攘夷の残花(7) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

三枝蓊こと市川三郎は、御親兵に加わるために京都に来たと供述しましたが、御親兵に加わるために訪ねたのが、『英国外交官の見た幕末維新』(ミットフォード著/講談社学術文庫)では「寺町通の本門寺」、一方、『英国公使館書記官ミットフォード寄書訳文』(倫敦タイムス社/東京大学史料編纂所)では「寺町通宝満寺」だったとしています。

 

が、京都の寺町通には本門寺というお寺も宝満寺というお寺もありません。両者に近い名前の本満寺(上京区寺町通今出川上ル二丁目鶴山町)というお寺が寺町通に存在するので、おそらくはミットフォード(とサトウ)の聞き違いか、日本語に訳した時に間違えたのではないかと思われますが、その本満寺、このブログでかつて何度か紹介したことがあります。

 

寺町通の本満寺は、実は京都に帰還した赤報隊が宿営とした寺であり、襲撃事件のちょうど半月前にあたる慶応四年(1868)二月十五日に下京の因幡薬師から陣を移して本満寺を屯営としているのです。三枝は事件当日(二月三十日)のこの尋問において「一昨日」、つまり同月二十八日に本満寺を出て城(二条城)に入ったと証言しているので、はじめは赤報隊が京都に帰還したという情報を得て赤報隊に加わろうとしたが、何らかの理由で赤報隊を離れて二条城の御親兵に加わったというのが、どうやら真相のようです。赤報隊は隊士を選抜して徴兵七番隊に改変されるのですが、新規の隊士を採用したかは不明であり、あるいは入隊を懇願したものの断られたのかも知れません。

 

では、三枝はなぜそういう経緯をたどったのかを考えるために、ここでひとまず時間をさかのぼって彼自身の生い立ちを探ってみましょうう。

 

三枝蓊の経歴については天誅組の同志であった北畠治房(枚岡鳩平)が明治三年に政府に命じられ、調査して書き上げた『三枝蓊履歴』があります。実はこちらには三枝蓊が本名であると書いてあるのですが、この北畠のものより、より具体的な記述がある『勤王殉国事蹟』(東京大学史料編纂所)収録の、友人の田中清夫なる人物が書いた履歴書があるので、そちらを軸に、やはり詳細な記述がある『大正大礼贈位内申書』(国立公文書館)なども参考にして三枝の経歴をふり返ってみましょう。

 

三枝蓊は大和国平群郡椎木村の真宗浄蓮寺住職市川浄運の次男として生まれました。生年月日は天保十一年(1840)の三月十三日もしくは四月四日といわれ、幼名を芳丸といい、兄弟は二男二女だったとされますが、三枝が跡取り息子であったことから兄は幼くして死んだものと思われます。また妹の一人はのちに広瀬郡古寺村(現在の奈良県北葛城郡広陵町)の順行寺に嫁いでいます。

 

父の浄運は摂津国河辺郡下坂部村(現在の兵庫県尼崎市)の百姓市川理平の息子でしたが、仏門に入り、のちに浄蓮寺の住職となりました。また、母の春賀(はるか)は大和国広瀬郡平尾村(現在の奈良県北葛城郡広陵町)の百姓青木徳平の娘でしたが、青木家はもともと越前福井藩の藩士であったのが、故あって武士を捨てて農民となったとされます。

 

少年時代に父浄運を亡くし、同郡安堵村の儒学者で医師の今村宗伯のもとで養育されました。儒学を今村宗伯に、歌学を伴林光平に学びましたが、特に歌学は同門中でも右に出る者はいないほどの秀才であったと、同じ伴林門下の北畠治房は書き残しています。

 

のち、父の跡を継ぐべく京都東本願寺の学寮に入って修行の日々を送ることになり、法名を浄正と名乗りました。しかし、この修業時代に学友に影響されて尊皇攘夷思想に傾倒したらしく、のちの彼の生き方を決定づけることになってしまいます。

 

また万延元年(1860)に故郷の平群郡を訪れた藤本鉄石に南画を習い、兀堂(こつどう)もしくは真洞と号しました。彼をよく知る者の記述には、この真洞の号を用いるものが多いようです。