池田屋と中島町宿屋街 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

池田屋事件について色々と調べていますが、その池田屋を含む「三条小橋西入ル」の宿屋街の様子がどうであったのか、特にどんな順番で並んでいたのかという点がどうしても判明しません。史料によって順番がまちまちだったり、あったりなかったりする店があるのです。そこで、残念ではありますが店の並び順に関しては一旦調べるのをあきらめて、とりあえず今の時点で分かったことだけ書いていこうと思います。

 

 

まず、池田屋ですが元禄七年(1694 / 高田馬場の決闘があった年)刊行の『花洛名所記』にもすでに三条小橋北側に軒を連ねる宿屋の中に「池田屋惣兵衛」の名があり、江戸初期から代々営業を続けてきた老舗旅館であったことが分かります。

 

 

その池田屋を含む三条小橋西入ルの北側の幕末の様子ですが、『維新史蹟図説 京都の巻』(維新史蹟会/大正十三年)に「その頃の三条小橋には多数の旅館があった。池田屋が北側で尾張屋、みす屋、柏屋、十文字屋、近江屋、編笠屋、亀屋、ふで屋、中屋、大津屋と並んでいた」とあります。

 

 

また、『鴨の流れ』第14号(京都 維新を語る会/2006)に掲載されている、「文政十二年(1829)の旅館案内」とされる原書名不明の画像を、画像に写っていない名前の部分を可能なかぎり他の史料と照らし合わせてみると、おおむね以下のようになりました。

 

三条中嶋旅籠屋

 

大橋西詰南がは東より

目貫屋藤右衛門

八百屋新兵衛

小刀屋忠兵衛

近江屋文次

山城屋伊助

万屋甚兵衛

加賀屋久兵衛

日光屋

近江屋

升屋友三郎

西国屋吉兵衛

秋田屋権兵衛

 

同 北側東より

尾張屋五兵衛

柏屋半左衛門

近江屋次兵衛

亀屋嘉兵衛

中屋佑兵衛

池田屋惣兵衛

みす屋市兵衛

十文字屋平◯◯(兵衛?)

編笠屋八兵衛

ふで屋多兵衛

大津屋(利兵衛?)

吉岡屋弥吉

 

 

池田屋事件があった元治元年(1864)の40年前の史料ではありますが、北側の旅籠屋を見ると、順番はともかく屋号に関しては上記の『維新史蹟図説』とほぼ一致しているのが分かります。ただし、この史料には明らかな誤りが二つあります。一つは「大橋」ではなく「小橋西詰」であること、そしてもう一つは北側に関しては他の複数の史料から三条小橋詰にあったのは吉岡屋であり、逆に西端にあったのが尾張屋だったことが分かるため、おそらく「東より」ではなく「西より」なのだろうと思われる点です。

 

 

更に『維新史蹟図説』の方では吉岡屋が抜けている(つまりこちらも同様に西側から数えている)ことから中島町の宿屋街は南北とも12軒だったということになりそうですが、この「文政十二年の旅館案内」を元に図にしたのが↓になります。

 

 

 

ただし、このうちほぼ間違いなくこの場所だったろうと考えられるのは、現在も人形屋として現地で営業を続けておられる小刀屋のほか、北側の東から七軒目だとする史料が残っている池田屋、そして小橋の北詰であったことが複数の史料に記されている吉岡屋と、北側の西端とされる尾張屋の四軒ぐらいで、残りの宿屋に関しては池田屋事件当時に本当にこう並んでいたのかは不明という他ありません。

 

 

問題点・疑問点などいくつもありますが、思いつくまま箇条書きにしてみると・・・

 

・複数の史料に、幕末期に「三条小橋西入ル」に菱屋善右衛門の旅籠屋があったことが記録されている。また上記の『花洛名所記』(元禄七年)にも三条小橋北側に池田屋惣兵衛等と共に「ひし屋善右衛門」の名が記載されており、老舗の旅籠屋であったことがわかる。或いは屋号と店名を別にしていたのかも知れないが、なぜ上記の史料に名がないのかは不明。

 

・目貫屋は南側の二軒目とする史料がある。出典不明だが南側二軒目の目貫屋で新島八重が買物をしたという話が残っているらしい。また、目貫屋は三条大橋西詰にも店があったらしい。

 

・南側の東から一軒目が大津屋だとする史料もある。事実、明治維新後はこの場所に大津屋があったことははっきりしている。また『都商職街風聞』(文久四年版)には宿屋ではなく下駄屋として「三条小橋 大津屋利兵衛」の記載がある。或いは小橋のたもとにあったのは下駄屋の大津屋だったのかも知れないが、実際のところは不明というしかない。

 

・現在、同地に日光屋ビルが建っているが、場所は小刀屋の四軒隣になり、上図の場所とは異なる。

 

 

※.現地案内板の写真を拡大。昭和四年以前の様子で画面右が吉岡家、左が大津屋。

 

 

他に豆知識的な事柄として

 

・吉岡屋には清河八郎が安政二年(1855)に母と共に宿泊したことが『西遊草』に記されている。「暮れ頃ようやく三条に至り、小橋のかたわら吉岡屋なるに宿る」とある。

 

・同じく清河八郎の『西遊草』に、吉岡屋滞在中に小刀屋の使いの者が訪ねて来て、このたび店の者が国元(庄内?)に行くことになったので、もし手紙などあったらお預かりしましょうと言ってくれたので、手紙を書いて託したという話がある。

 

・吉岡屋には「くぎぬき亭」という別称があった。ネット検索すると修学旅行で吉岡屋旅館に宿泊したという話が残っているので昭和40年代ぐらいまでは存続していたと思われる。

 

・万屋甚兵衛は寺町姉小路下ル、加賀屋久兵衛は柳馬場六角下ルと、別の場所でも宿を経営していたことが他に史料で確認出来る。やはり宿屋はかなり儲かっていたんだと思われる。

 

・みす屋は裁縫針の老舗に同じ名前の「みすや」があるが、関係は不明。

 

・編笠屋は「三条小橋東阿美笠屋八兵衛」と三条小橋の東側に店があったとする史料もある。

 

・西国屋に関しては『肥後藩国事史料』に池田屋事件における池田屋内での戦闘に関する記述に続き

一、西国屋一兵衛儀は兼て打込の旅宿致し居り申す由。三人侍分一同に召し捕られ申し候。

とあり、事件当夜三人の武士が召し捕られたことが分かる。「一兵衛(いちべえ)」は「吉兵衛(きちべえ)」の誤伝と思われる。この三人は池田屋を脱して西国屋へ逃げ込んだのか、それとも元々西国屋に宿泊していた者たちなのかは不明。ただし状況的にみて召し捕ったのが新選組であるのは間違いないだろう。「兼て打込の旅宿致し居り」は「兼ねてから旅館業に専念していた」という意味?

 

 

等々、思いつくまま書き連ねてみました。まとまってなくて申し訳ありませんが、何か参考になりましたら幸いです。ともあれ、池田屋事件当時、三条小橋西側にこれらの宿屋があったことは間違いないと思われますが、店の並び順に関してはあまり参考にはならないかも知れません。

 

 

※.現在の中島町の様子。なるべく上記の古写真に近くなるよう撮りました。