渡邊昇談話を読む(13) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

曲者が姿を消したけれど、それが却って怪しいのだ。で、四辺に気を配りつつ、二条の城の前を通った。

 

(中略)

 

そこを話しながら通って行くと、不意に背後から「渡邊っ」と鋭く大喝するものがある。只ならぬ気配に自分は腰なる大刀をグイを引き抜き・・・引き抜き様に後ろに振り向くと、果然先の曲者が不意を狙って斬り込んで来たのだ。

 

 

渡邊昇は二条城の前を通っていると、突然背後から「渡邊っ」と大声で呼ばれ、振り向きざまに斬り合いとなり、そのまま切り捨てたとしています。「二条城の前」というのは、常識的に考えれば城門のある方のことを意味していると思われますが、二条城の城門の前を通っているのは堀川通です。

 

 

その堀川通で、京都見廻組の隊士が斬殺される事件がありました。

 

『高木在中日記』慶応元年(1865)四月

三日 晴天。七ツ時より双天。堀川綾小路下西側、帯刀人壱人切られ倒れ居り候。夜同断(前月二十八日から夜は雨続きだった)

 

 

斬られたのは京都見廻組の平隊士西原邦之助でした。西原は持筒頭与力手伝役から元治元年(1864)七月に見廻組に登用された人物で、元は四谷鉄砲坂上に住んでいた三十俵二人扶持の御家人で、文政五年(1822)生まれの四十四歳。西原は京都見廻組の最初の犠牲者でもありました。

 

その西原の死後、息子の良太郎に役料などが相続されなかったため、一年後に佐々木只三郎、大沢源次郎ら見廻組の幹部が幕府に対して良太郎への相続が行われるよう意見書を提出しています。

 

 

右の者儀、昨丑年四月二日夜、探索の筋これ有り堀川綾小路下ル常念寺門前において、何者とも相知れぬ侍三人、理不尽に前後より切り掛け候間、すぐさま抜き合い候ところ、深手負い、相倒れ罷りあり候 (後略)

(「角田家文書」~『京都見廻組史録』より引用)

 

西原はすぐに旅宿へ運ばれましたが、「ことのほか重体」であり、治療の甲斐なく死亡したといいます。

 

 

※.京都見廻組西原邦之助が殺害された堀川通綾小路下ル附近。

 

 

 

西原邦之助が殺害された堀川通綾小路下ルは、二条城から南に歩いて10分ほどの場所ですが、直線の一本道であり、実際に歩いてみるともっと近いように感じました。泥酔していた渡邊昇なら、実はここらまで歩いてきていたのに、印象に残った二条城の前を、少し通り過ぎただけのように記憶していたとしても不思議ではないと思われます。

 

 

※.で示したのが堀川通綾小路下ルあたり。二条城前から目的地であった島原へ行く道程の中間にあたる。

 

 

 

その西原邦之助が殺害された慶応元年四月に渡邊昇がどこで何をしていたのかというと、この頃に坂本龍馬や筑前福岡藩の志士などの中から薩摩と長州に手を組ませ時局に当たらせるべきとする動きが出始め、福岡藩と連携していた大村藩もこの動きに同調するのですが、渡邊昇は大宰府に赴いて三条実美ら五卿とたびたび面会していたようです。

 

そこで坂本龍馬を紹介され、長崎に行って龍馬と面会してたちまち意気投合。龍馬に長州藩の説得を頼まれ、八月になって長州を訪問をしています。

 

つまるところ、ほぼ九州北部で活動していたので、京都に来ていたとは考えにくいのですが、しかし前回述べたように、御所の中かその周囲を酔ってフラフラ歩いていたのだとしたら、渡邊を尾行したのは新選組よりも、むしろ御所の警備にあたっていた京都見廻組の手の者であったと考えられ、そう考えると渡邊の証言と西原の死んだ状況が不思議と符合するのです。

 

 

ただ、それで渡邊昇のあとを尾行して、挙げ句に斬られてしまった黒装束の者は京都見廻組の西原邦之助ということで話が終わるのか、すべて解決するのかといわれれば無論そんなことはありません。そもそも西原をはじめ見廻組の隊士が渡邊昇のことを知っていたとは到底思えません。「渡邊っ」と声をかけるというのはおかしいのです。この時点で知っているはずがないと言い切っても良いと思います。

 

それに、そもそも慶応元年の時点で大久保邸に坂本龍馬、中岡慎太郎、渡邊昇の三人が集まるというのも、ちょっと考えられない話だと思います。ではどうなのかというところを次回考えてみたいと思います。