お梅という女(5) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

菱屋は実は四条堀川ではなく五辻通堀川にあり、文久三年当時、兄の跡を継いで当主となっていた太兵衛はまだ独身であった。このあたりの話を僕なりに想像を加えて解釈してみたいと思います。

 

まず、太兵衛は次男であって、兄が亡くなるまでは分家扱いとなっていたといいます。ならば、その分家、つまりは支店が四条堀川にあったとは考えられないでしょうか。というのも、四条堀川に関しては永倉新八や八木為三郎、あるいは西村兼文など、みな「四条堀川の菱屋」だと証言しています。四条堀川は壬生の屯所からさほど離れておらず、西村兼文はともかく、永倉新八は当然ながら新選組として市中見廻りの行き帰りや、私用で出かける際にも頻繁に通ったであろう場所です。しかも芹沢と一緒に死んだお梅のいた店、新選組とも少なからず関わり合いのある店の場所を知らなかったり、間違ったりするとは考えにくいと思われます。

 

同様に八木為三郎にしても、文久三年当時すでに十二、三歳だったわけで、家からさほど離れておらず、少年の心に強烈な衝撃を与えたであろう事件に関連する店を誤認するとは考えにくい。そう考えると少なくとも太兵衛が本家を継ぐ文久元年までは菱屋の支店が四条堀川にあり、文久三年には暖簾分けするなりしたとしても、少なくとも「元菱屋」は四条堀川に残って営業を続けていたとすれば、まあ、矛盾点のすり合わせにはなるかと思います。

 

そして太兵衛とお梅の関係ですが、やはりこちらも「菱屋の女房」もしくは「菱屋の妾」と、ニュアンスの違いはあれども、やはり菱屋の主人と男女の関係にあった女性であることは諸史料に共通しています。

 

ひとつには、太兵衛ではなく、亡くなった兄の妾という可能性もあると思いますが、僕はやはり、未婚であったといえども、太兵衛の情婦だったのではないかと思います。未婚のくせに妾を囲うとはずいぶんなものですが、そこは恋の路、抜け道もあれば裏通りもあったことでしょう。たとえば、分家の時に、「いずれ必ず妻にするから」と約束して、親の許しを得ないままお梅を身請けした。つまりは内縁の妻です。永倉新八のいう「菱屋と申す内の妾(もしくは妻)」というのは、まさにそういう意味なのではないでしょうか。

 

ところが兄が亡くなってしまい、太兵衛は図らずも本家を継がなくてはならなくなってしまった。身軽な次男坊の分家ならいざ知らず、由緒ある大店菱屋の跡取りとなると話は違ってきたはずです。しかるべきところの、しかるべきお嬢さんを、しかるべき形で嫁に迎えなければならなくなった。そうなると、お梅の存在は邪魔になってしまいます。

 

そんなこんなで、良い思案の浮かばないまま月日が経ってしまったところへ、文久三年二月、江戸から浪士組がやって来た。二百何十名からの大所帯です。当時の人々にすれば、当然ながら浪士組は将軍様のお供として、しばらく京に留まるだろうと思っていたはずです。おそらく浪士たちもそう信じていたでしょう。しかも、その浪士組が壬生に宿泊することになり、屯所のひとつが親戚の前川家の屋敷であったわけです。菱屋太兵衛からすれば、これは大きなビジネスチャンスだったはずです。

 

借金の取り立てに妾をよこしたという通説の方は、どうにも奇妙な話なのですが、これからご贔屓によろしく願いますという挨拶に、男所帯の浪士組に美人のお梅を送り込むのなら、じゅうぶんあり得る話だと思います。無論、太兵衛自身なり、番頭なりが付き添ったのでしょうが、むしろ、そうして菱屋の方からお梅を芹沢に近づけさせたのではないでしょうか。

 

その浪士組の本隊は、翌月にはあっさりと江戸に帰ってしまうわけですが、残った芹沢や近藤のグループは京都守護職会津藩のお預かりになって市中取り締まりの役目を仰せつかることになりました。そのうち隊士も増やすだろうから、菱屋にしたら、なんとか繋ぎ止めておきたかったはずです。あるいは菱屋の方からお梅の素性を「実はこれこれしかじか」と相談し、ちょっとひどい言い方をすれば、お梅を芹沢に引き取ってもらった・・・。

 

そのように考えれば通説にある不可解な点もほとんどなくなって、話としては、まあ、丸く収まるとは言えると思うのですが・・・・・・。