人斬り松左衛門(2)宇郷玄蕃の暗殺 その一 | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

肥後藩を脱藩して京に上った堤松左衛門ですが、その後の数年間の消息については実はよくわかっていません。おそらく長州藩尊攘派の庇護を受けながら活動していたと思われますが、その間の事情を知っていたであろう長州の久坂玄瑞や大楽源太郎、あるいは同じ肥後出身の松田重助らは、松左衛門のことを語り残すことなく死んでしまいまったのです。

 

 

 

時は流れて文久二年(1862)、安政の大獄や和宮親子内親王の降嫁に暗躍したとされる九条関白家の家臣島田左近が七月二十日に暗殺され、その首が四条付近の鴨川の河原に晒されたのを皮切りに、京の都では天誅という名の暗殺事件が相次ぎました。

 

 

二ヶ月後の閏八月二十日には越後浪士本間精一郎が暗殺され、翌二十一日にその首が四条河原に晒され大騒ぎになりましたが、その翌日、文久二年閏八月二十二日の夜のことです。

 

 

九条家の家臣に宇郷玄蕃頭重国(うごう げんばのかみ しげくに)という人物がいました。生年に関しては『佐野正敬手記』『幕末雑抄』に当時四十歳であったことが記されているので、文政六年(1823)生まれということになります。官名の「頭」を略して宇郷玄蕃と呼ばれていました。

 

 

宇郷玄蕃は九条家諸太夫の中でも筆頭格であり、それゆえに安政の大獄や和宮降嫁などの公武合体策の実現に力を注ぎ、それがために島田左近と同様に攘夷派過激浪士たちから命を狙われるようになってしまいます。

 

 

身の危険を感じた玄蕃は、鴨川の東側、川端通今出川下ルにあった九条家の下屋敷(通称砂川屋敷)に家族とともに移り住んだとされています。ただし、主人である九条尚忠が同年六月に関白を辞して出家し、九条村に蟄居していたことや、「九条御河原御殿の留守居致し居り候由」(『岡田良之助雑記』)と、そもそも砂川屋敷の留守居役だったとする話、また「江府に下り、この四五日以前に帰京仕り候由」(『伊藤家文書』)と、江戸に行っていて数日前に帰ってきたばかりだとする話もあり、身の危険を感じて移り住んだというより、役目で砂川屋敷に居住していたと考えた方が良さそうな気がします。

 

 

下図は九条家下屋敷付近(「改正京都町絵図細見大成」より)。中央が鴨川で、鴨川に流れ込んでいる小さな川が砂川(現在は暗渠になっている模様)です。北に並んでいる4つの寺院のうち浄土宗寺院である長徳寺・常林寺・正定院の三つの寺は「砂川三軒寺」と呼ばれています。ちなみに常林寺はのちに勝海舟が上京した際の宿舎となっており、そのため坂本龍馬ほか土佐の脱藩浪士が出入りしていたとか(常林寺の案内板に説明あり)。また、実際には法性院は少し離れて建っていて、宝性院と正定院の間には現在京阪電鉄の出町柳駅があります。

 

 

 

前置きが長くなってしまいましたが、文久二年閏八月二十二日の夜五つ(午後8時)頃のことです。宇郷玄蕃は、病気で臥せっていた妻の加寿(かず)の代わりに娘を寝かしつけていました。翌日には家族で出かけるつもりだったらしく、屋敷出入りの肴屋に折詰弁当を注文していたようです。

 

 

砂川屋敷の門番は弥助という五十五歳の男でしたが、その頃、五、六人の男たちが門の前まで来て「御本殿よりの御用」だというので、弥助は潜門(くぐりもん)を開けて男たちを中に通しました。おそらく弥助は男たちを待たせておいて、玄蕃に取り次いでから屋敷の中に案内するつもりだったのでしょうが、男たちは勝手に弥助のあとについてきてしまいました。