西岡是心流のはなし(2)大野応之助の屋敷 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

桂早之助や渡辺篤の剣術の師匠であった西岡是心流・大野応之助は、京都所司代の与力でした。その所司代の与力・同心の住居は新屋敷と呼ばれ、東は千本通から西は七本松通までの約270m、北は椹木町(さわらぎちょう)通から南は二条通(現在は旧二条通)までの約330mの約二万一千坪(約6万4000平方メートル)の区画であったと『幕末維新京都史跡事典』(石田孝喜)にあります。

 

 

他の組屋敷と違い、周りを囲われておらず、与力50家の屋敷は中央にあったと同書にはあるのですが、二条城番組出身で京都見廻組の中川重麗は自ら主宰する雑誌『懸葵』(第六巻八号)に弓術(日置流竹林派)の師であった所司代与力・石崎八郎に関する思い出話を寄稿しており、その中で以下のように述べています。

 

 

今、二条の停車場前の大路を少し北へ行くと、出世稲荷というのが東側にある。千本二条というのがそのツイ向こうの辻であるが、所司代組の屋敷、すなわち新屋敷と言いなしていたのは、北の辻から北へ千本通に沿い、西へ二条通に沿うて、およそ一町四方、いや、もう少し広かったように思うが、屋敷の中では一番大きな屋敷で、与力が五十人、同心が百人というのであった。

 

(中略)

 

先生の宅は、この屋敷の南の門に入ったところの東側の初めての家であった。それで高塀を隔てて二条通に接しておったので、自銅駝坊到太秦という花時分には、先生のところの稽古場から南を瞰下して菜の花の果てしなく咲き満ちたる朱雀野が見えたのである。

 

(中略)

 

自分が先生の宅へ行き、また撃剣には同じ与力町の西町とも言うべき、東から二筋目に大野応之助という先生の稽古場があり、槍術の師範家竹内要之進といった先生の宅も、同じ西町にあったので、常にこの辺を往来したのである。

 

 

※.所司代与力・同心たちの住居があった新屋敷(赤枠)

 

 

つまり、『幕末維新京都史跡事典』の記述とは異なり、所司代与力で、それぞれ武術師範でもあった石崎八郎、大野応之助、竹内要之進の屋敷は新屋敷南端の二条通に沿うようにして建っていたことになります。無論、中川のように外部からの出入りが多い彼ら師範の屋敷だけが南端に集められて、中川のいう「与力町」を形成していたのかも知れず、同書が間違っているとまでは言えないと思います。

 

 

そして新屋敷の南の門を入って東側の最初の家が石崎八郎の屋敷であり、大野応之助の屋敷は「西町とも言うべき」西側の区画の、南門を入って東から二筋目にあったということになります。これを特定するためにはまず南門がどこにあったかを考えなければなりませんが、千本通から七本松通の区画のちょうど真ん中に六軒町通があり、周辺の通りと較べて道幅が大きいことからも、南門はこの六軒町通にあったと考えるのが妥当と思われます。

 

 

その六軒町通から西へ二筋目は、その名も西町通という細い通りで、おそらくそこに大野応之助の屋敷と西岡是心流の道場・有心館があったと思われます。

 

 

※.大野応之助屋敷(有心館)跡と推定される付近(写真右側)

 

 

中川の記述どおりだとすれば、上の写真右側手前の歩道の枠がそのまま大野の屋敷の幅ということになりそうですが、剣術道場があったとするにはいささか狭すぎるような気がします。実際に現地に立って見た感じでは『必殺仕事人』の中村主水の家ぐらいの幅という印象でした。

 

 

ただ、京都の道といえば、それこそ平安時代から続いているわけですが、実はこのあたりは明治維新後の鉄道建設のために一度畑地になっており、江戸時代の区画そのままではない可能性もあります。が、いずれにせよこの付近であることはほぼ間違いないだろうと思っています。

 

 

実は大野応之助と同時代に吉田嘉平太や吉田三九郎も西岡是心流の道場を開いて弟子を指導しており、ひょっとしたら大野の屋敷だけでは狭すぎるので弟子を分散させていたのかな、と思ったりしますが、実際のところはどうだったのでしょう。