森寛斎と新選組(4) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

自宅を幕府の役人に襲撃された森寛斎は、それからしばらくの間、清水三年坂の明保野亭に潜伏することになりました。

 

 

※.明保野亭跡

 

 

しかし、寛斎はめげることなく、その後も長州藩のために諜報・探索活動を行なっていたようです。そして元治元年(1864)。六月五日には三条小橋の旅籠池田屋にひそかに集まっていた長州派浪士たちを新選組が急襲し、寛斎は多くの同志を失ってしまいました(池田屋事件)。更に七月十九日には復権と名誉回復を求めた長州藩の兵が大挙京に押し寄せ、幕府軍と戦って壊滅(禁門の変)。この戦いで京の町は大火に見舞われてしまいました。

 

 

それから四日後の七月二十三日のこと。明保野亭に潜伏していた森寛斎は長州へと出立したといいます。簑笠をかぶって片手に徳利を提げ、農夫に変装して役人の目を逃れ、無事京を脱出したといいます。が、それから二時(ふたとき。約4時間)ほど後に幕吏が明保野亭を襲撃したので、もし寛斎が明保野亭を出るのが遅れていたら、この時斬られていたかも知れません。

 

 

という逸話が残っているのですが、しかし、この話にはいささか疑問があります。というのも池田屋事件の直後の六月十日に、明保野亭に長州人が潜伏しているという情報を得た新選組は明保野亭に出動しているのです。

 

よって速やかに新選組副長助勤原田左之助組それぞれ会津加勢人拾人召し連れ、明保野へ踏み込み、長州人壱人召し捕り、土州人四五人居るを残らず召捕るべくの処、逃げ去られ(『浪士文久報国記事』永倉新八)

 

 

俗に「明保野亭事件」と呼ばれる事件です。この時、加勢の会津藩士柴司が、逃げようとしていた土佐の麻田時太郎を槍で突いて負傷させましたが、麻田は浪士ではなく、れっきとした土佐藩士であったことから問題となり、結局柴司と麻田時太郎が二人とも切腹することで事態を収拾したことで知られています。

 

 

この明保野亭事件が元治元年の六月十日に起こったということは複数の史料に書かれているので間違いありません。だとすれば、森寛斎は新選組に踏み込まれた明保野亭に、その後一ヶ月あまりもの間、潜伏し続けていたことになってしまいます。或いは出入りを繰り返していたとも考えられますが、現実問題として、幕吏に目をつけられ、踏み込まれて仲間が捕らわれた場所に、敢えて留まったりするものでしょうか。

 

 

これはあくまで僕の想像なのですが、森寛斎が明保野亭を出たのがまさに六月十日だったのではないでしょうか。当時の寛斎は、既に自宅を襲撃されていることでも分かるように、今で言う "指名手配犯" です。寛斎の潜伏先の捜索を幕府側が続けていたのは間違いないと思われます。新選組に襲撃される二時前に既に明保野亭を出立していたというのが事実なのか、それとも実際は襲撃された際に逃亡したのかは分かりませんが、ともかくも明保野亭を六月十日に出て、その後上洛した長州軍に加わって禁門の変に従軍した後、敗戦後の七月二十三日に京を脱出して長州へ向かったと考えた方が、話は自然なように思えるのですが、いかがでしょう。そう、明保野亭事件の際に新選組が捕らえようとしていたのは、まさに森寛斎その人だったというわけです。

 

 

※.明保野亭跡。『維新史蹟図説』(大正十三年/東山書房)より。