『近藤勇』と明治一代女 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

先日、伊藤哲也先生からコメントをいただきまして、新選組映画の第一号は大正初期に製作された『近藤勇』だということを知りました。気になったので調べてみたところ、この初の新選組映画『近藤勇』は日活によって製作され、大正三年(1914)一月に公開されたもので、主人公の近藤勇を演じたのは森三之助という人だったということが分かりました。(山村竜也先生のコラム「幕末こぼれ話」参照)

 

 

そこで、この森三之助なる人物はどういう役者さんだったのだろうと調べてみたところ、ちょっと面白い話をみつけたので紹介したいと思います。

 

 

浮いた浮いたと浜町河岸(はまちょうがし)

 浮かれ柳の はずかしや

 人目忍んで 小舟を出せば

 すねた夜風が 邪魔をする

 

『明治一代女』は川口松太郎が昭和十年(1935)に発表した小説で、同年に自ら脚本を書いて舞台化し大当たりしました。同時に映画化もされ、映画の主題歌であった上記の歌も大ヒットしました。同曲はのちに美空ひばりをはじめ多くの歌手によってカバーされ、昭和歌謡のスタンダードナンバーの一つとなっています。

 

 

この『明治一代女』は、明治二十年(1887)六月九日に元柳橋の芸者で待合茶屋酔月楼の経営者であった花井お梅(当時24歳)が、経営をめぐる父親との対立から、店で雇っていた "箱屋の峰吉" こと八杉峰三郎を出刃包丁で刺殺したという、実際に起きた事件を元にしています。

 

 

※.花井お梅 -『東京情話集』(森暁紅/大正六年)より

 

 

お梅は当時の法律では謀殺罪(いわゆる計画的殺人)に該当し、死刑になる可能性もありましたが、自分の店を乗っ取られそうになり自暴自棄になっていたなど、動機に情状酌量の余地があるとして無期徒刑(現在の無期懲役)となりました。

 

 

が、明治三十五年(1902)に特赦となり出獄。その後は浅草で汁粉屋を営んだりした後、興行師にスカウトされ役者となり、自らの「峰吉殺し」を芝居に仕立てた劇で自分自身を演じ人気を得ました。こうした、犯罪を犯して刑に服した者が、自分の犯罪を舞台で再現するのを懺悔劇と呼んだそうですが、お梅はその走りでした。

 

 

その懺悔劇で峰吉を演じていたのが森三之助だったようです(『東京情話集』)。しかもお梅と三之助はいつしか私生活でも深い仲になりました。が、三之助には地方興行で行く先々に情を交わした女がいるのを知ったお梅は、次第に気持ちが冷めていき、別れてしまったという話です。

 

 

※.森三之助 - 『東京情話集』より

 

 

別れてしまった二人のその後はというと、お梅は大正五年(1916)に秀之助の源氏名で花柳界に復帰しますが、同年中に亡くなってしまったようです。一方、森三之助の方は本所寿座で新劇の座長となって成功を収めました。

 

 

森三之助に関しては「連鎖劇」で成功したとする記述が複数見られます。この連鎖劇というのは舞台と映画を複合させたもので、例えば前半は舞台で演じ、後半のクライマックスは映画を上映し、役者たちがセリフを充てるというようなもので、まだ無声映画しかなかった当時は大いに人気を集めたようです。

 

 

ただ、そうなると新選組映画の第一号とされる『近藤勇』も、実はこの連鎖劇であった可能性もあるのではないでしょうか。そうなると、ますますフィルムが残っている可能性は低くなってしまうでしょう。ただ、『東京情話集』をみると、森三之助の "情を交わした女" がいた町として仙台や山形の名があがっています。『近藤勇』もそれらの町で上演された可能性は期待出来るでしょう。そうなると、北海道にいた生前の永倉新八が『近藤勇』を観にやって来た可能性も・・・。

 

 

 

最後に本題から話は反れますが、『東京情話集』登場人物の写真を。

 

 

左上

澤村源之助(四代目) 安政六年(1859)- 昭和十一年(1936)。歌舞伎役者。悪婆と呼ばれる色気のある悪女役を得意とした女形で、「粋な女といえば紀伊国屋(源之助の屋号)」と言われる程の人気を誇った。数々の女性と浮名を流したことでも知られる。 

 

右上

市川猿之助(二代目) 明治二十一年(1888) - 昭和三十八年(1963)。明治四十三年(1910)二代目猿之助を襲名。現在の市川猿之助(四代目)と香川照之の曽祖父。

 

枡富家富子(ますとみや とみこ) 明治二十四年(1891)? - 没年不詳。浅草芸者。二代目市川猿之助の初恋の人という。のち親子ほど年の離れた澤村源之助の愛人となるが、身ごもって以来源之助と疎遠となりそのまま別れた。生まれた子は間もなく病死したという。

 

左下

花井お梅 元治元年(1864) - 大正五年(1916)。柳橋芸者宇田川屋秀吉(ひできち)を名乗った。明治二十年(1887)、24歳の時に父の知り合いで実業家の川村伝衛に身請けされ、実父の名義で待合茶屋酔月楼(すいげつろう)を開業するが、経営の実権をめぐり父と対立したことから雇い人の峰吉を刺殺し、無期懲役となる。服役中に自らの事件をモデルにした河竹黙阿弥作の歌舞伎「月梅薫朧夜」が上演され、一躍時の人となった。

 

右下

森三之助 生没年不詳。新派の俳優。花井お梅の懺悔劇で峰吉を演じた後、本所寿座の共同経営者兼座長となる。連鎖劇で人気を博した。

 

中下

喜多村緑郎 明治四年(1871) - 昭和三十八年(1961)。新派の女形俳優。