安政六年(1859)頃、二十七歳前後の年で幕臣佐々木家の養子となった只三郎は、御書院番与力に任じられた一方で、その腕を買われ幕府講武所で剣術教授などの役目に任じられたといわれています。
この佐々木只三郎の講武所教授就任に関しては確実な史料はないようですが、のちに京都見廻組で同役の与頭となる速見又四郎が講武所槍術世話心得役、高久半之助が同じく講武所剣術世話心得役に任じられていたことが史料ではっきりしているので、佐々木も同様に世話心得役、もしくはそれ以上の役目についていたと考えて、ほぼ間違いないだろうと思われます。
そして文久三年(1863)二月、幕府は庄内浪士清河八郎の画策を受け入れ、浪士の一団を組織し、上洛する十四代将軍徳川家茂に先立って京へと送り込むことになりました。浪士組と名づけられたその集団の中には近藤勇や土方歳三、あるいは芹沢鴨ら、のちに浪士組から分離して新選組を結成する人々も含まれていたことは説明するまでもないでしょう。
この浪士組には幕府の役人が同行しましたが、その顔ぶれの中に佐々木只三郎の姿もありました。
上京有志姓名簿
浪士取扱
鵜殿休翁
浪士取締役
山岡鉄太郎
松岡万
浪士取締並出役
速見又四郎
佐々木只三郎
高久安次郎
広瀬六兵衛
浪士調役
山内八郎
中山修助
(帰府の時、取扱に高橋泥舟、取締並出役に永井寅之助、徳永昇、依田哲二郎が追加任命)~『清河八郎』(小山松勝一郎)