お梅という女(7) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

事件の話に戻る前に、もうひとりの女性について少し話しておこうと思います。

 

吉栄も二十二三の可愛い女でした。やっては来たが平山がいないので、やはりお梅と一緒になって、かねて女中たちとも心やすいから、勝手の方で遊んでいました。

 

と、「八木為三郎老人壬生ばなし」に紹介される吉栄は、その一方で永倉新八の『浪士文久報国記事』では「桔梗屋抱え小栄」とされています。この「吉栄」と「小栄」はどちらが正しいのか、考えてみたのですが・・・。

 

おそらくはどちらも正しいのだと思われます。どういうことかといいますと、芸妓は先輩、いわゆる“お姉さん”に付いて修行し、そのお姉さんの名前から漢字一文字を引き継ぐという慣習があります。そのため、おそらく当時の桔梗屋には「吉鶴」「吉松」あるいは「吉香」など、吉栄同様に「吉」の字を用いた名前を持つ芸妓がいたのでしょう。一方、「小栄」は「こえい」ではなく「おえい」だと思われます。なので、芸妓としての正式な名前は「吉栄」だったのでしょうが、宴席で酒が進み、座が和んで打ち解けて来たら「お栄と呼んでおくれやす」というわけです。

 

では、「吉栄」はどう読むのでしょう。僕はずっと「きちえい」と読むものだと思っていたのですが、「よし江と云遊女」と書かれた当時の鳥取藩の風聞書があるようで、これだと「よしえ」になるのですが、「よしえ」だと「お栄」を「おえ」と読まなくてはならなくなるので、実際は「よしえい」なのでしょう。ただ風聞書というのは噂話を集めたものなので、若干疑問も残ります。

 

そこで何かヒントはないかと、『一目千軒』という島原遊郭の案内書を読んでみました。実はこの書は宝暦七年(1757)と、文久三年の100年以上前に発刊されたものなのですが、当時すでに桔梗屋は存在していました。

 

が、「下の町にしがは 桔梗屋藤右衛門」の「はし女郎の部」に、「げいこ きちや」と「げいこ よしまつ」と、「きち」よ「よし」の両方がいることがわかりました。これでは「吉栄」の読みを特定するヒントにはなりません。

 

というわけで、今のところ風聞書とはいえ「よし江」と書かれている当時の史料がある点、「よしえい」と読む可能性がやや高いといえますが、まだまだ決め手に欠けるといったところでしょうか。