近江屋考(2) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

はじめに訂正させていただきます。前回、石碑が隣に立っている理由のもう一つの説として、井口家から店を借りた借り主が石碑を建てるのを拒否したと書きましたが、借り主ではなく井口家から店を購入した人物だったようです。訂正させていただきます。申し訳ありません。

 

 

さて、その近江屋は二代目新助が主となって塩屋町に店を構えてから醤油商になったと思われます。醤油屋といっても自家醸造していたわけではなく、醸造元から仕入れて販売する小売店でした。また販売する方も、店頭販売も行っていたかも知れませんが、場所柄を考えると、木屋町や先斗町の料亭やお茶屋に注文を取りに行き、注文を受けた分を店に配達する受注販売が主な商売だったのではないでしょうか。

 

 

とすると、たとえば月一回などのまとまった取り引きが営業の主体となるわけで、それもほとんどが毎月注文を受ける「お得意さん」だったでしょうから、繁忙期以外は店に抱える在庫を最小限に留めることが出来たはずです。だからこそ、裏の土蔵や、通常は物置として使われる表二階を貸部屋として提供することが出来たのでしょう。

 

 

その近江屋ですが、二階に関しては菊屋峰吉の証言を元にした図面(『坂本龍馬関係文書』)が残っており、河原町通に面する表から八畳、六畳、そして四寸から五寸(約12cmから15cm)ほど高い六畳、そしてその奥に坂本・中岡が斬られた八畳の間があり、その外側に物干しがあったことがわかっています。

 

 

一方、一階に関してはサンデー毎日(昭和三年十二月九日・二十七日号 ~『鴨の流れ』第14号参照)に以下の記述があります。

 

井口新助の宅は、棟の低い二階建てで、広い台所があり北側の端に狭い庭があった。そこから段梯子が西向きにかかっており、上がってすぐが表二階、中二階に続いて奥の間は一弾高く(約七、八寸)、裏に土蔵が二つ並び、その裏には墓地があった。

 

 

「棟の低い二階建て」はいわゆる厨子二階(つしにかい)のことで、表向きはおそらく窓のない「むしこ」と呼ばれた土塗り格子だったと思われます。「広い台所」は良いとして、「北側の端に狭い庭があった」というのは少し驚きました。というのも近江屋は東向きに立っているので、北の端は店頭になり、店頭をわざわざ狭くして庭を作ったことになるからです。

 

 

裏庭の間違いではと思いましたが、『京都人が知らない京町家の世界』(大場修/淡交社)を読んでみると、実は玄関脇に小さな庭をもうけるのは京町家によく見られることなんだそうで、店の場合は「店庭」、民家の場合は「玄関庭」と呼ばれているそうです。また上記のとおり近江屋の二階は四部屋ありますが、同書によれば店舗で四部屋の場合、表から「店の間」「次の間(玄関)」「台所(ダイドコ)」「奥の間(座敷)」と続くのが典型的なパターンのようで、おそらく近江屋もそうだったのではないかと思われます。

 

 

その一方で「裏に土蔵が二つ並び」というのは、細長く、決して広いとは言えない敷地面積を考えると疑問があります。あるいは二階建ての土蔵だったのが誤って「土蔵が二つ」と伝わってしまったのか、もしくは「蔵が二つ建つほど儲かっている」という比喩表現が、口伝てで広まるうちに事実であるかのように伝わってしまったのではないでしょうか。

 

 

また、井口家にとっては生活の場であったので、土間や風呂、厠(トイレ)は当然あったでしょう。それらを考慮して図を作ってみました。

 

 

 

 

 

 

他に屋根は、やはり京町家に見られる丸みを帯びた形状のものだったという逸話が残っているようです。ということで、表の外観はおそらくこういう感じだったのではないかと思われます。

 

 

 

 

 

一方、裏側に関しては『維新史蹟図説 京都の巻』(維新史蹟会/大正十三年)に大正年間に撮影されたものであろう写真が掲載されています。道路拡張前に撮影された写真であり、また、凄惨な事件が起こったので内装は一新された可能性がありますが、外観に関しては事件当時からそうそう変わってないのではないかと思われます。

 

 

※.近江屋裏側 (『維新史蹟図説 京都の巻』より)。(著作権保護期間満了)

 

 

二階の見えている部分は物干し場と思われますが、洗濯物を干す場所なわけですから、普通に人が立って活動出来るだけの高さはあったことになります。・・・斬り合うのに十分な高さがあったかどうかは、また別の話ですが。いずれにしろ、建物全体を見れば屋根の高さは前後非対称であったと考えられます。

 

 

また、画面右下の部分を見ると手前(つまり土蔵)の方に続いている屋根瓦があり、ここが渡り廊下だったと思われます。おそらくこの写真は土蔵の二階からか、もしくは屋根に上って撮影されたのでしょう。中岡慎太郎はこの屋根に出て左(北)隣の井筒屋の屋根まで移動して気を失っていたところを、事件後に帰ってきた峰吉らに発見されたのです。