京都代官 小堀数馬(3) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

父の跡を継いで若くして京都代官に就任した小堀数馬ですが、正直あまり評判はよくなかったようです。史料に残っているだけでも、父の代からの朝廷との癒着が指摘されたり、幕府の認可を得ずに御所内や公家屋敷の普請を勝手に請け負ったり、長州と近かった七卿落ちの公家たちと親しかったことが報告されたり、和宮降嫁の際にも随行する公家衆の道具類などの調達を勝手に独占したり、はたまた皇族や公家領から徴収した年貢を私的に備蓄し、幕府に上納しなかったりといった話が残っています。

 

 

年貢を上納せずに個人で蓄えていたとか、絵に書いたような悪代官ぶりだと思えますが、十代の頃に天保の飢饉を経験していることや、禁門の変や長州征伐など度重なる軍事行動によって、ただでさえ高騰していた米価が更に値上がりし庶民生活に大きな打撃を与えていた当時の状況を考えると、何か彼なりの思惑あってのことだったのかも知れません。

 

 

そして大政奉還後の慶応三年(1867)十二月十三日のこと、山陵奉行戸田忠至は朝廷に呼び出され、宮中の御用金が甚だ不足していることを告げられます。「どうにかせよ」というわけです。戸田忠至は幕府瓦解の今現在、金銭の調達は難しい旨を説明しますが、強いて資金調達を求められたため、「この上は慶喜へ申談出勤致せし候ほか手段これ無く、決死の覚悟で」大坂に下り、慶喜に面会して朝廷への献金を進言したところ、小堀数馬が所有している収納金を朝廷に献上せよとの指示を受けました。

 

 

この慶喜の命によって小堀数馬から朝廷に金銭が献上されました。一説に五万両とも言われていますが、この金は「丁卯十二月より辰正月御出兵御用途」つまり鳥羽伏見の戦いの軍資金として利用されたといいます(『戸田忠至書止』)。つまり、徳川慶喜は自分を討伐するための軍資金を提供してしまったということになります。

 

 

その鳥羽伏見の戦いですが、小堀数馬は病気を理由に出兵しなかったようです。そのため慶応四年(1868)五月十五日には「慶喜反逆に随わず、大義を存じ候」として朝廷より本領安堵を受けています。

 

 

この病気というのは、時期が時期だけにいかにも仮病のように思われますが、翌明治二年(1869)十月には婿養子の右膳に家督を譲り隠居します。そして

 

 

『小堀右膳忌服届』(国立公文書館デジタルアーカイブ)

 

仮服書付

 

父数馬、俄に病気のところ養生叶わず、今二日寅刻死去仕り候。これに依り

 

仮 五十日

服 十三ヶ月

 

右の通り着服。もっとも混穢仕り候段、御届申し上げ候。以上。

 

上士

 雀部錬之進触下

十一月二日 小堀右膳

 留守官御伝達所

 

 

残念ながら何年の十一月二日なのか、この史料には書かれていないのですが、留守官(京都留守官)というのは明治二年三月二十八日から明治四年八月二十三日までの短期間設置されていた機関であるため、十一月に留守官に死亡届を出すことが出来たのは明治二年か三年だということになります。上記の隠居願いの件と合わせて考えると明治二年だったのではないでしょうか。年齢はわかっていませんが、まだ四十代前半だったのは間違いないでしょう。

 

 

若くして病死するというのは、当時としては決して珍しいことではありません。ただ隠居と死が箱館戦争の終結後、つまり徳川幕府復権の可能性が完全に消滅したのを見届けた後であることを考えると、その実は自害だった可能性もあるように思われます。

 

 

仮に朝廷や長州と関係が深かったとしても、やはり先祖代々の徳川家への恩顧の気持ちは強かったのかも知れません。代々小堀家で世襲してきた京都代官という立場上、忠義を示す形というのも自ずから限られていた、という見方も出来るように思われます。だとすれば彼もまた時代の犠牲者だったのかも知れませんね。