望月亀弥太(4)潜伏生活 | またしちのブログ

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文久三年(1863)十二月、望月亀弥太は土佐への帰国命令に反して脱藩することを決意し、再び京都に潜入しました。

 

 

ウィキペディア『望月亀弥太』には、脱藩後は長州藩邸に潜伏していたと書かれているのですが、のちに坂本龍馬の妻となる楢崎龍(お龍)の晩年の回想録である『反魂香』によれば、「京都大仏南の門、今熊の道、河原屋五兵衛の隠居処を借りて」坂本龍馬と中岡慎太郎、本山七郎(北添佶摩)、松尾甲之進(望月亀弥太)、大里長次郎(大利鼎吉)、菅野覚兵衛(千屋寅之助)、池内蔵太、平安佐輔(安岡金馬)、山本甚馬、吉井玄蕃、早瀬某らが共同生活をしていて、お龍の母貞と末の妹の君江が賄いと留守番役のために同居していたといいます(参照『池田屋事件の研究』中村武生)。

 

 

この「大仏南の門」は現存しており、現在は蓮華王院(三十三間堂)南大門として国の重要文化財に指定されています。

 

 

※.蓮華王院南大門

 

 

また「今熊の道(今熊野道)」は新熊野(いまくまの)神社の前を通る東大路通の俗称と思われ、彼らが共同生活を送っていた「河原屋五兵衛の隠居処」は蓮華王院南大門と東大路通の間、現在の京都市東山区本瓦町付近にあったものと思われます。

 

 

※.「土佐志士寓居跡」の碑(右手前)。この一帯の住宅街が本瓦町。なお道路右側の電線がL字になっている先の黒く見えるのが南大門で、そのずっと先に京都タワーが見える。東側から撮影。

 

 

この「大仏南の門」の借家の様子が、池田屋事件に関する『肥後藩国事史料』の記述の中にあります。いわく

 

 

大仏表へ罷り越し聞きつくろい候ところ、同所の境にて貸家を借り、この五六十日以前より佩刀の賊六七輩罷り在り候。内一人を大将さん、大将さんと相唱え、出入り駕籠からに付き、面体、格好など近隣の者も見受けたる儀これ無く、その余の面々いずれも出入り深笠にて、間々夜五つ時、或いは四前後に帰り来る。

 

夜々話し声いたし候内には婦人の言をも追々相聞こえ、さてまた年七つ八つくらいの子供一人同居これ有り。これは髪を唐子輪に束くくり、袴着風俗さながらお公家さんの御子達に劣らぬ様に相見え居り候由。

 

 

訳しますと

 

大仏あたりへ行って聞き回ったところ、同所の境あたりで借家を借り、(池田屋事件の)五十日から六十日より以前から(住んでいた)刀差しの賊が六、七人いた。その中の一人を「大将さん、大将さん」と呼んでいたが、(その大将さんは)玄関先まで駕籠を使って出入りしていたので、その人相や格好など、近所の者たちも見たことがなく、その他の面々もいずれも笠を深くかぶっていて、夜の五つ時から四つ時前後(20時から22時ぐらい)に帰って来ていた(ので人相や格好は誰も見なかった)。

 

夜な夜な話し声が聞こえていたが、その中には婦人の声も時々聞こえていた。それから七つか八つくらいの子供(君江のこと)も一人同居していた。この子は髪を唐子輪(※)に束ねてくくり、袴を着ていて、その様子はまるでお公家さんの御子達に劣らぬほどであったという。

 

※.唐子輪…中国明代の女性の髪型を元に、前髪を真ん中で分け、髷は頭上でまとめ上げ、二つから四つの輪を作ってから根元に余った髪を巻き付けて高く結い上げる髪型。

 

 

「大将さん」はやはり坂本龍馬のことでしょうか。いずれにせよ、文久三年の八月十八日の政変以来、浪士探索はいよいよ厳しくなり、彼ら土佐脱藩浪士たちも笠を深くかぶって顔を隠さないと、おちおち町を出歩くことも出来ないようになっていたのでしょう。