幕末ご意見番 太田資始(3)老中失脚と天保の改革 | またしちのブログ

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天保五年(1834)、太田資始は三十六歳にして老中に任命され、国政に携わることになりました。世は天保の大飢饉(~天保八年頃まで)、そしてその飢饉に起因する大塩平八郎の乱(天保八年)の勃発など、国難の時代でした。

 

 

ただ、はじめに謝っておかなければなりません。実は太田資始が、この天保期において老中としてどのような働きをしたのかを記す史料を、僕は見出すことが出来ませんでした。

 

 

ウィキペディア「太田資始」には、大坂城代時代に町奉行所与力だった大塩平八郎と交流があり、大塩は自著『洗心洞箚記』を資始に上呈していること、その大塩が幕閣の不正を糾弾する建議書を提出したが、その中で大坂城代経験者の老中の中では唯一糾弾されなかったこと、過激な改革を推し進める老中首座の水野忠邦とは意見が合わず、水戸藩主の徳川斉昭を押し立てて水野失脚を画策するが、失敗して失脚したことなどが書かれています。

 

 

惜しむらくは出典が示されていないことです。出典がわかれば、それを元にしてどうにか調べようがあるのですが、ここはウィキペディアの記述を紹介するに留めておこうと思います。

 

 

ともあれ、水野忠邦と対立し、政争に敗れた資始は、天保十二年(1841)に老中を罷免され、同年六月には太田家当主の座も、当時十五歳であった長男の資功に譲り、四十三歳にして隠居の身となりました。

 

 

同時代の女流歌人井関隆子の日記に、隠居に際して資始が詠んだという歌が紹介されています。曰く

 

 

むら雲の かからざりせば思ふこと

   まだあり明けの 月を見てまし

 

 

また、日記には資始の失脚についても「世の人さえあたら惜しみ思えば、まして自らの下の心ぞ思いやるる」と、世間の人々さえ残念に思っているのだから、資始本人は内心さぞ悔しかっただろうと書き綴っています。これは資始が当時の世間の支持を集めていたことを示しています。

 

 

余談ながら、資始はもともと備中守であったのが、後半生では備後守を叙任しているのですが、井関隆子の日記の六月三日の記事に「太田備中守資始」とあるのに対し、上記の短歌を紹介した同年八月十三日の記事では「太田備後守」とあることから、この間に備中守から備後守に替わったものと思われます。とすれば、息子資功に藩主の座を譲った六月十日を機に、備中守の位も資功に譲ったのでしょう。

 

 

 

 

 

 

※.太田資始を失脚させ、天保の改革を推進した水野忠邦