望月亀弥太(3)勝と龍馬と脱藩と | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

文久二年(1862)十月十五日、土佐藩五十人組の一人として江戸に向けて旅立った望月亀弥太でしたが、河野万寿弥、依岡権吉、千屋寅之助ら十二名の同志と共に京に留まることになります。これは当時、英国の軍艦が兵庫に来航するとの噂があったためだとされています(『陸援隊始末記』平尾道雄)。

 

 

結局、英国艦兵庫来航の事実はありませんでしたが、それからほどなく、翌文久三年(1863)一月には藩命により幕臣勝海舟に入門し航海術を学ぶよう命じられます。勝の私塾や神戸海軍操練所の開設はもう少し先のことですが、勝は既に前年末にはその構想を周囲に打ち明けており、現地調査のために兵庫を訪れた後、一月には江戸に戻って来ているので、その間に何か話があったのかも知れません。

 

 

亀弥太は高松太郎(坂本龍馬の甥)、千屋寅之助と共に勝の私塾「海軍塾」と神戸海軍操練所に入門しますが、高松・千屋は共に土佐勤王党員であり、更にのちには坂本龍馬と共に海援隊を結成していることから、亀弥太の〝立ち位置〟が察せられるのではないでしょうか。

 

 

※.高松太郎(左)と千屋寅之助

 

 

 

ちなみに2010年放送の大河ドラマ『龍馬伝』の中で、亀弥太が緯度の計測方法を覚えるのに十日かかったことを陸奥陽之助に馬鹿にされ、ケンカになるシーンがありますが、実際の亀弥太は秀才であり、特に算術は他に抜きんでて優れていたので、師匠の勝は亀弥太に「国宝」とあだ名をつけたといいます(『維新土佐勤王史』)。さすがに「国宝」は持ち上げすぎで、からかい半分だったと思われますが、亀弥太がそれだけ優秀だったということでしょう。

 

 

※.『龍馬伝』第23回「池田屋へ走れ」より、陸奥にキレる亀弥太(演:音尾琢真。画像はお借りしました)

 

 

 

こうして亀弥太自身は順調に学問に励んでいましたが、その一方で同年四月には土佐勤王党の同志平井収二郎、間崎哲馬、広瀬健太が切腹に追い込まれ、同月帰国していた武市半平太も九月に逮捕されてしまします。

 

 

その九月の下旬、亀弥太は神戸を離れ、「京師模様探索の為」(兄清平宛本人書翰)京に上っていました。勝海舟のもとで学べという藩命に背いたことになるわけですが、年の瀬迫る十二月、そんな亀弥太に対して藩からの帰国命令が下ってしまいます。

 

 

はじめは素直に従い、同じく帰国命令を受けた千屋寅之助と共に大坂まで下り、大坂藩邸に入って次の沙汰を待っていた亀弥太でしたが、関所通行に必要な書状がなかなか発行されないことを怪しみ二人して脱藩を決意。藩邸を抜け出した望月亀弥太・千屋寅之助の二人は再び京をめざしたのでした。

 

 

※.勝海舟(左)と坂本龍馬(右)