家家来)の5名が逮捕されることになります。

 

 

このうち、藤井少進(本名・希璞)は御霊馬場(現・京都市上京区上御霊馬場町)に屋敷を構え、眼科医を生業としていました。そのため、倒幕派の志士たちは患者を装って藤井の元を訪ねるのが常だったといいます。

 

 

その藤井少進の家に新選組が踏み込んだのが同年九月の初め頃だったといいます。新選組は藤井を逮捕しますが、その日、たまたま藤井の家を訪ねて来た者がありました。それは阿波徳島藩の南薫風という人物で、同藩家老の稲田家の家臣でした。南は文武修行の名目で脱藩して同志11人と共に上京、下鴨村の西川左衛門なる人物の屋敷に居候していました。新選組はこの南薫風も「不審の義あり」として逮捕し、西本願寺の屯所に連行して行ったのでした。

 

 

※.周辺地図(明治二十五年仮製図を元に作成)