霊山墓地にある堤松左衛門の墓に関して、実は別の可能性もあるのではないかと考えています。
『肥後藩国事史料』の「轟武兵衛引取書」の中で、轟武兵衛は「長州人深く感心いたし東山の内、霊山と申す所に厚く相葬り、武兵衛儀も親兵にて再び上京いたし候節、墓参いたし候処、印は南季四郎と書き記しこれ有り。右は松左衛門変名にてこれ有り候」として、松左衛門の墓には「南季四郎」と印されていたとしているのですが、この「季」の字が、実は当て字なのではないかと思うのです。つまり、文久三年(1863)に建てられた、いわばオリジナルの墓にも「南木四郎」と印されていたのではないでしょうか。いや、現在霊山墓地の長州藩墓地に立っている南木四郎の墓こそが、文久三年に建てられた墓そのものなのではないでしょうか。
轟武兵衛が律儀な性格だったのか、それとも『肥後藩国事史料』を編纂するに当たって細かい校正が行われたのか、「轟武兵衛引取書」には他に人名の当て字等はなく、ましてや変名とはいえ自分の愛弟子の名前なので、当て字を使うだろうかという疑問もありますが、霊山墓地が創建されたのは慶応四年(1868)であり、松左衛門の(変名を用いての)墓が建てられてから、まだ5年しか経っていません。5年しか経っていないのに、その墓が堤松左衛門のものであるということが忘れられてしまうというのも、正直どうかと思います。
たしかに霊山墓地の墓は、ほとんどのものが同じような柱の形をしていて、創建時にいっぺんに造ったように見えます。南木四郎の墓も他の墓とほぼ同じ形をしています。
※.長州藩墓地
※.南木四郎の墓
そう考えると、長州藩墓地に立っている南木四郎の墓は、いかにも慶応四年に他の墓と一緒に造られたもので、文久三年に建てられた墓とは別物のように思えるのですが、実はそうとも言い切れないのです。
というのも、旧霊明社墓地にあたるエリアの端の、崖の際に4人の長州藩士の墓があります。この4人というのは楢崎仲輔、勝木又三、中谷豹次郎、松浦富三郎で、文久三年三月七日に河原町の長州藩邸内で切腹したとされる人たちです。こちらも柱型の墓なのですが、実はこの4つの墓は文久三年に建てられたもので、場所も建立当時のままなんだそうです。
※.長州四士の墓
つまり、文久三年当時から柱型の墓石が利用されていたということになります。そうだとすると、霊山墓地が創建された時に、文久三年に建てられた墓を元の場所から現在の場所に移した可能性も出てくるのではないでしょうか。
もし、そうだとすると「南木四郎の墓」は本物の堤松左衛門の墓ということになり、その下に彼の遺骨が収められている可能性も大いにある、ということになるでしょう。ただ、そうなると少し皮肉な話になるかも知れません。
というのも、南木四郎の墓には側面に「長州」と印されているのですが、長州藩墓地の他の墓も、ほとんどが同じように側面に「長州」と刻まれているのです。つまり、肥後藩の堤松左衛門であることを悟られぬために、わざと「長州」と入れたのに、本物の長州藩士たちの墓がそれにならった、ということになるかも知れないのです。もしそうだとしたら泉下の松左衛門、さぞや苦笑いをしたことでしょう。
(終)
【参考文献・史料】
『肥後藩国事史料』
『続再夢紀事』
『坂本龍馬関係文書』
『武市瑞山関係文書』
『維新土佐勤王史』
『堤松左衛門割腹始末』(東京大学史料編纂所データベース)
『尊攘並街談混雑録』(同)
『浦靱負日記』
『再撰 京洛名称図会 東山之部 巻二』
『大正大礼贈位内申書』
『靖献事蹟 山口県史略付録下巻』
『筑紫熱血 神州正気 前編』(野上嘉三郎)
『肥後藩の敵討事件について』蓑田勝彦(熊本史学/2007)
『幕末熊本最前線 物見櫓』
など