近江屋事件考証 桂早之助(1) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

京都見廻組・桂早之助は京都所司代同心桂清助の長男として生まれました。生年については主に二説あり、『桂早之助略伝』(川田瑞穂/大正六年)では生年を明記していないものの、嘉永四年(1851)に十七歳で同心になったとし、慶応四年(1868)鳥羽伏見の戦いで戦死した際に「享年三十四」としていることから逆算して天保六年(1835)生まれということになります。

 

 

一方、『霊山歴史館紀要(8)』収録の「龍馬を斬った男 見廻組・桂早之助の履歴」(木村幸比古/1995)では天保十二年(1841)四月生まれとしています。同書によれば「昨年、龍馬暗殺を裏付ける新資料が見廻組の子孫にあたる桂家から発見され」、それは早之助自筆の「見廻組桂早之助由緒書並に親類書」一巻で慶応三年(1867)六月に執筆されたものというのですが、実は川田瑞穂の『桂早之助略伝』も冒頭に

 

 

桂早之助が慶応三年二月、京都見廻組へ提出したる自筆の由緒書控、並びに日誌、早之助の養嗣子利器の談話、鳥羽伏見戦争に参加したる富田長氏(旧名重吉。現陸軍予備少将)の実見談等を総合して作るところなり。

 

 

として、同じく早之助自筆の由緒書を元にしていることを示しています。つまり同じ史料を参照している可能性が大きいのですが、なのになぜ生年が異なっているのかは不明というしかありません。ちなみに他の史料をみると、『戊辰東軍戦死者霊名簿』では享年が二十八歳となっており天保十二年説を裏付けていますが、一方『渋沢栄一伝記資料 第28巻』収録の「戊辰東軍戦死者追悼碑」では「同(見廻組)佐々木只三郎附属 見廻組伍長 桂早之助(三十)」となっており、享年は三十歳とされていて、この場合は天保十年(1839)生まれということになります。

 

 

桂家はもともと丹波国桑田郡穴太(現在の京都府亀岡市曽我部町)の郷士でしたが、早之助の曽祖父にあたる和左衛門(もしくは吉左衛門)利広が葛野郡(かどのぐん)桂村の株(役人株のことか)を得て桂を名乗るようになったといいます。姓は菅原。以後、代々京都所司代の同心を勤めました。早之助は所司代同心桂家の四代目となり、諱は利義と名乗りました。

 

 

『桂早之助と京都見廻組』(赤田照成)などを参照したところ、和左衛門(吉左衛門)利広の子が東平利勝、その子に利政と利重がいて、利重の方が通称を清助といい早之助の父親になります。その父・清助は元治元年(1864)に家督を早之助に譲って六十一歳で隠居しているので、逆算すると享和四年/文化元年(1804)生まれということになります。

 

 

早之助を天保十二年生まれとすると、四十手前でやっと授かった跡取り息子ということになります。一方、母は「志う」といい、御所に勤める負他直記の娘(『桂早之助略伝』)ですが、上記「龍馬を斬った男」(木村幸比古)の方では「負他」ではなく「屓地直記」となっています。どちらにしろ相当な珍姓ですが、「負他」は荷駄役などの意味があるので、ひょっとしたら姓氏ではないのかも知れません。

 

 

母の志うは胸の病で若くして亡くなり、清助は後妻として近江国高島郡沢村(現・滋賀県高島市マキノ町)の郷士岡本左伝次の四女クメを迎えます。また早之助には一つ違いの姉「あい」がいて、のちに二条城城中破損方・青木新左衛門に嫁いでいるのですが、どうやらこの青木新左衛門なる人物が渡辺篤の砲術の師匠・青木左源太(政方)その人らしい。あるいは左源太の父親が新左衛門かと思ったのですが、『桂早之助略伝』に「姉婿青木政方」が墓を建てたとの記述があるのを見落としていました。つまり大阪・心眼寺に早之助の墓を建てた青木政方は、早之助の姉のお婿さんだったということになります。

 

 

あるいは早之助が荻野流砲術道場に通うのが縁となって姉と師匠とが結ばれたのでしょうか。鉄砲の師匠だけに射止めるのは早かったかも知れません。

 

 

冗談はさておき、鳥羽伏見の戦いで早之助が戦死すると、父の清助は老体に鞭打って再び出仕し、明治二年(1869)に京都府警固方を勤め、同四年(1871)には警固方伍長に昇進しています。七十近くになって、部下を引き連れて市中警邏の任務にあたっていたことになります。ちなみに同年に同じく警固方伍長となった中川登代蔵(重麗)は、まだ二十一歳でした。

 

 

が、そうなると疑問になってくるのが、その二年後の明治六年(1873)心眼寺に早之助の墓を建てたのが、なぜ父の清助ではなく姉婿の青木政方だったのかという点です。それについては謎というしかありませんが、明治六年まで清助が存命だったという前提で、あくまで一般論として考えれば、父は父で生まれ故郷の京都にあったはずの菩提寺に、早之助の墓を建てたのではないかと思われます。ただ、現在ご子孫が健在であるにも関わらず墓に関する記録がないということは、京都の墓はいつしか失われてしまったということになってしまうのでしょうか。無論、あくまで推測の話ではありますが。

 

 

また、早之助の跡は娘婿の利器が継ぎましたが、肝心の早之助の妻と娘に関して書かれた史料がないのは残念なところです。

 

 

(青木新左衛門のところの?は不要でした)

 

 

※.大阪・心眼寺の桂早之助(右)と渡辺吉三郎(左)の墓。