なぜお梅は死ななければならなかったのか。
と繰り返し書いてきましたが、実は現場の状況を考えるとお梅が死ななければならなかった理由は簡単に説明がついてしまいます。
上図はこれまで何度か紹介した図を拡大したものですが、土方歳三ら襲撃者は玄関、つまり図の下の方から駆け込んで来て、寝ていた平山五郎を殺害したあと、芹沢鴨を襲うため間髪入れずに屏風を蹴倒しました。
芹沢が一旦逃れて隣の部屋に逃げ込もうとしたことを考えると、玄関側からみて手前にお梅が、奥に芹沢が寝ていたものと思われます。つまり、お梅は倒された屏風の下敷きになってしまったわけです。深夜であったこともあり、襲撃者からすれば倒した屏風の下に人の気配があったから、迷うことなく即座に刀を突き刺したはずです。そうしたら、運悪くそこのいたのはお梅であったということなのでしょう。お梅が死ななければならなかった理由は、それで説明がつきます。
が・・・・・・、
その蒲団の上へお梅が、これもどこを斬られたのか顔も髪も、ごたごたになる程の血だらけになって死んでいます。みんな「首がもげたそうだ。動かすな動かすな」などといっていましたから、首をやられたのでしょう。後に落ち着いてからも、一太刀で首の皮一枚残す位に斬られていたとの話でした。
~「八木為三郎老人壬生ばなし」-『新選組遺聞』(子母澤寛)
お梅は一刀の下に首が落ちるまでに切られ、芹澤も一太刀浴びたまま、障子を開く暇もなく、ちょうど芝居でも見るように、障子を突き破って私の寝ている部屋に逃げて来ましたが、入り口に机があったのにつまづいて倒れたところを二の太刀でついに殺されたのです。
~「隣の部屋から見た新撰組の剣戟」(大阪毎日新聞社/八木為三郎)-『八木家と新選組』
と、為三郎の証言ではいずれもお梅は首を斬られたことになっています。一方、永倉新八の『浪士文久報国記事』では、お梅は「床の上に苦しみ死す」とあり、即死ではなかったことをうかがわせ、為三郎の証言とは異なっています。
その一方で、先日の八木邸訪問でうかがった話はまったく違うものでした。首を斬られたのはお梅ではなく芹沢鴨だったというのです。壬生寺の墓地に埋葬するため戸板で運び出す際に、誰かが「首を切られているから、落とさないよう慎重に運べ」といったというのです。