望月亀弥太(2)土佐勤王党 | またしちのブログ

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文久元年(1861)、武市半平太らが中心となって土佐勤王党が結成されます。尊皇攘夷の実行を目指して結成された土佐勤王党ですが、意外なことに、その党員名簿である「土佐勤王党血盟者姓名簿」の中に望月亀弥太の名前はありません。

 

 

『維新土佐勤王史』(瑞山会/大正元年)では「血盟簿以外の勤王党同志人名録」として、岡田以蔵、豊永貫一郎、近藤長次郎、沢村惣之丞、野老山吾吉郎らと共に望月亀弥太の名が記されています。彼らの名が血盟簿にない理由として、同書では「遠隔の地に住し、あるいはその地位の利害より、あるいはその血盟手続をなす暇なく、あるいは血盟中止後に決起せる人々」としています。

 

 

実際の理由に関しては想像するしかないのですが、ひとつそのヒントになるかと考えられるのが、土佐勤王党の党員約文の中に、血盟は「異姓兄弟の結び」であるとの一文があることです。亀弥太の実の兄である望月清平は勤王党員であり「血盟簿」にも名前があるので、その清平の実の弟、つまり〝同姓の兄弟〟である亀弥太は、そもそも血盟に加わる必要がない、ということだったのかも知れません。いずれにせよ、亀弥太が土佐勤王党と同調する動きをしていたということは間違いなさそうです。

 

 

そして文久二年(1862)十月、江戸に騒乱の噂ありとして、当時江戸にいた山内容堂の警護を名目とし、土佐藩有志によって五十人組が結成されました。その結成にあたり藩の重役に提出された願書には山本三治(坂本龍馬の親戚)、島地磯吉と共に、当時新留守居組に属していた望月亀弥太の名前がありました。この五十人組に関しては、土佐藩上士で武市半平太とも交友のあった佐々木高行が「かねて武市半平太と申し合わせ」計画されたものだと日記に記しています。

 

 

望月亀弥太が同志と共に土佐を発ったのは、文久二年十月十五日のことだったといいます。

 

 

※.山内容堂