西岡是心流のはなし(4)他流の剣客たち | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

西岡是心流剣術は、江戸時代初期の尾張藩家老・石川(いしこ)讃岐守の家来だったと思われる「いかり半兵衛」改め西岡是心によって創始された線導流を元に、尾張藩士・大野伝四郎の子孫に伝わったと考えられます(近松茂矩『昔咄』参照)

 

 

また、『武芸流派辞典』(綿谷雪/山田忠史)に「吉田武八郎の是心流も同系か」とあり、幕末には大野応之助のほかに吉田嘉平太・吉田三九郎といった吉田姓の人物が弟子に免状を与えていたということからも、大野家と吉田家は西岡是心流を代々守り継いできた、密接な関係のある家柄であったろうと察せられます。ちなみに両家とも所司代与力家として複数の家系があり、たとえば『所司代日記』安政四年十二月六日の記述に「組与力同心初而(はじめて)目通」として大野応之助、大野市右衛門、吉田弥一の名があり、その前後の記述にも吉田萬蔵、吉田次郎といった吉田姓の人物が出て来ます。

 

 

そして、幕末の西岡是心流道場に関して興味深い記述があります。たとえば筑前柳河の大石神影流の剣客・今田範之助の手記に、嘉永元年(1848)に武者修行の途中「京に到り、所司代与力吉田兵三郎、大野応之助両氏の依頼にて、その道場を引き立つること数十日」とあります。ここでいう「引き立つる」とは、師範代として門弟の稽古にあたったということだと思われます。

 

 

また、徳島藩稲田家の家来で倒幕派であった尾方長栄の伝記にも、慶応元年(1865)に南薫風・工藤剛太郎ら十二人の同志と上洛しましたが、その際に

 

同宿の士と共に剣法を大野応之助、戸田栄之助(※.直心影流)の道場に練る。しかもおう弱なる都人士の弊は、両道場にも子弟少なく、ただ大野師範の壮年にして技術に秀づると、戸田の門弟に両刀を使うものあるの他は熟練の士、ほとんど稀なり。

 

ゆえに翁(※.尾方のこと)の一列十二人の到る、優にその一角を占め、技もまた他に遜色なし。以て両師範とも常に我を歓待す。ついに子弟の一半を割いて翁等の教練の下に属して、これが代師範たらしむ。

 

 

大野応之助と戸田栄之助の道場に入門したが、おう弱(ひ弱なこと)な都の武士たちは道場に通わないため門弟は少なく、ただ大野応之助の壮年にして技術に秀いでていたことと、戸田道場に一人、二刀流の者がいた他は、腕の立ちそうな者は稀だった。なので尾方ら稲田藩士たちはすぐに門弟の一角を占め、大野・戸田の両師範から歓迎された。ついには門弟の一部を任されて、代師範としてその指導にあたることになったというのです。

 

 

もっとも、こちらの話の方は少し事実誤認があって、もともと大野の門弟の大部分が在京役人で占められていたため、文久二年(1862)に二条城内に稽古場が出来たことで、渡辺篤、桂早之助ら有力な門弟はこぞってそちらに移ってしまったものと思われ、当時の大野応之助の道場は閑古鳥が鳴いている状況だったのだと思われます。

 

 

いずれにしろ、他流派の剣客であっても腕の立つものは師範代として門弟の指導にあたらせるという、自家流にこだわらない、かなり柔軟な道場運営をしていた様子がうかがわれます。今で言えば、客員講師を積極的に招聘する進学塾みたいなものでしょうか。

 

 

そしてそうなると、やはり ”あの人” のあの逸話がどうしても引っかかってくるのです。

 

 

(はじめ)は意見の相違から江戸小石川関口の地で旗本の士を斬殺し、そのために父祐助の親しくしていた京の吉田某という剣術場主の許に、父の添え状をもって逃れて潜伏した。

 

天性の剣の腕前は、たちまち同道場で頭角を現し、彼は師範代として門人に稽古をつけた。その頃、十八・九歳ぐらいであった。やがて新選組(壬生浪士隊)の募集があり、京都で応募したのである。 (『新選組・斎藤一の謎』赤間倭子)

 

 

いくら天性の剣の腕とはいえ、わずか十八か十九歳の江戸からやって来て間もない若者に、いきなり師範代を任せるだろうかと疑問に思っていたのですが、こうした当時の西岡是心流の実情を考えると有り得ない話とは言えないように思います。あるいは斎藤一の父祐助その人も、かつて何らかの形で西岡是心流に関わっていたのではないでしょうか。

 

 

斎藤一が通ったという「京都の吉田道場」に関しては、以前に戸田栄之助の門人で水口藩剣術指南役吉田兵馬の可能性を指摘したことがありますが、むしろ京都・西岡是心流の吉田道場の方が可能性は高いのではないかと思えてきました。

 

 

※.斎藤一