近藤勇狙撃事件(1) | またしちのブログ

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慶応三年(1867)十二月十八日の夜七つ時もしくは七つ過ぎ頃(夕方5時頃か)、二条城での軍議を終えた新選組局長近藤勇は、屯営としていた伏見奉行所に帰陣するべく伏見街道を南に下っていました。

 

 

近藤は馬に乗り、島田魁ら数人の供を従えているだけでした。そこを待ち伏せしていた御陵衛士の阿部十郎、篠原泰之進らに襲撃されてしまいます。狙撃され、銃弾が右肩を貫通する重傷を負いながらも愛馬に鞭打って逃走し、伏見奉行所に駆け込みました。

 

 

事件の詳細は割愛させていただきますが、今回取り上げたいのは「襲われたのはどこか」という点です。

 

 

近藤の側に従えていた新選組の島田魁は「伏見墨染の辺」(『島田魁日記』)とし、同じく新選組の永倉新八も「所は伏見墨染と申す所なり」(『浪士文久報国記事』)と、二人とも伏見の墨染で襲われたとしています。また同じく隊士の池田七三郎も、近藤に同行していた石井清之進と馬丁の久吉が斬られて「墨染付近の百姓に戸板に乗せて担がれて来た」(『新選組聞書』)と語っていて、事件が起きたのは墨染付近であったことを示唆しています。つまり襲われた側の新選組隊士たちの証言では、襲撃を受けたのは墨染付近ということで一致しています。

 

 

その墨染は、京から伏見へと至る伏見街道の、伏見の町の入口にあたる集落で、町の名前の由来となった墨染寺(ぼくせんじ)を中心に、街道に沿って町家が建ち並んでいました。昨日の記事の繰り返しになりますが、時代劇などでは人里離れた森の中の道として描かれることが多い(というか、ほとんど)のですが、決してそうではありませんでした。

 

 

問題は襲った側の御陵衛士の隊士たちの証言で、篠原泰之進は『史談会速記録』の中で「伏見街道御香宮下」であったとし、御陵衛士と親しかった西村兼文の『新選組始末記』では藤森神社のあたりで南北二手に分かれて待ち伏せしたとしています。また阿部十郎は『史談会速記録』の証言ので

 

「我々は間道を通り越しまして伏見の薩州邸へ参りまして、同志の者を連れ、待ち伏せして撃ちますつもりで、伏見の尾州の屋敷がありまして、その脇へ参りますと街道が屈曲して曲がります所へようやく馳せつきますと~」

 

と証言しています。尾張藩邸は伏見の町の中心部にあり、墨染とはだいぶ離れています。また薩摩藩士の財部雄右衛門は「京街道墨染手前、丹波橋辺」(『戊辰之役実録』)と書き残しています。

 

 

ここでいう丹波橋は橋のことではなく、伏見尾張藩邸の北を通っている丹波橋通を意味しているものと思われます。阿部たちは一度伏見の薩摩藩邸に入っていると証言していますが、薩摩藩邸は尾張藩邸の南西に位置していたので、薩摩藩邸側から見ると丹波橋通は、まさに「尾州屋敷の脇」に存在します。

 

 

一方、阿部のいう街道の屈曲ですが、これは墨染にある伏見街道の屈曲部を指しているものと思われます。伏見街道は京方面から墨染に入ると西側に折れ、墨染寺の前を400mほど横断したのち再び南に進み、大石内蔵助が遊び倒した逸話で有名な橦木町(しゅもくちょう)の遊郭前まで続き、そこから先は京町通と名前を変えて更に南下していました。つまり墨染寺の付近がクランクになっていて、阿部のいう「屈曲して曲がる所」という証言と一致します。

 

 

そうした点を踏まえて地図に表してみました。といっても伏見の町の北半分を網羅する地図を、たとえ写しとは言え一から作るのはとても無理なので、時代が一番近くて精密な、近代京都オーバーレイマップの「明治二十五年仮製図」をベースにして関係する部分だけ色付けしました。

 

 

※.周辺図(藤森神社は画面右上端にちょこっと見えてます。入れるの忘れてました・・・)

 

 

(「石碑」とは昨日紹介しました「近藤勇遭難の地」の石碑のことです)

 

 

阿部の証言の本意は「伏見の尾州の屋敷がありまして、その脇の道を参りまして街道が屈曲して曲がります所までようやく馳せつきますと~」だったんじゃないでしょうか。「ようやく」と言っていることからも、尾張藩邸から結構距離があったと推測出来ます。そう考えると財部の記述した「墨染手前、丹波橋辺」とも矛盾しないと思います。無論、財部の方はピンポイントでの狙撃場所を示してはいませんが、近藤はおそらくこの屈曲部以南の街道を馬で走って伏見奉行所に向かったはずであり、騒動が起きたエリアを指すという意味では財部の記録は他の証言と矛盾することはないと思います。

 

 

伏見の薩摩藩邸にいたであろう財部から見れば、騒動が発生したのは「墨染の手前から丹波橋通のあたり」という認識だったのでしょう。一方、篠原の「御香宮社下」という証言ですが、これは藤森神社の記憶違いではないでしょうか。上図を見ればわかるとおり、そもそも当時の伏見街道は御香宮神社の横を通ってすらいないのです。そう考えると西村の記述する御香宮神社の南北に二手に分かれて待ち伏せたという記述とも一致します。