近江屋事件考証 渡辺篤(1) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

京都見廻組の渡辺篤は激動の幕末維新を生き抜き、天寿を全うした人物です。そのため晩年に自らの経歴を書き残したり、あるいは近しい人たちに語り残しており、生まれてから死亡するまでの生涯がほぼわかっている人物でもあります。

 

 

渡辺篤は、天保十四年(1843)十二月十八日に二条城南城番組与力・渡辺時之進(諱は均)とその妻・滝の長男として生まれました。ただし維新後、戸籍を登録する際に何らかの手違いがあったらしく、戸籍上は弘化元年(1844)一月十八日生まれとなっています。

 

 

三人兄弟で弟は菊吉(のち安平)、妹は「いと」といいました。通称ははじめ一郎、諱を子信と名乗りましたが「子信」の読みは定かでありません。人名としての「子」は案外多くの読み方があり、「さだ」「さね」「つぐ」「とし」「しげ」「たね」「ちか」「やす」などと読めるようです。また自著の『渡辺篤 摘書』には「二十六才の節(※.慶応四年/明治元年のこと)に勤務上差し支えあるによって鱗三郎と改む」としていますが、実際は慶応三年に「渡辺鱗三郎」と書かれた史料があり、おそらく本人の記憶違いであろうという話は以前紹介したとおりです。つまり近江屋事件当時は「渡辺鱗三郎」と名乗っていたことになります。

 

 

ご子孫には大男だったと伝わっていた(※1)ようですが、実際は五尺二寸足らず(157~8cmぐらいか)で、当時としてもやや小柄であったことが『渡辺篤 摘書』や、古くからの知人である中川重麗の談話などに記されています。一方、壮年期の体重は二十貫(約75kg)あったそうで、大きかったのは横幅の方らしい・・・。

 

 

ただし現存する写真を見ると、そこまでありそうな雰囲気ではないように思うのですが、明治期に渡辺篤に剣術の指導を受けた山本二郎は、『伝記 1(3)』(伝記学会/昭和9年)の中で渡辺の体格を

 

 

元来短躯の方で五尺くらいの感じだった。太った体で、前はきれいに禿げ、艶のあるいい顔色で、先代小さん(※.三代目柳家小さんのことと思われる)の様に愛嬌のある顔つきだった

 

 

としているので、実際ちょっと太めだったのは間違いなさそうです。ネットで検索出来る壮年期の写真を見ても「前はきれいに禿げ、艶のある顔色」だった点は合致していますね。「金太郎体型」とでも言うべきでしょうか。

 

 

十三歳の時、父に命じられて剣術の修業をはじめます。当初は同じ二条城番組与力の野條作左衛門に円明流(※2)を習いましたが長続きしなかったようで、まもなく所司代与力の大野応之助に西岡是心流を学び、十八歳にして免許皆伝を授かります。大野応之助の道場有心館には京都の役人だけでなく、全国各地から剣の道を志す若者たちが修業に訪れましたが、渡辺は安藤伍一郎・富田純蔵(所司代与力)、桂早之助(所司代同心)と並び有心館の四天王と称されました。

 

 

また、『渡辺篤 摘書』によれば、他に馬術は大坪流上田鉄之助に、槍術は無辺流竹内盛之進に、弓術は日置(へき)流竹林派で二条城南城番組・組頭の小林清左衛門に、柔術は西村激之助(流派不明)に習ったとされ、更に砲術(鉄砲)は荻野流の清水左源太に習ったとしています。

 

 

が、どうやらこの「清水」は誤記で、実際は青木左源太(諱は政方。二条城番組同心から京都見廻組)だったようです。ちなみにこの青木左源太は大阪・心眼寺に桂早之助の墓を建立した人物でもあり、おそらく桂も青木の門弟だったものと思われます。

 

 

また、学問に関しては儒学者で学習院教授の岩垣六蔵(号は月洲)を生涯の師としました。

 

 

 

 

余談ながら『渡辺篤 摘書』によれば、新選組のいわゆる「不動堂屯所」は、「(壬生から)稲荷旅所近辺に相転じ候」、つまり伏見稲荷大社御旅所(京都市南区西九条池ノ内町)の近くにあったとしています。

 

 

 

 

※1.京都新聞(昭和53年6月29日付)掲載の孫の談話。五歳の時まで篤は生きていて、実際に会って大男と感じたという。

 

※2.円明流…宮本武蔵を開祖とする流派で、円明流と武蔵円明流の二派が存在する。渡辺篤が習っていたのがどちらかは不明。また『大日本剣道史』(堀正平/昭和9年)によれば円明流への入門は十二歳の時となっている。

 

 

 

※.晩年の渡辺篤