渡邊昇談話を読む(9) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

元治二年(1865/慶応元年)から慶応二年(1866)前半にかけての渡邊昇の行動については、残念ながらよくわかりませんでした。この間の慶応二年一月二十二日に薩長同盟が締結されるわけですが、大村藩は長州藩擁護の立場で動いていました。

 

そして慶応二年六月頃、渡邊昇は長崎をたびたび訪れ、薩摩の五代才助(友厚)や長州の伊藤俊輔(博文)らと会っています。伊藤とは倒幕論で口論の末、殴り合いの喧嘩となったこともあったといいます。

 

七月には下関に赴き高杉晋作と、更に山口で桂小五郎と面会、八月中旬に大村に帰るまで、約一ヶ月半長州に滞在していたことになります。続いて八月下旬に長崎で薩摩の村田新八と面会、村田に頼み込んで一緒に薩摩に入国し、西郷吉之助(隆盛)と面会しています。また、この時に滝口大作という変名を用いています。

 

ひと月空いて十月には再び長州に赴き桂と会い、月末に薩摩の黒田嘉右衛門(清綱)が桂と会談した際には同席しています。十一月に桂が長州の丙虎丸に乗船して薩摩へ向かった際に平戸まで同乗し、桂の依頼で平戸で銃の調達に当たっています。

 

明けて慶応三年(1867)正月三日のこと。この日、藩庁の玖島城において新年を祝う初謡(はつうたい)の儀が行われました。その夜のこと、下城して家路へと向かっていた大村勤皇党の針尾九左衛門と松林飯山がそれぞれの自宅近くで何者かに襲われる事件が発生しました。針尾は一太刀浴びせられただけで刺客が逃げ出したため、重傷を負ったものの一命は取り留めました。しかし松林飯山は背後から袈裟斬りに斬られ、殺害されてしまいました。胴体は真っ二つに切断され、文字通りの「一刀両断」だったとも、かろうじて一部がつながっていたともいわれていますが、いずれにせよ即死だったでしょう。

 

ちなみに『子爵渡邊昇氏談』では黒装束の新選組を二条城前で斬った話と、江戸の道場時代に近藤勇に乞われて練兵館の塾生を助っ人に派遣した話のあとにこの話を続けています。

 

そして、この事件を契機に襲撃犯と目され、佐幕派とされた藩士たちの粛清が始まります。主導したのは無論、渡邊兄弟をはじめとする大村勤皇党でした。「大村騒動」といわれるこの大粛清で藩主一門に連なる大村邦三郎、大村泰次郎が切腹に追い込まれたのを皮切りに、重臣を含む三十名近い藩士たちが斬首もしくは獄門の刑に処されました。

 

同年五月には土佐の中岡慎太郎が大村を訪ねて渡邊兄弟と面会し、一連の騒動に対して苦言を呈しています。そして翌六月には兄清左衛門が新精隊を組織して上京。この際に土佐藩の夕顔丸に乗船していますが、その航海中に坂本龍馬が「船中八策」を書き上げて後藤象二郎に示したとされています。

 

昇は八月に藩命を帯びて上洛し、兄清左衛門に対して「新精隊は一旦帰国すべし」という君命を伝えています。しかし清左衛門はこの命に従わなかったため、一時は兄弟で刀の柄に手をかけ、にらみ合うほどになりましたが、話を聞いた西郷吉之助が「今帰国してもらっては困る」と昇を諭したので、一部の藩士だけを帰国させることにし、兄弟もなんとか仲直りしました。

 

その後も昇は京都の滞在し続けたようですが、鳥羽・伏見の戦いを前に五島列島(福江藩)鎮撫の任務を与えられたため、戊辰戦争中は同地に滞在していたようです。

 

こうして見てみると、渡邊昇が京都に滞在していることが確認出来るのは元治元年(1864)十一月末の三日間と、慶応三年八月以降ということになります。浪士ではなく、れっきとした藩士であったことを考えると、記録に残らない独断での上洛というのも考えにくいと思われます。とすれば、やはり渡邊昇の談話には記憶違いあるいはは創作の部分がだいぶ盛り込まれているのではないかと思わざるを得ません。

 

 

※.維新後の渡邊昇。大阪府知事時代(明治4~13年)の写真と言われている。