幕末 京都の宿飯(1) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

幕末、京都の町には全国各地からそれぞれの主義や思想、あるいは剣の腕をもって国のために尽くそうとした若者たちが集まっていました。

 

 

屯所を充てがわれた新選組などの幕府側組織や、各藩の "れっきとした" 藩士たちはともかく、裸一貫京に出て来た、いわゆる浪士と呼ばれた人たちはどんな生活をしていたんだろうと興味津々なのですが、生活の実態はというと、なかなかそれを示すような史料がありません。特に寝泊まりしていた宿の具体的な様子というのがなかなか分からない。

 

 

そうこう思案しているうち、ちょっと面白いものを見つけました。それは『伊勢参宮献立道中記』と題されたもので、時代は残念ながら少しさかのぼってしまうのですが、黒船来航よりも前の嘉永元年(1848)に書かれた伊勢参りの道中記です。

 

 

筆者は不明ですが、讃岐国寒川郡神前村(現在の香川県さぬき市寒川町)の砂糖を扱う商人らしく、町村や商売仲間などで資金を積み立ててお伊勢参りをする「お伊勢講」の仲間20人ほどで伊勢詣でを果たしたあと、同年四月五日に近江大津宿を経て京に入り、同月十一日まで滞在しています。この道中記の面白いのは何を食べたのかを詳細に書き残していることで、幕末期の京の宿屋でどんな食事が出されていたのかを知ることが出来ます。以下、その内容を紹介したいと思います。

 

 

嘉永元年(1848)四月五日、昼飯は近江(滋賀県)三井寺の麓にあった鳥屋(おそらく料亭)でハスという川魚の煮付を食べています。このハスは琵琶湖とその周辺に生息する地の魚で、コイ科の魚なのですが、鯉とは似ても似つかない姿をしています。白身が美味しい魚だそうですが、20世紀の末頃に全国各地に放流され、生息域を広げている一方、琵琶湖ではブラックバスなど外来魚に押されて個体数が激減しているんだそうです。

 

 

その後、出立した一行は夕方には京に到着。三条大橋の東詰にあった美濃屋に宿泊することにしました。美濃屋は美濃屋徳左衛門が主人の旅籠屋で、京都の名店・名工を紹介している『商人買物独案内』(嘉永四年版)に「三条大はし東つめ丁 御定宿 みのや徳左衛門」と紹介されています。ここでちょっと話が反れますが、『商人買物独案内』で美濃屋の欄に「道中宿にて外宿より私方をいろいろと申し候とも、御聞き入れなく御入り来下さるべく候」とわざわざ書き添えられています。「道中の宿場で私ども美濃屋のことをいろいろと(悪く)いう人がいるかも知れませんが、どうか気になさらずいらっしゃって下さい」というような意味ですね。評判が悪かったのでしょうか。

 

 

美濃屋に入り、部屋に案内されると「宿のかか来たり、飯旅籠はいくらに仕るべきや。二匁五分又は三匁にいたすべきや」と聞かれます。宿の「かか」つまり女将が部屋にやって来て、「宿泊代はいくらにしましょうか。二匁五分にしましょうか。それとも三匁にしましょうか」と尋ねたというわけです。

 

 

結局宿代は三匁にしてもらったようですが、この三匁というのは銀三匁のことで、おおむね銀八十匁で金一両とされています。では一両は現在だといくらぐらいになるのかが問題なのですが、これは何を基準に判断するのかで大きく値が変わってくるようで、2000円程度とするものから20万円とするものまで、様々な計算があります。よく米価を基準に計算するといいますが、そもそも家庭の生活費全体の中での米代の割合も現在と江戸時代とでは大きく異なっているはずで、正解を導き出すのはなかなか難しいようです。

 

 

そこで今回は「Keisan」というサイトの「江戸 通貨の円換算」という計算ソフトを利用し、一両=10万円で計算してみました。なぜそうしたかというと、一発で計算出来て便利だったからです(笑)

 

 

その結果、美濃屋の宿泊代・銀三匁は現在だと5000円ということになりました。後述しますが、これで朝昼夜の三食付きなわけですから、現代の感覚でいうとかなり良心的な値段です。無論これはまだ黒船が来航する前の話であり、この後日本は欧米と不平等条約を結び、その結果、国内の物価は高騰します。更に京都には志士を自認する若者たちが各地から続々とやって来て旅籠屋を利用しているため、文久以降の京都の宿代はおそらくこの何倍にもはね上がっていたかも知れません。ただ、ひとつの目安と考えることは出来るのではないでしょうか。

 

 

・・・と前置きが長くなってしまいました。あまり長すぎると読みづらいと思いますので、肝心の献立の方は次回に紹介したいと思います。

 

 

※.美濃屋があった三条大橋東詰