攘夷の残花(17) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

パークス襲撃事件のもう一人の実行犯で、現場で死んだ朱雀操に関しては、これまで詳しい経歴がわかっていませんでしたが、幸い東京大学史料編纂所データベースに叔父(母親の弟)が書いた『濱某手記 林田貞賢英公襲撃始末』(以下『濱某手記』と略す)という彼の出自が書かれた史料があるのをみつけました。この史料をもとに彼の歩んだ短い人生を探っていきたいと思います。

 

朱雀操は本名を林田衛太郎貞賢といい、弘化四年(1847)十一月二十一日に「京師」つまり洛中で生まれました。新選組でいうと斎藤一や藤堂平助(1844年生まれ)の三歳下、近藤周平や三浦啓之助(1848年生まれ)の一歳上ということになります。

 

父は林田式之助といい、京都代官小堀家に仕えていました。林田家はもともと越前丸岡藩有馬家の家臣でしたが、衛太郎の曽祖父が何らかの事情で丸岡藩を離れて小堀家に仕えるようになったようです。

 

『県令集覧』(嘉永元年)という、幕府の代官とその家臣の名を記載した史料がありますが、京都代官小堀勝太郎の家臣として、「川方 林田式之助」の名前が確認出来ます。

 

 

※.『県令集覧』より。「川方 林田式之助」とあるのが衛太郎(朱雀操)の父。

 

 

京都代官とは京都町奉行の支配下にあって、京都周辺の旗本領及び禁裡(公家や女御など)の所領の管理と、京都周辺の河川の管理を行なった役職です。「川方」という役職にあった父式之助は河川の管理を担当する人物だったことがわかります。三枝蓊の証言に「林田は桂村出身」とあることから、桂川の管理を担当していたのでしょう。

 

実は桂村という村は江戸時代には存在しません。葛野郡(かどのぐん)上桂村と下桂村が存在したのですが、桂離宮があり戸数も多かった下桂村が、おそらく一般に桂村と呼ばれていたのだと思われます。林田式之助が川方に任命されて、林田家は洛中から下桂村に移ってきたのでしょう。

 

ちなみに、その下桂村の南西に位置していた隣村が川島村で、新選組伍長川島勝司の出身地です。ひょっとしたら二人は何らかの形で関わりがあったのではないかと思いますが、残念ながらその証拠は見つかりません。しかし、京都代官に関わる家柄かも知れないと仮定して探していけば、ひょっとしたら川島勝司の出自にたどり着けるのかも知れません。

 

 

少し話がずれてしまいましたが、朱雀操こと林田衛太郎の母は、父式之助の同僚の濱氏の娘でした。『県令集覧』をみると、たしかに小堀家の家臣に濱武之助という人物がいることが確認出来ます。この武之助が衛太郎の母方の祖父であるか、もしくは『濱某手記』を書いた叔父その人だと思われます。

 

 

※.『県令集覧』より。上段右から2人目が林田式之助、同じく左から4人目に濱武之助の名が確認出来る。

 

 

ちなみに霊山墓地の墓碑には「林田衛太郎貞堅」とあり、「貞堅」の漢字が一般に用いられていますが、ここでは『濱某手記』の記述に基づき「貞賢」の字を用いることにします。