渡邊昇談話を読む(15) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

坂本龍馬と中岡慎太郎から「お前は危険だから大村へ帰れ」と言われたという渡邊昇ですが、だとすれば渡邊昇はこの事件の前に、何か別の事件を起こしていて幕吏に追われる身となったのではないかと考えられます。

 

では、この事件の前に渡邊昇が起こした事件とはいったい何だったのでしょう。考えてみましたが、実は「前に起こした事件」こそ京都見廻組西原邦之助の殺害だったのではないでしょうか。西原邦之助が殺害されたのは慶応元年(1865)の四月二日のこと、この時点で大久保一蔵の寓居に坂本龍馬・中岡慎太郎・渡邊昇が集まるとは考えにくい。むしろ西原を斬って一年後の慶応二年(1866)に彼らが上京して秘かに集まったのだと考えた方が納得がいきます。

 

だとすれば、慶応二年の事件とは何だったのか。実は慶応二年に起こした事件こそ新選組隊士の殺害だったのではないでしょうか。そう考えると渡邊の談話のつじつまが合います。見廻組の西原を斬られたことで、幕府としては何としても渡邊を捕らえたいところですが、何しろ渡邊はれっきとした藩士なので、捕らえたとしても大村藩から身柄の引き渡しを要求されたら帰藩させざるを得ないかも知れません。だから渡邊が秘かに京に潜入しているのならば、これ幸いにいっそのこと斬ってしまおうじゃないか、と考えたのではないでしょうか。少なくとも隊士を殺された見廻組としては何としても仇を討ちたかったはずです。

 

だからこそ、試衛館時代に渡邊と浅からぬ縁があった近藤勇としては、何とか渡邊を逃してやりたいと思ったと考えることが出来ると思います。「渡邊を殺してしまえ」と命令した町奉行に対して近藤は

 

「渡邊という男は年来の知己で、常に浪人という事が嫌いだと言っている男でござる。ついては彼は大村の藩士でござるから、貴殿から大村藩に命令して渡邊昇を差し出せ、と厳命され、ここへ引き出して斬首される方がいいではござらぬか」

 

と苦言を呈したわけですが、ならば近藤として、もしくは新選組としては見廻組など他の幕府組織よりも先に渡邊昇とコンタクトをとり、秘かに逃したかったはずです。無論、それは幕府に知られないよう、極秘の行動でなければならなかったわけですが、当然ながら近藤本人が渡邊と密会するというのは難しく、万が一露見してしまえば腹を切らされることにもなりかねません。

 

おそらく近藤は渡邊と接触させるために誰か隊士を使ったと思われますが、それはいったい誰だったのでしょう。