近江屋事件考証 佐々木只三郎(7)佐々木六角党の逮捕(前) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

文久三年(1863)三月、幕府は浪士組の帰東に従わず京都に残った近藤勇らを京都守護職をつとめる会津藩に預けることを決めます。のちの新選組の誕生ですが、実は彼ら関東浪士たちとは別に、在京浪士のうち幕府に協力的な者たちを募り、彼らをも会津藩に預けて幕府のために働いてもらおうとしました。

 

 

『密事会津往復留』という史料にその名簿があるのですが、その在京浪士33名(氏名記入26名と氏名不詳7名)の筆頭に名前が書かれているのが佐々木六角源氏太夫なる人物です。

 

 

ずいぶんと長ったらしい名前ですが、この佐々木六角源氏太夫、宇多源氏(近江源氏)佐々木氏の嫡流を名乗り京都を中心に活動していたようです。佐々木氏は六角堂(烏丸通六角)に屋敷を構えていたことから、のちに六角氏を名乗ったため、佐々木六角氏とも呼ばれるのですが、ネット検索してみたらオークションサイトに安政五年(1858)に書かれたという佐々木六角源氏太夫の書状が出品されていました。それによると

 

洛東知恩院新門東小路西江入

佐々貴六角近江太郎殿

 改名 源氏太夫殿

 

とあり、安政五年までは佐々木六角近江太郎と名乗り、東山の知恩院新門の西側に住んでいたことがわかります。ちなみに東小路は東大路の誤りでしょう。

 

 

※.知恩院新門(画面右)。画面左側の一角が佐々木六角源氏太夫の住まいがあった「知恩院新門東大路西へ入」に該当すると思われる。

 

 

同オークションサイトの説明文によると、この書状は宇多源氏佐々木氏嫡流を名乗る源氏太夫が、佐々木氏の本拠があった近江国(現在の滋賀県)へ転居することになったこと、それに伴い近江太郎から源氏太夫に改名したこと、そして祖先の居城・観音寺城跡地に石碑を建立するので献金を募ることなどを佐々木氏庶流の某家へ宛てて書き送ったもののようです。

 

 

いかにも怪しい人物ですが、この佐々木六角源氏太夫、手下が100人(300人とも)いたといわれ、一定の勢力を持つ存在であったことは事実です。あるいはヤクザの親分だったのではないかと思いましたが、何しろ実態がつかめないのです。

 

 

話を戻しますが、会津藩預かりとなって幕府のために働くはずだった在京浪士たちは、近藤勇たちとは違い、なぜか採用されることはありませんでした。以前ブログに書きましたが、彼らをあつめたのは備州浪士藤本鉄石であったといわれ、鉄石はそれまで友好関係にあった長州や土佐などの勤王派と敵対する危険を犯してまでも会津藩に協力する道を選んだにも関わらず不採用となってしまったのです。この在京浪士たちの中から藤本鉄石と共に天誅組に加わった者が大勢いたのも、ある意味無理からぬことだったのかも知れません。

 

 

が、当の佐々木六角源氏太夫はというと、天誅組に加わったり、あるいは協力したという記録はないようです。そして、そんな佐々木六角源氏太夫の一党が御用金集めを口実に、武装して兵庫(神戸)に出現したのは、長州征伐が中止となり幕府軍が撤収した元治二年(1865)一月のことでした。

 

 

ちなみに、ネットオークションに出品されていた佐々木六角源氏太夫の書状ですが、実はとっくの昔に別のオークションサイトで落札されているようで、それを今でも買えるかのように表示しているみたいです。つまり購入できないのに入金はできるようにしてあるという怪しいサイトみたいなので、もし興味がある方は注意してください。