近江屋事件考証 佐々木只三郎(1) | またしちのブログ

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近江屋襲撃の指揮をとったとされるのが京都見廻組の与頭・佐々木只三郎です。佐々木只三郎は天保四年(1833)に会津藩士佐々木源八の三男として生まれました。名は唯三郎とも書き、また諱ははじめ泰昌を名乗りましたが、安政六年(1859)二十七歳の頃に幕臣で同姓の佐々木弥太夫(矢太夫とも)の養子に入ると諱を高城と改めています。実兄に会津藩公用人の手代木直右衛門(勝任)がいます。また養子先の佐々木家は親戚だったとも、縁戚関係はなかったともいわれていてハッキリしません。

 

 

青年時代までを会津で過ごした只三郎でしたが、会津藩では藩校・日新館を中心とした教育制度が整備されており、只三郎は少年時代から文武に才を発揮したようです。特に剣術は「会津五流」のひとつ、神道精武流の奥義を極めました。神道精武流は会津藩士小笠原城之助(長政)を開祖とする流派ですが、この小笠原長政、下総海上郡の医家小笠原友益の子で、一時は水戸の芹沢内記なる人物の養子となっていたそうです(『武芸流派辞典』綿谷雪/山田忠史)。その後、実家に戻り剣術修業に励み、飯篠直可に天真正伝神道流を学び、のちに分派して神道精武流を開いたといいます。

 

 

そして只三郎の師匠となった人物に関して、『坂本龍馬関係文書』に以下の記述があります。

 

 

唯三郎は名を高城といい、もと会津藩士にして本姓は佐々木氏。手代木直右衛門(勝任)の実弟なるが、つとに撃剣を藩の師範羽嶋源太に学び精武流の奥義を極め、また沖津庄之助に従いて槍術をよくせり。

 

 

この羽嶋源太は会津藩の『戊辰殉難名簿』(山川健次郎)

 

 

玄士伊与田隊

九月十七日堰自刃

弥平親 羽島源太 六四

 

 

とあり、明治元年(1868)九月十七日に六十四歳で戦死(自刃)したことがわかります。「堰」とは一ノ堰の戦いを指しているものと思われます。一方、槍の師匠・沖津庄之助に関して、会津藩では槍術は大内流・宝蔵院流・一旨流高田派の三流があったようですが、沖津が何流だったかは残念ながら判明していません。ただ、沖津庄之助は京都守護職となった藩主松平容保に従って上京しており、文久三年(1863)三月に朝廷が捕らえた浪士の釈放を命じると柴太一郎らと共に伝奏野宮定功の元に乗り込んで抗議したことがわかっています。また戊辰戦争では会津藩の飛び地があった越後国八木沢の戦いに参加し、敗れて一時捕虜となりますが、のちに脱走に成功しています。