人斬り松左衛門(20)死に場所 | またしちのブログ

またしちのブログ

幕末史などつれづれに…

堤松左衛門は、どうして大日山を死に場所に選んだか、少し考えてみました。普通ならば、人の多い観光地をわざわざ死に場所に選んだりしないはずです。

 

 

大日山は王城鎮護のための岩倉があった場所であり、応仁の乱で西軍が東軍を破った場所でもあり、豊臣秀吉が東からの驚異に備えて城塞を築いた場所でもあります。そうした大日山の歴史が、尊王攘夷の思想と結びついたのかも知れません。

 

 

それと、もう一つ考えられることは、やはり大日山が肥後藩邸のある南禅寺の裏手にある山だという点です。脱藩して京に上り、ほとんど長州藩の預かり浪士のような形で活動していた松左衛門ですが、やはり故郷肥後を思う気持ちは強かったのではないでしょうか。

 

 

実を言いますと、天授庵(肥後藩邸)を含む南禅寺の境内から大日山を望むことは出来ません。下の写真は天授庵(右)と三門(左)の間から見た裏手の山の風景なのですが、実は見えている山は大日山ではないのです。

 

 

 

 

この山は独秀峰という標高197mの山で、別名を南禅寺山といい、尾根がきれいな弧を描いていることで知られています。大日山はその背後にあるため、南禅寺の境内からは直接目にすることが出来ないのです。必然的に松左衛門が命を絶った山頂からも南禅寺を直接見ることも出来ないはずです。

 

※.京都市動物園東南の広道橋から撮影した南禅寺・独秀峰・大日山

 

 

つまり、主君細川公を「見下ろす」という、家臣としての不敬を犯さずに済むわけです。京都生活が長かった松左衛門、あるいはそのことを知っていて、敢えて大日山の山頂を自らの死に場所に選んだのではないでしょうか。あくまで影から見守るというわけです。

 

 

そのことを含め、どうも松左衛門には強い望郷の念があったのではないかと思えてなりません。長州系浪士としての活動を余儀なくされていたものの、許されるならば肥後に帰って、河上彦斎や大野鉄兵衛(太田黒伴雄)ら、かつての仲間たちと一緒に活動したかったのではないか、いやもっと言えば、家に帰って家族と一緒に母の作るご飯を食べたかったのではないか・・・。

 

 

長州藩の重臣で当時京都にいた浦靱負は日記に書いています。「肥後処士南木四郎、実名堤松左衛門事。昨日大日山に於いて割腹仕り候に付き、その心事肥後に於いて君聴に達し候様仕りたく、肥藩有志の面々にも赤談に及び候得共、彼方要路否塞(※)仕り候由に付き、やむを得ず」

 

※.否塞…ひそく。とじふさがること

 

 

ここでいう「肥後に於いて」は、他の史料・伝聞の類いとは異なり、「要路否塞」つまり街道が通行出来なくなっていてたどり着くことが出来ないということから、肥後藩邸ではなく肥後の国のことを意味していると思われます。罰せられることはわかっていても、本音は国に帰りたかったのでしょう。

 

 

その「死に場所」大日山ですが、明治維新後、東京遷都で寂れる一方であった京都の復興を目指した事業の一つとして、琵琶湖の水を京都市内に引き入れる琵琶湖疏水が開削されたことに伴い、麓の蹴上(けあげ)の料亭・茶店が軒並み廃業を余儀なくされたことなどから、維新後は完全に廃れてしまったようで、現在、山はほぼ自然の姿に戻っています。

 

 

現在は東山周遊トレッキングコースの一部となっており、実は僕も足がまだ大丈夫だった頃に、一度行けるところまで行ってみようと挑戦してみたことがあるのですが、途中で道がわからなくなって、やむなく引き返したことがあります。あとで調べたらすぐ近くに全く同じ名前の大日山という山があるそうで、間違いやすいだけでなく、本命の大日山の方も山頂へ向かう道はなくなっているらしく、素人が装備なしの普段着で行けるような場所ではないようです。

 

 

仕方なく、ネットでトレッカーやウォーキング愛好家の方のブログ等を参照させていただいたところ、山頂には、かつての大日堂のあと思われる宝篋印塔や石組みの残骸などが残っているそうです。

 

 

堤松左衛門の遺体は、長州藩士たちによって翌日、すなわち文久三年(1863)三月二十四日には東山霊山の正法寺霊明社(現在の霊明神社)墓地に神式にて埋葬されました。