幕末ご意見番 太田資始(2)天保の大飢饉 | またしちのブログ

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太田備中守資始(すけもと)がどんな殿様だったのかを示すエピソードが、同時代の儒学者山田三川の『想古録』に紹介されています。曰く

 

 

書を読み、「忠臣、君を怒らす」と言える処に至りて深く感嘆し、我を怒らすものは忠臣なりとて、侍臣の諌争を奨励されたり。

 

 

つまり自分を怒らせるぐらいでなければダメだと、家臣の直言・諫言を奨励したというのです。説明するまでもなく、当時は殿様を怒らせてしまったら、最悪の場合、家名断絶や切腹も十分あり得た時代です。そんな中で、逆に俺を怒らすぐらいに、どんどん意見しろというのですから、資始が当時としてはかなり進んだ考えを持ったリーダーであったことがわかります。

 

 

・・・どこぞのワンマン経営者に聞かせたい話じゃありませんか。

 

 

※.どこぞの・・・

 

 

天保四年(1833)、三十五歳にして京都所司代に就任した資始ですが、この天保四年は春先こそ平年並みの陽気だったものの、六月以降は気温が上がらず、七月(現在だと8月下旬から9月上旬)は冷気が強く、当時の冬服である袷(あわせ)を着ていても寒気がするほどだったといいます。そして、この冷夏がもたらしたのが史上名高い天保の大飢饉です。

 

 

しかし資始の対応は早いものでした。六月の気温低下から飢饉を予想した資始は、まず自領の掛川藩においては、飢饉に対する備えが書かれた本『農諭』(※)を藩内の農村に配って予防策を学ばせ、米不足に備えて「お囲い米(備蓄米)」を使用出来るよう、幕府に許しを得て米を確保。更に松の皮(内皮)を粉末状にして米に混ぜて食べる方法を藩内に周知させました。

 

 

幸い、東海地方の農業の、冷夏による影響はそれほど深刻なものではなく、米は例年の七割から八割程度、麦や粟・黍・稗などの雑穀類は例年通りの収穫を得ることが出来たため、食糧不足に悩まされることはほとんどありませんでした。全国的な米不足から米の値段ははね上がりましたが、それでも掛川においては「米高値ほど人気なし」と揶揄されるほどで、一時は江戸や駿河に米を供給するほどだったといいます。

 

 

一方で深刻な被害を受けたのが、資始が所司代を務めていた京都でした。京都(山城国)自体の米の収穫高はそこまで大きな減産ではなかったようですが、都会であるがために消費量が多く、そこに来て大坂で起きた米価高騰の影響をまともに受けてしまい、深刻な米不足に陥ったのです。そんな中で資始は打てる手を打ちます。

 

 

『雑記後車の戒』(天保四年)

京都も米価高き事大坂に等しく、諸人大いに困窮に及びしかば、所司代太田備中守殿、下の難渋を憐れみて、自身の囲い米残らず下値に売り払い下を救い、その身は高値の価を出して米を買い求め、また麦を買い入れて日々麦飯を食わるるにぞ。

 

米価の高騰によって庶民が大いに困窮していることを見て、自身の囲い米、つまりは給料である扶持米を安値で売り払って米価の値上がりを押さえ、その一方で自分では敢えて高値で米を買い求めたのです。更には麦を購入して毎日麦飯を食べ、米の消費を減らすように努めていたというのです。しかも家臣や役人たちはもちろん、身分を問わず市中残らず麦や芋、大根などを混ぜた混ぜご飯を食べるように命じたのでした。

 

 

この、いわば「混ぜご飯令」は単に奨励するというのではなく、命令だったようで、役人が市中の裕福な商家などを見回り、もしも白米を食している家があれば、「高貴なお公家衆でさえ混ぜ飯を食しておられるのに何事だ」ときついお叱りを受けたといいます。

 

 

しかし、こうした施策も飢饉の根本的な解決法にはならず、その後も京都は米価高騰による米不足に大いに苦しむことになるのですが、当の資始はわずか一年で京都を去ることになってしまいます。翌天保五年(1834)、資始はついに老中に抜擢されるのでした。

 

 

 

 

※.『農諭』…下野国黒羽藩の家老鈴木正長が、天明の大飢饉の経験から飢饉・不作に対する備えを説いた本。