橋本宿跡 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

先日、京阪電車に乗って橋本(京都府八幡市橋本)に行って来ました。江戸時代、橋本は木津川・宇治川・桂川の3つの川が合流して淀川となる京摂間の舟運の重要な中継地点として栄えました。当時は橋本宿と呼ばれていましたが、宿場町というより遊郭街だったようで、現在も町並みにその名残りを留めています。

 

 

 

 

 

民家とも商家とも違う、外見に趣向を凝らした独特の和風建築は六条新地のそれに似てモダンな雰囲気です。

 

 

 

 

 

 

 

 

現在は一部が旅館として営業しているようですが、空き家かな?と思わせる家も数軒あります。こうした元遊郭の建物というのは全国的に見ても珍しいと思うので、何とか残してもらいたいものです。

 

 

おそらく本物と思われる駕籠。これも本来なら博物館などに陳列されるべきものではないでしょうか。野ざらしはちょっともったいない。

 

 

 

 

 

さて、橋本宿といえば鳥羽伏見の戦いにおける最後の戦闘が行なわれた場所でもあります。

 

 

(慶応四年)一ヶ月六日朝七時頃、山崎天王山下関門藤堂和泉守固め、八幡山は松平越中守兵、戸(田)采女正そのほか歩兵相固める。橋本宿は会津兵、新選組、遊撃隊、見廻組固める。(『浪士文久報国記事』永倉新八)

 

 

前日の戦闘で鳥羽・伏見の両街道で敗れた旧幕府軍は、八幡から橋本にかけての地域に再結集し薩長軍に決戦を挑みました。対岸の山崎には藤堂藩の砲兵陣があり、迎撃の体勢としては理想的だったと思われます。

 

 

が、その藤堂藩が薩長方に寝返り、旧幕府軍めがけて砲撃を開始した結果、旧幕府軍は一敗地に塗れ、大坂への撤退を余儀なくされてしまったのでした。

 

 

下の写真は橋本の渡しの碑です。少しアスファルトに埋まってしまっていますが、「柳谷わたし場」と書いてあるのだと思います。柳谷とは対岸の山崎にある柳谷観音のことのようです。

 

 

 

 

 

奥に見える道路は京都・大阪府道13号線(京都守口線・旧国道1号線)ですが、当時こんな高い土手(土塁)があったなら「藤堂の逆さ鉄砲」も防げたのだろうか。・・・そんなことを考えながら階段を上って13号線に出てみました。

 

 

が、横断歩道がありません。しかも歩道もなくほんの数十センチ程度の路側帯が申し訳程度にあるだけで、大型トラックが通った時は正直怖かったです。ここを歩くのは危ないから河原に降りようかと思いましたが、河原に降りられるような階段などもなく、斜面が結構きつく雑草も生え放題になっていたので、危なかったので断念しました。

 

 

ともあれ、道路を壟断して路側帯から撮影したのが下の写真です。

 

 

 

 

 

河原も中洲も荒れ放題、雑草生え放題になっていました。ちなみに向こうに見える山が天王山で、その麓が山崎です。山の左下に見えている建物群がサントリーの山崎工場だったと思います。あのあたりに藤堂藩が陣を構え、こちらに向けて大砲を撃ってきたということになります。

 

 

 

 

 

しかし、鳥羽伏見の戦いだけでなく、豊臣秀吉と明智光秀の天王山の戦いの舞台ともなった場所です。つまりその後の日本の歴史を決定づけるような重要な戦いが二度も行なわれた場所だと思うと、この現状は残念というほかありません。更に言えば、前述のとおり木津川・宇治川・桂川の3つの川が合流して淀川になるという、地理的にも重要かつ面白い地点でもありますが、雑木林に埋もれてしまって、あるはずの中洲も見えません。自然・歴史公園として整備されればニーズは結構高いと思うのですが、何とかなりませんかね。

 

 

京都府などの自治体が難しいのなら、対岸のサントリーさんが頑張ってお金出して整備してくれたらいいんですけどね。あ、そう言えば最近のあれやこれやで広告費結構浮いたりしてないですかね(笑)

 

 

最近のあれやこれやといえば、京阪電鉄の車内や駅にあったはずの「ひらパー兄さん」のポスター、撤去されていたみたいで一度も見かけませんでした。まあ、子供向け遊園地なので、今回のような問題には敏感にならざるを得ないというのは理解出来ます。ただ、いきなり取っ払っちゃって「なかったこと」にするのも、それはそれでどうかという気もするんですけどね。