文久三年(1863)末から京都に潜伏していた望月亀弥太は「松尾甲之進」という変名を用いるようになります。本名と見比べてみると「望月(=満月)」に対して「松尾(松の枝先)」、そして「亀」の「甲」と、ずいぶん洒落の効いた名前ではありませんか。・・・本名を推測しやすい変名もどうかとは思いますが。
一方、同年九月に脱藩し、長州三田尻に入っていた中岡慎太郎は、翌元治元年(1864)一月に三条実美の使者として上京。石川清之助と名を変え、楢崎龍の回想とは異なり、長州藩邸を拠点として活動していたようです。無論、大仏の借家に住む龍馬や亀弥太に会いに来た可能性は大いにあるでしょうが、同居の事実に関しては疑問ありといったところでしょうか。
一方、亀弥太はというと在京の土佐藩士山本順蔵の日記に
(元治元年)二月二十六日
過日、安岡金(安岡金馬)も脱走して浪花に来たり、龍馬、亀弥太、虎之助(千屋)などと勝麟太郎と崎陽(長崎のこと)へ行く。もっとも乗船の由。勝は英船の儀に付、下曽根金三郎と幕より差し立てられ、二月十四日出帆の由。当夜兼馬(山本)、石川(中岡)と対面さする。
五月十日
当日長邸に行き誠之介(石川清之助=中岡)に逢い機密略す。今日望亀(亀弥太)浪花より来るという。
とあり、二月十四日頃から五月初め頃までの間、龍馬や千屋寅之助、勝海舟らと共に長崎に行っていたらしいことがわかります。また、その一年前の文久三年五月には大仏借家の同居人である北添佶摩が、同じ土佐脱藩の能勢達太郎、小松小太郎を引き連れ蝦夷地の実情調査に赴いており、龍馬の甥の高松太郎も龍馬の指示を受け、蝦夷との物資交流計画を実現させるために奔走していました(『土佐史談』)。
生野の変(文久三年十月)の首謀者で、のちに北海道庁長官(第四代)となる北垣国道は、晩年の回顧録『塵海』の中でこれらの動きを「北地策」と呼び、「坂本、千屋、望月等、皆我が信友なり」とした上で蝦夷地開拓のための計画であり、勝海舟門下に「同意者すこぶる多し」としています。亀弥太は坂本龍馬と共にその中心的役割を担っていたものと思われます。
※.北垣国道