お梅という女(6) | またしちのブログ

またしちのブログ

幕末史などつれづれに…

お梅がかつて島原の茶屋に勤めていたらしいこと、その後、菱屋に囲われたらしいことは良いとして、その出自に関しては「八木為三郎老人壬生ばなし」に

 

菱屋と私のところと、中へ隊士が入ってお百度を踏んだ末、ようやく三日目か四日目に、お梅の里が西陣にあって、この家で引き取って行きました。気持ちの悪い話ですが、もう妙な臭いがしていました。

 

とあり、西陣にお梅の里、つまり実家があったとしています。一方、『維新階梯雑誌』に以下の記述があります。

 

十六日之夜、壬生浪士之内、芹澤鴨、平山五郎と申者、堀川通長者町上ル材木屋へ罷越、右之娘と三人を切殺候。何者か不相分。一説ニハ同士の内ニ而殺候と申事也。此芹澤ハ浪士ノ内、頭取之者也しが兼而我儘増長せし故殺之由也。

 

若干文章がおかしいのですが、要するに「壬生浪士組の頭取芹沢鴨と平山五郎という者が堀川通長者町の材木屋を訪れたところ、材木屋の娘ともども殺されてしまった。一説には我がままが過ぎたので同志によって殺されたという」という内容であり、お梅を堀川通長者町の材木屋の娘だとしてます。ただし、いうまでもなく大きな事実誤認があり、鵜呑みには出来ません。また、長者町とは東西に伸びる通りの名前であり、上長者町通と下長者町通があります。その上長者町通の北側ひとつ上の通りが中立売通りですが、その中立売通を上がる(北に行く)ところにあったのが、実はあの大和屋です。

 

実は大和屋があった葭屋町通一条下ルと、堀川通(上下)長者町は、徒歩で3分ほどしか離れていません。もしもその北側の「堀川通上長者町上ル」だったとしたら、もっと近いということになります。ちなみに、上下長者町通は厳密には西陣エリアに含まれなかったようですが、西陣織の職人が多く居住していた場所であり、その西陣織職人たちは

 

大和屋庄兵衛と申す者、近年交易を専ら致し、大身上に相成り、十五、六万両くらいの身代に相成り居り、絹糸等多分買い〆、西陣織屋など迷惑致し

『大垣藩士水上熊十郎書簡』

 

昨年春頃、(大和屋が)糸を買い〆、高料に相成り候て、織物出来兼ね

(中略)

西陣一同風呂敷之三隅を取り袋の如く致し、町々を(さ)すらへ歩き候

『如坐漏船居紀聞』

 

と大和屋による絹糸の買い占めによって仕事が成り立たず、路頭に迷う者まで出ていました。芹沢暗殺の一ヶ月前に起きた大和屋焼き討ち事件に関しては、本当に壬生浪士組がやったのか、芹沢鴨が本当に主導したのかは議論のあるところではありますが、お梅が芹沢鴨、もしくは壬生浪士組に西陣織職人たちの苦境を告げたことが焼き討ち事件へとつながったと考えた方が、少なくとも話が面白くなることは間違いなさそうです。

 

 

※. 大和屋焼き討ち 『燃えよ剣』(昭和45年/NET・東映)より。