攘夷の残花(6) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

知恩院はさながら野戦病院と化しました。負傷者たちは廊下に横たわりながら治療の順番を待ち、ウィリスら三人の医師はシャツやシーツを引き裂いて包帯を作り、汗だくになりながら次々と手当を施しました。幸い重傷者の二人以外はいずれも傷が急所を外れていて、命の危険まではないことが確認されました。

 

一方、事件の一報が朝廷に届いたのは午後4時頃でした。ちょうどフランス公使とオランダの外交事務官が明治天皇の謁見を終えて退室したところだったといいます。事件を知って朝廷内は大いに動揺し、徳大寺実則、東久世通禧、松平慶永、鍋島茂実らが次々と知恩院を訪れ、パークス公使に面会して明治天皇がこの事件を深く憂慮されていることを告げました。

 

パークス公使は、事件については新政府に処置を一任したいと申し出ましたが、その一方で以下の点を進言することも忘れませんでした。

 

・今回の事件は外国公使である自分に対してより、天皇に対して重大な犯罪を犯したものだと国民に理解せしめる必要があること。

 

・明治天皇は諸外国と友好関係を築くことを強く望まれており、「攘夷」は天皇の意志に背く行為であることを広く国民に知らしめること。

 

・外国公使が襲撃されたことは外交上の大きな問題となるため、新政府はイギリス政府及び公使である自分に対して書面によって正式に謝罪すること。

 

・武士とフランス水兵の衝突事件である神戸事件(慶応四年一月十一日)と堺事件(同二月十五日)は、いずれも武士の「ハラキリ」によって決着をみたが、今回の犯人には武士の特権である「ハラキリ」を認めず、庶民に身分を落とした上で打首に処するべきこと。

 

これらの進言は、のちにそのまま実行されることになります。

 

 

 

その一方で捕縛された暴漢に対する取り調べも始まりました。取り調べに当たったのは通訳士のアーネスト・サトウと、日本語が堪能であった事務官のアルジャーノン・ミットフォード、そして新政府の副総裁三条実美の家臣一人が取り調べに立ち会うことになりました。

 

その暴漢に対してはウィリス医師が丁寧に治療を施していましたが、ミットフォードも食事や煙草を与えるなど丁重に対応していたため、彼は次第におとなしくなり、取り調べにも素直に応じるようになりました。

 

男は姓名を市川三郎と名乗りました。ちなみにミットフォードの回顧録では本名を三枝蓊(さえぐさ しげる)としていますが、市川の方が本名で、三枝蓊はこの事件の時に名乗った変名です。彼は大坂の近くの浄蓮寺という寺の僧であり、今月(二月)の二日に御親兵に加わるために京にやって来たと証言しましたが、大坂の近くというのは嘘で、浄蓮寺は実際には奈良(大和国)の平群郡椎木村(へぐりぐん しいぎむら。現大和郡山市)にあります。

 

 

※.捕縛後の三枝蓊。下の文の一行目に「Itchi-kawa, Shabro(市川三郎)」とある。