京都所司代の与力であった佐野正敬の手記によれば、その夜、九条家砂川屋敷にいたのは
宇郷玄蕃(40)
妻 加寿(34)
長男 寿千代(8)
長女 そのを(12)
次女 はるえ(5)
三女 しきを(2)
の家族六人のほか
下男 卯之介(14)
下女 そめ(41)
門番 弥助(55)
家来 久下栄之助
同 秦岩太郎
の十一人だったようです。妻の加寿は大将軍八神社の神主生嶋出雲の娘で、二人は結婚十四年目でしたが、その加寿がこの夜起きたことを詳しく証言しています。原文はかなり長いので要点だけかいつまんで、現代文に意訳したものを紹介したいと思います。
『宇郷重国妻賀寿願書』(文久二年閏八月二十三日)
お尋ねについての口上書
九条殿砂川下屋敷に住んでおりました、同家来宇郷玄蕃頭方へ昨二十二日夜五つ時、見知らぬ帯刀人がやって来て、理不尽にも勝手口より侵入し、玄蕃の首を切って立ち去った件について報告いたします。
玄蕃頭の父は伊豆守と申し九条家の諸太夫をつとめておりましたが、先年亡くなり、玄蕃頭が跡を継いで諸太夫となりました。私は西町大将軍神主生嶋出雲の娘で、嫁いで十四年になります。
私は持病のために、このところ臥せっておりましたが、昨日の夜五つ時(午後8時)頃、玄蕃頭が娘をあやしているところに、勝手口から土足のまま、いずれも手拭いで鉢巻をし、伊賀袴を履いた帯刀人が五人ほど入って来ました。
玄蕃頭が「何事か」と声をかけたところ、そのうちの二人がいきなり玄蕃頭に切りつけました。他の二人は私が寝ていた布団を頭から被せ、「声を立てるな」と言って上から押さえつけられたので、私は身動きが出来なくなってしまいました。
布団を被せられていたので何が起こっているのかわかりませんでしたが、しばらくすると私を押さえつけていた帯刀人が手を離したので、私は玄蕃頭が心配で飛び起きました。が、既に玄蕃頭の首は討ち取られ、胴体だけが寝所に横たわっていました。胴体には数カ所の傷がありました。その上、掛けてあった槍一筋が失くなっておりました。
また、『佐野正敬手記』によれば他に馬提灯と弓がなくなっていた一方で、表に墨で「井筒徳」、裏に朱で「四番」の印のある「品」が残されていたといいます。提灯か何かでしょうか。
玄蕃があやしていたのは、当時二歳だった三女のしきをだったのでしょうが、その幼い子の目の前で惨劇が起こったことになります。せめて母の加寿同様に布団をかぶせられて、父の死ぬ様を見ていなかったと思いたいところです。
※.九条家砂川屋敷跡(京都市左京区吉田上阿達町)