人斬り松左衛門(15)吉田平之助らのその後について | またしちのブログ

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文久二年(1862)十二月十九日の夜、江戸日本橋檜物町の料亭で起こった肥後藩士同士の争闘は、実際にはほんの数分の出来事であったと思われます。今回はこの事件の当事者となった人々のその後を紹介したいと思います。

 

 

まず、この夜の酒宴の主客であった横井小楠ですが、敵に立ち向かわずに仲間を残して逃げたのは武士にあるまじき態度であるとして切腹を命じられてしまいます。小楠自身も「有合いの物、棒にても何にてもおっとり駆け上がり、両人を助け身命限り働」くべきだったと後悔の念を書き残していますが、同月二十三日には越前行きを命じられ、翌文久三年(1863)八月まで福井に滞在します。

 

 

そして、その福井藩が小楠を擁護したため切腹は免れたものの、熊本に帰藩後は士籍を剥奪され、以後明治維新まで雌伏の時期を過ごすことになります。

 

 

一方、江戸留守居役であった吉田平之助は、頭部と股に深手を負うなど全身に五十一針も縫う重傷を負いました。それでも事件直後には口上書を提出するなど意識はしっかりしていたようですが、その後容態が悪化し、内藤泰吉の証言によれば事件の十五日後に死亡したといいます。

 

 

もう一人の都筑四郎は、素手で奮闘するものの堤松左衛門に斬られて負傷してしまいました。幸い傷は浅く、すぐに回復したのですが、肥後藩の処分は非常に厳しく、「敵を仕留めることなく取り逃がしたのは士道にもとる」として横井小楠同様に士籍を剥奪されてしまいます。

 

 

都筑はやむなく家族を連れ伊予(現・愛媛県)に渡り、しばらく浪々の身となっていましたが、慶応四年(明治元年/1868)のはじめに伊予松山にて黒瀬市郎助を捕らえ、豊後鶴崎(肥後藩飛び地)に連行すると、吉田平之助の遺子己久馬の仇討ちを助太刀して見事本懐を遂げさせました。この功によって、維新後に小楠と共に士籍の回復を許されています。

 

 

その黒瀬市郎助は事件後そのまま脱藩し、京大坂間に潜伏していましたが、文久三年の下関戦争(四国連合艦隊下関砲撃事件)に際して安田喜助と共に長州に向かいます。翌元治元年(1864)の禁門の変では実弟の藤村紫朗と共に長州軍に加わり、蛤御門の戦闘に参加しますが、敗れて長州に逃れます。

 

 

続く第一次長州征伐では長州鴻城隊に藤村紫朗と共に加わり、銃隊長として各地を転戦しますが、戦後長州を離れ、山陽道や四国を往来して各地の同志と連携を図りますが、伊予松山を訪れた際に藩吏によって捕らえられ、この報を聞いて駈け付けた都筑四郎に身柄を引き渡されてしまいます。そして慶応四年のはじめ豊後鶴崎に連行され、吉田己久馬と都筑四郎のよって討たれてしまいました。二月三日のことといいます。辞世の句は

 

しのびかね 国のためとて武士(もののふ)の

 思い立ちぬる武蔵野の原

 

いかにして 言の葉草につくすべき

 我にかわりて母に告げてよ

 

の二首だったと伝わります。享年三十三歳。

 

 

一方の安田喜助は、事件後黒瀬と共に脱藩して京大坂に潜伏しますが、下関戦争が勃発すると聞くと長州に向かいます。その時

 

大君のためと思えど なかなかに

 都をいづる身こそつらけれ

 

と、本音を綴った歌を故郷の父に贈っています。その後、黒瀬と共に禁門の変に参加し、敗れて長州に敗走します。そしてその後、長州の藩論が幕府への恭順に傾くと、これに憤慨して切腹したとも、恭順派に殺害されたともいわれています。享年二十五歳。

 

 

下の写真は霊山護国神社の霊山墓地内にある黒瀬市郎助(右)と安田喜助(左)の招魂碑です。背後に見える社は熊本招魂社ですが、この二人の招魂碑は熊本招魂社の敷地から外れているようです。また、後ろの石垣下に見えるのは他でもない横井小楠の招魂碑です。このまま永久に小楠に背を向け続けるのかと思うと、何とも複雑な気持ちになってしまいます。

 

 

 

安田喜助の招魂碑。「安田喜助保臣招魂之碣(いしぶみ)」と刻まれていますが、『大正大礼贈位内申書』などから、保臣ではなく久臣が正しいようです。

 

 

 

同じく黒瀬市郎助の招魂碑。「黒瀬市良助美之招魂之碣」と刻まれていますが、だいぶ傾いていしまっていて、そのうち倒れてしまうのではないかと、ちょっと心配です。

 

 

 

残る堤松左衛門のその後と横井小楠の最期は、無論別に書かなければなりません。