近江屋事件考証 桂早之助(2) | またしちのブログ

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桂早之助の名前ですが、今井信郎の供述書(刑部省・兵部省)では「桂隼之助」と「隼」の漢字が使用されています。が、本人の由緒書を元にした『桂早之助略伝』(川田瑞穂)など、本人や親族が関わっている史料や心眼寺の墓などは、すべて「早之助」と表記されており、「早之助」が正しいと思われます。

 

 

早之助は幼少より武芸を好み、剣術は所司代与力・大野応之助のもとで西岡是心流を学びました。一方、『龍馬暗殺の謎:諸説を徹底検証』(木村幸比古)では

 

 

桂早之助は安政四年(1857)、十七歳のとき、京都所司代与力の吉田嘉兵衛該等(当)より是心流兵法九ヶ条目録、同兵法目録の允可を受け、各一巻を授けられている。

 

としています。また、早之助に目録を授けた吉田嘉兵衛は、翌安政五年(1858)九月に家督を息子の次郎に譲って隠居し、早之助はさらなる奥義を極めるために大野応之助の門を叩いたとしています。大野応之助門下でもめきめきと頭角をあらわし、安藤伍一郎、富田純蔵、渡辺篤と並んで四天王と称されたという話は以前したとおりです。

 

 

嘉永四年(1851)に所司代同心になったとされますが、天保六年生まれとすれば十七歳、同十二年生まれだとすれば、わずか十一歳で同心になったことになります。比較対象として、同じ京都の役人の平塚清影(東町奉行所与力)は十三歳で与力見習、また渡辺篤(二条城番組)の場合は十五歳で与力見習、中川重麗(二条城番組)は十一歳で与力見習となっており、同様に見習だったとしたら十一歳でもあり得そうです。特に早之助の場合は父清助との年齢差が大きかったことから、早めの出仕は十分あり得る話だと思います。

 

 

嘉永七年(1854)には御所で火災が発生、190町、24の寺社、そして民家5000軒を焼く大火災となりましたが、早之助は御所の警備と被災地域の見廻り御用をつとめ、その褒賞として、朝廷より白銀五枚を賜りました。

 

 

更に文久元年(1861)の和宮親子内親王の東下に先立って御用意所に勤番、同三年(1863)の八月十八日の政変では御所の御門警備にあたり、再び朝廷から白銀三枚を賜っています。

 

 

そして元治元年(1864)、将軍家茂上洛に際し、二条城にて剣術上覧試合が催され早之助もこれに参加、褒美として白銀五枚を賜ります。そして六月五日に発生した池田屋事件の際には早之助も出動します。ただし『龍馬を斬った男 見廻組・桂早之助の履歴』(木村幸比古)に「所司代の者たちと池田屋に駆けつけ、新選組と共に密会中の不逞浪士多数を捕縛し~」とあるのは、さすがに眉に唾をつけねばならないでしょう。ちなみに『風説集』によると所司代の手により浪士四人が生け捕られたとあります。早之助自身はこの時の褒美として金五両を賜っています。

 

 

そして翌七月に勃発した禁門の変に際しては御所防衛のために出動。所司代組は宜秋門(ぎしゅうもん)の防御にあたりましたが、長州勢は蛤御門を突破して宜秋門から内裏へ侵入しようと目論んでいたため、所司代組はいわば「最後の要」であり、蛤御門を守る会津・桑名両藩の後詰め役であったといえます。

 

 

※.宜秋門(公家が内裏に出入りする為の門であることから公家門とも呼ばれた)

 

 

※.蛤御門付近から宜秋門(画面中央)を見る

 

結局、会津・桑名・薩摩などの奮戦により長州勢は撃退され、所司代組はほとんど戦わずに済んだようですが、早之助はこの時も金七百疋を褒賞として得ています。そして同年九月には二条城内に文武場が創設され、早之助は渡辺篤らと共に剣術世話心得役に任命されます。

 

 

そして慶応三年(1867)二月三日付で京都見廻組に転属となります。この時に同じ所司代同心の中から世良吉五郎が早之助同様剣術の腕をもって、山内巖雄と饗庭隆太郎は学問の才をもって抜擢され見廻組に加わりました。また、木村幸比古先生の著述では同年七月に肝煎に昇進したとされていますが、『略伝』の方では十二月、つまり近江屋事件の跡に肝煎に昇進したことになっており、個人的にはこちらの方が合点がいくように思います。

 

 

また早之助の愛刀は越前兼則で二尺一寸六分と、かなり短めの刀でした。『略伝』の著者川田瑞穂も「予は桂早之助の娘婿利器の宅にて右(※.近江屋事件のこと)に使用し刀を見せて貰いたり。二尺に足るか足らぬ脇差程度のものであった」と『土佐史談 第69号』に書き残しています。また脇差は越後守包貞一尺三寸九分ですが、霊山歴史資料館のよるとこれは偽銘とのことです。以前は宇多国房ということになっていたと思いますが、本当のところはどうなのでしょう。

 

 

それと、以前は川田の談話のとおり、近江屋事件で使用したのは「脇差程度」の短い大刀、つまり越前兼則だったということになっていたと思うのですが、いつの間にか脇差の包貞で龍馬を斬ったことになっているような・・・。

 

 

ちなみに兼則には近江屋事件後の慶応三年十二月、市中見廻りの際に押小路通小川町付近で薩摩藩士と斬り合いになった時についたとされる傷がそのまま残っているそうです。

 

 

※.桂早之助の愛刀・越前兼則(画像はお借りしました)

 

 

※.慶応三年十二月某日、市中見廻り中の桂早之助が薩摩藩士と斬り合った押小路通小川町付近。道の先に見える白い建物は二条城東南隅櫓。